天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: 雛人形

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京雛の左上右下が関東雛において反転する基を築いたのは大正天皇なのよ。この時代は十五年間だったでしょ。三五七の十五なのよ。この時代はカバラの瞑想で精査するととんでもない時代だったことが見てくるの。

 

その皮切りは大正天皇の皇太子時代の神前結婚なのよ。それまでは人前結婚だったの。大正天皇の神前結婚以来一般に神前結婚が普及しているの。

 

それは十九世紀最後の年であった1900(明治33)年のことだったの。皇紀2560年のことなの。私の中では西暦も元号も皇紀もすべて天照大御神の暦だから、その暦で示されることに目を見張らされるのよ。

 

この時の神前結婚式では左上右下の並びだったの。それは伊弉諾尊と伊弉冉尊の昔からの定めだったのよ。男神が左回りに、女神が右回りに天の御柱をめぐって国生みがなされたの。女神が先に言葉を発して一度失敗してやり直しているのよ。

 

48.大正天皇・皇后 宣戦之詔書

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 そして天皇の即位礼が京都御所の紫宸殿で行われたのは1915(大正四年)のことだったの。何やら十五という数が大正天皇の持つ数霊の様に思われるのよ。

 

京都御所の紫宸殿と言えば前庭に右近橘と左近桜が植えられている場所なのよ。その即位式の天皇と皇后の高御座は当然左上右下の並びだったはずでしょ。京都御所の右近橘と左近桜で京雛の形だったのよ。


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 ところが大正天皇の即位後にこの左上右下が改められているの。大正ロマンの時代のことなのよ。諸外国では右側優位がその定めだったの。文明開化以来の外交儀礼に際し、この時に欧米化の波に皇室が飲まれたのよ。古事記の定めからはなれてしまったの。

 

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それに伴い関東雛がうまれたの。だから関東雛の男雛の右配置は欧米化の象徴なのよ。それ以降の天皇の儀式は皇后の右側に位置し行われているの。もしかしたらやり直しさせられるのではないのという危惧が頭をよぎるでしょ。


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そして大正天皇の崩御が大正十五年の十二月二十五日なのよ。即日改元されて昭和の元年は二十五日から大晦日迄の七日間だったのよ。昭和天皇が崩御されたのは昭和六十四年の一月七日だったので昭和最後の年は元旦から七日間だったの。

 

大御神が聖書の神様で七日間の意味することが飲み込めている人は何も感じずにはいられないはずなの。

 

そのように昭和の時代の幕が切って落とされているのだけれど大御神の暦に照らすと、この時代の特異性は特筆に値するはずなのよ。大づかみに見ていくと、私がまず注目するのは1940(昭和十五年)、皇紀二千六百年なの。

 

この年は大正天皇の神前結婚から四十年後なのよ。四十という数字も聖書では無視できない数でしょ。しかも十五という数もそこにあるでしょ。その年に国会で八紘一宇が国是と定められ人口に膾炙するようになったのよ。

 

この八紘一宇は神武天皇の御言葉に由来しているのよ。ところが五年足らずでそれが禁止される事態に追い込まれているのよ。それが昭和二十年の八月のことなのよ。二十年という数は皇大神宮の式年遷宮の数で、知られていなくてもイスラエルにおいてもかなり重要な数なの。

 

その八月に起こったことは少し前の記事に書いておいたけれども、私は八紘一宇に対する掟破りに天誅が降った月だと解釈しているの。その結果として戦争放棄が憲法に明記され新昭和の建設が始まっているのよ。

 

しかしこの国の人たちは何が掟破りなのか全く気が付いていないのよ。新昭和建設のための詔を発した天皇に対し、天皇の人間宣言と高を括り、その後はエコノミックアニマルと化したの。その結果何が起こったかというと十二月二十五日の大正天皇の例祭を忘れバチカンのお祭りを売り物にして経済を至上のものとしか思えなくなっているのよ。

 

政治の世界の右では葬式神道が保守とされ、左は進化論のマルクス主義なのよ。この時代で忘れてはいけないことに神道系とされる新宗教の勃興があるわよ。金神様信仰。この世界では神示やその教義が売り物にされるの。そこには霊的な怪異が絡んでいるから一筋縄では解きほぐせないのよ。仏教ではお葬式を売り物にしているでしょ。そそのかす蛇が大活躍しているのよ。その辺も次の機会にじっくりと書いてみようと思っているのよ。ネタはすでに満載なのよ。

 

そのように焼野原とされた同じ天皇の時代に経済大国に躍り出てしまったでしょ。私が一言でこの自分の生きたこの時代を言い表そうとすると一億総白痴の飽食の時代が来てしまったのねとなってしまうの。

 

そうしながらお正月の七日間で昭和の幕が閉じられ、新しい時代に移って行ったのよ。その三年前にはチェルノブイリの原発事故があったの。

 

そして八紘一宇の1940年から六十年後の次の年、2001年に天照大御神の心御柱の正体が出てきてしまったのよ。十九世紀の最後の年に大正天皇の神前結婚式があり、二十一世紀の始まりの年に大御神の心御柱なの。それが二十世紀の始まりと終わりだったのよ。

 

その間に失われたイスラエルの欧米化が一気に進んでいたのよ。その象徴が京雛と関東雛の併存なの。

 

そのように二十世紀を大づかみに俯瞰してみると、神様が人の前に置かれた呪いと祝福というものが私にははっきりと飲み込めるの。その左上右下を逆転させた大正天皇の十五が魔法陣なのよ。

 

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正という字が実は十五の魔法陣の象徴で、大正とはそのような時代だったのかと読めるでしょ。五が中心で七五三の十五なのよ。そして負ではなく正なの。

 

平成以降も八咫鏡の暦は大回転していて2001年には911があり2011年には311があったでしょ。ここでは三と九と十一なのよ。それはまた今度。この記事を先に結んでおかないといけないの。

 

京雛と関東雛の併存をどのように考えるかということ。

 

京雛の示している事は、西暦紀元前660年の皇紀元年から、神武天皇の建国を経た平安時代から大正時代に至るまで神様の玉座は失われたイスラエルに正対していたのよ。そこに本物の祝福があったのよ。壮大過ぎるかしら。私にはそう思えるの。

 

それを大正時代に逆転してしまったことにより昭和の時代にすでにやり直しさせられているでしょ。しかし大御神の、悔い改めよ、御国は近づいた。という御言葉は日本人にはいまだに他人事でしょ。そのようなことは、神様は太古から百も御承知なのよ。それで向きを改められる時代が来たということなの。

 

関東雛の示している事は神様の玉座を元の命の木のように後から拝しているということなのよ。神様のされることには呪いと祝福が併存しているの。私はどう解釈するかというと、今の時代はすでに神様に背を向けられてしまっているということなの。しかし神様が背を向けられたということは、関東から都を遷都するために渡御をはじめられたということなのよ。羊たちはその後塵を拝し導かれるの。

 

祝福された失われたイスラエルは掟の箱の心御柱の先導により約束の地に導かれるのよ。そこは千代の都で、その都で神前の結婚の儀が執り行われる運びになっているのよ。準備のできていない人は個人的なやり直しを迫られているの。羊は羊飼いの声を聞き分けるのよ。

 

ヨハネによる福音書 20

29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


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聖書に書かれている右と左ってあるでしょ。漠然としか理解されていないけれどもきっちりと理解するとどういうことになるかというお話。

 

インド人にとって左の手は不浄とされているでしょ。メシアは施しをする時は右の手のしている事を左の手に知らせるなと御言葉しているの。右の目が罪を犯すのであれば抉り出して捨ててしまいなさいとも。

 

ヨハネの黙示録では最後の審判において山羊は左に、羊は右に分けられるとされているでしょ。獣の刻印である六百六十六印は右の手か額に刻印されるの。そのように右と左ははっきりと区別されているわよ。

 

そこを分別して次のステージに上がるの。古事記がその分別を助けているわよ。伊弉諾尊の禊の時に生まれた三貴子がそのことを物語っているでしょ。左の目から大御神が生まれ右の目から月読命が生まれているの。ここには一筋の縄では解けない倒語(さかしまごと)の仕掛けがあるのよ。

 

私は理解するのに数年は要したわ。この記事ではその結論を書いてしまおうと思うの。

 

鼻から生まれた素戔嗚尊が中心で主神なのよ。その右と左なの。ところが陰陽道の呪術により右と左が反転させられているのよ。そこに置かれているのが八咫鏡なのよ。大御神の神道はすべてこの鏡を通して示されるのがお約束なの。八咫鏡を理解しないと迷宮入りするのよ。

 

この鏡は大御神の岩戸開きに際して調製され根付きの真榊の中の枝に掛けられたでしょ。その意味するところは人体のマニプーラのチャクラで、命の木のティファレトのセフィロトだったでしょ。ここが八宝珠の中心だったでしょ。わからない人は前記事の命の木について書いた記事を熟読してね。

 

その場所に鏡がかけられているのよ。それはイスラエルのカバラがメシアの復活以降弟子たちに明かされたことを意味しているのよ。

 

注意しなければいけないのは鏡というものの性質が左右の反転なのではなく、前後の透過だということなの。前後が透過しているから左右が逆転しているように見えるの。鏡に映した右手は鏡像の左手として映るのだけれども、右手はどこまで行っても右手なのよ。その鏡が真榊である命の木に掛けられ明かされているの

 

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そこで明かされているのは均衡の柱と慈悲の柱と峻厳の柱の並びなのよ。命の木は鏡像であり神様の玉座の前面の後面透過ということなのよ。

 

そう理解してよく見ると慈悲の柱は玉座の右に位置している事が分かるでしょ。慈悲の神のメシアは勝利を得て神の右に坐しているのよ。それが左目のように見える大御神の真の玉座の位置なの。

 

その主神と大御神の着座が京雛の左上右下なの。今でもそのしきたりにおいて京雛は飾られるの。関東雛の飾りにおいて逆転している事にはかなり大きな神秘が秘匿されているわよ。

 

この雛飾りは命の木を映していてそこには素戔嗚尊と大御神の誓約の物語が凝縮されていたでしょ。そのように見た時に気が付かなければいけないのは、京雛の雛飾りは玉座を正面から拝している形ということなの。女雛のメシアが右に坐している姿なの。


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 四段目の随身である右大臣と左大臣は右の柱であるメシアと左の柱の聖霊の並びなのよ。慈悲の柱と峻厳の柱の並びなの。左が優位だから左大臣が老人で右が若者と説明されるの。 

 

けれどもアブラハムとイサクとその親子二人の僕の誓約と聖書が暗示していることを考えれば右大臣の若者が御子で若頭なのよ。左大臣が僕として働く聖霊様であり、共にお働きになられた仏陀釈迦牟尼とみても間違いではないと思うの。

 

問題は五段目なの。そこには右近橘と左近の桜とその間に三人の仕丁がいるのだけれども、この右近橘と左近の桜が、神様が園の中央に生えさせられた二本の木で、命の木と善悪を知る木なのよ。その間にお仕えする人間たちがいるの。

 

この二本の木は命の木が橘で弟橘姫と岩長姫、善悪を知る木が桜で木花開耶姫(このはなさくやひめ)と古事記では暗示されているのよ。天孫瓊瓊杵尊が天下った先で岩長姫を送り返し木花開耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚したと古事記は語るのだけれども、そこにはとんでもないことが預言されているわよ。古事記には木花散る姫などという神様も登場しているの。その件はまた今度。

 

ここでの問題は右近の橘と左近の桜なのよ。御父と御子の左右の他にもう一つの左右の解釈があるの。この解釈の違いを識別しないから聖書の右も左もわからないのよ。この二つの左右の違いと関連を悟らなければならないの。

 

一言で言えば御父と御子の左右により、命の木の左右をどのように悟るか誓約で占われているということなの。その帰結により右と左に分けられるのよ。

 

善悪を知る木から取って食べて悔い改め、命の木に食い改めることができるかどうか試されているということなの。左の山羊として悔い改め、右の羊の列に加えていただかないととんでもないことになるとヨハネが黙示していたのよ。

 

右のメシアは慈悲の神様だから逆らっても許されるの。だから全員復活させられるの。しかし左の聖霊様に逆らったらこの世においてもあの世においても許されることはないというのがメシアの御言葉なの。

 

メシアを信じた時に送られてくる助け手はこの神様よ。宝船の、虹の七福神様なの。逆らった日には七殺の祟りの丑寅の金神と化すのよ。雷様でもあるわよ。ゴロゴロ鳴っているうちに悔い改めておかないと直撃を受けるの。だからカバラのくわばらくわばらなの。

 

そのような御父と御子の左上右下が大正時代に諸外国の右側優位にならい改められて、男雛が向かって左、女雛の右に飾られるようになったの。

 

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時代の中でカバラの八咫鏡の左上右下が大きく動きだしてしまっているのよ。それが今の時代なの。長くなるから続きはまたの記事で。

 

重陽の節句の後の雛ね。大人の雛祭りとも呼ばれるらしいわよ。


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 聖書の記述において最後まで私の頭を悩ませた言葉があった。

ヨハネが黙示録に書いた、六百六十六の刻印だ。

 

この刻印を受けた者でなければ物を売ることも買うことも

できなくされたという有名な聖句だ。

これが分かり説明できる人は滅多にいないと思う。

 

一知半解な解釈は巷にいくらでもあふれているが、

そのすべてが好奇心に付け込み商材としてこの記述を扱っているだけの

ものだ。しかしこれはヨハネの黙示録の中でも最重要な聖句だ。

 

ヨハネはこれを記述し、「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、

獣の数字を解くが良い。その数字とは、人間をさすものである。

そしてその数字は六百六十六である。」としている。

この聖句はヨハネの残した最大のカバラで、

日本風に言えば倒語(さかしまごと)なのだ。

 

この聖句の解釈を試みようと思う。


 切り口はいくらでもあるのだ。どこからメスを入れることもできると思う。

しかしこのヨハネのカバラは、日本の倒語(さかしまごと)を用いることでしか

解き明かせないのではないかと私は思っている。

 

ヨハネという人はキリスト・イエスの復活後のご神体から教えを受けている。

キリスト復活以前の預言者とは別格だ。それはヨハネだけではなかった。

四~五百人もいたと聖書に書かれている。これらの人が残したカバラが、

命の木のカバラを受け継いで、それを倒語(さかしまごと)として

この国の神道としたのだ。その倒語(さかしまごと)の使い手を

八咫烏と呼んでいる。そしてヨハネが元祖の八咫烏のはずなのだ。

 

であるから神道八咫烏はヨハネの六百六十六のカバラを知らないはずがないのだ。

そのような解釈から神道のカバラ・倒語(さかしまごと)の命の木である

雛人形からアプローチを試みたい。

 

このカバラとはそれを解明しようと試み、それに一生を費やして
この世を終えてしまった者が数知れないという難物だ。
しかし理解してしまえば、一生を費やすほどの物ではない。
それを理解した後の後半生が重要なのだと私は思っている。

であるから雛人形が日本の命の木であるように

実にあっけない結末が待っている。

 

雛人形の内裏雛は須佐之男命と天照大御神だ。

この須佐之男命と天照大御神が誓約(うけい)をしたことからすべてが始まる。

須佐之男命と天照大御神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

伊弉冉尊(いざなみのみこと)のメタファーだ。同時に天の御父と御子の

メタファーでもあるのだ。そうであるから誓約(うけい)

は、みとのまぐわいでもあり、天地創造でもある。


 この事が飲み込めていない読者は、何故そのような理解が成り立つのか、

他の記事を参照していただきたい。

 

それらをふまえたうえで鍵はどこにあるのか。それは天の安の河原にある。

この天の安の河というのは岩戸開きにも登場する重要な河だ。

そしてこの河は天の川を意味しているのだ。七夕の天の川なのだ。

 

彦星と織姫は須佐之男命と天照大御神のメタファーだ。

それは須佐之男命と天照大御神が天の安の河原をはさみ誓約をした

という古事記の記述が示している。

 

天の川は七夕の七の川だ。七の川を間に挟んで六と八が向き合っているのだ。

子供の謎々と思っていい。それが倒語(さかしまごと)の仕掛けだ。

誰もがそんなところに仕掛けがあると思わないから

うまい隠し場所になるはずだ。七の川をはさんで此岸と彼岸に

六と八があるのだ。六道と八正道が彼岸と此岸で対峙しているのだ。

 

これですべてわかったとならなければだめだ。

 

釈迦も先見者であるから当然のようにカバラは理解していた。

その上で五六七を示した。神道が七五三と示すのと同じで、

ヨハネの六六六と同じ倒語(さかしまごと)なのだ。

 

ヨハネは現世において彼岸の八正道に至らず、此岸の六道にとどまる者の

右の手と額に獣の刻印が押されると言っていたのだ。

 

お釈迦様が説いた解脱とはその刻印を受けることを防ぐための

作法だったのだ。カバラにおいては、七七七は、解脱者と八八八の

救世主とをつなぐための聖霊なのだ、九九九は何を象徴しているか

自ずと知れるだろう。

 

この999180度回転させると666になる。

666の六道の煩悩の穢れを禊がない者が、神の敵対者であるとヨハネは

示していたのだ。獣の刻印というのは解脱に至るまでの信仰において

神を分別しないものは獣と見做すという事なのだ。

 

物を売ることも、買うこともできなくされたという記述は

それを悟った後に考えればよい。


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 倒語(さかしまごと)とは日本書記にその記述がある。

日本書記から引用する。

 

「神武天皇が、国の政を始めたもうた日に、大伴氏の遠祖が

密計を承って、諷歌(そえうた)【他のことになぞらえて諭すために

表立たずについて歌う歌】や

倒語(さかしまごと)【相手にわからせず、味方にだけ

通じるように定めて使う言葉】で、妖気を祓い平らげた。

倒語(さかしまごと)が用いられるようになったのは

これから始まったのである。 引用ここまで

 

と、そのように書いてあるのだ。

これは神武天皇の治世の初日に、妖気を祓い平らげるために
諷歌(そえうた)や倒語(さかしまごと)を用いるよう密計による
みことのりがあったという事だ。

 

 私はこの記述に接するたびに、キリスト・イエスがたとえを用いないでは
何事もお語りにならなかった、という聖書の記述を思い浮かべる。

 

 なぜイエスはたとえで話すのかという問いに答え、豚に真珠を与えるのは良くない
とイエスが語ったと聖書には書かれている。

この言葉がすべてを物語っている。

 

神武天皇のお祓いとは、キリスト・イエスのお祓いであり、
それは十字架上のお祓いであり、それは神様からの賜物だ。
この賜物は、聖書により古代イスラエルから伝わるカバラなのだ。

 

カバラとは受け取りを意味する言葉だ。賜物を受けるという事だ。
豚とは信仰心のたりない人の暗喩なのだ。そのような人が賜物を受けるのは良くない、
ふさわしくないということなのだ。

 それをふまえて古事記は書かれていて、すべて神様からの賜物は、
信仰のある身内にしか通用しない諷歌(そえうた)や倒語(さかしまごと)で語るよう
定められている。それが妖気を祓うための神事なのだ。

 

イスラエルが授かったカバラの命の木と同じ物であり、その象徴は
様々な図象でシンボライズされ神秘家の間ではよく知られている。

 

日本の倒語(さかしまごと)はそのカバラの深みより深い。
メシアからの先見者たちへの直伝によるからなのだ。
それを命の木のように、それと知らせずにそこにあるのだ。

 

日本においてその象徴は雛人形だ。誰もがそれと気が付かない巧妙な仕掛けだ。

 

カバラを理解してしまうと命の木は神の天地創造から今日に至るまでの
すべての叡智が示されていると理解できる。
今日を超えて未来永劫までと言える。
日本ではそれが国歌において「千代に八千代に」と歌われている。

 

その象徴が日本にもある。日本人さえ全くそれと気が付かずにそこにある。
この日本という国を築いた先見者たちにより、
諷歌(そえうた)や倒語(さかしまごと)で示されながら日本にあるのだ。

 

日本の国体が賜物そのものであるのだが、カバラの命の木の象徴に匹敵しながら、
誰もがそれと気が付いていない象徴が、桃の節句の雛人形だ。日本人が聞けば
何と稚拙なことを言いだすのかと笑うだろう。そこに仕掛けの深さがある。
この安国の先見者たちは雛飾りにカバラの叡智をすべて詰め込み、
それと知らせずに神道のお祓いで国家を鎮護して来たのだ。
三月三日は三々九度に通じているのだ。

 

何故そのようなことを私が知り得てブログに書いているのかと
不思議に思われると思う。それはこの賜物が、その信仰がそれを受けるにふさわしい
とされたときに誰にでも天から降されるものだからだ。

 
 そのことがはっきり聖書に書いてある。信じる者には助け手を送ると書いてあるのだ。


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 今日は七夕だ。雨が降っているので天の川は見えそうにない。

神道における七夕なのだがこれがまた倒語(さかしまごと)により

とんでもないことを秘めている。彦星と織姫は須佐之男命と天照大御神なのだ。

 

先日の「雛人形と天の皇室」という記事に書いたのだが、須佐之男命と天照大御神が

男雛と女雛で、彦星と織姫はその内裏雛でもあるのだ。

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/967938.html (雛人形と天の皇室)

 

全ては須佐之男命と天照大御神の誓約(うけい)により始まったのだ。

この誓約は天の安の河を挟んで行われたと古事記に書かれている。

古事記には初めから天の川を挟んでいると書いてあるのだ。

 

この二神の誓約(うけい)で子が生まれた。

この誓約(うけい)だが、古事記の記述は完全な倒語(さかしまごと)で書かれていて

味方にしか意味が取れないように仕掛けがされている。

 

それを単純化して記述すると、須佐之男命の剣から三人の女の子が生まれ。

天照大御神が身につけていた珠(たま)から五人の男の子が生まれた。

それがそのまま雛飾りにおいて示されているのだ。

三人の官女が須佐之男命の天の叢雲の剣、
五人のお囃子が天照大御神の勾玉だと示しているのだ。

 

のこる神器の鏡は誓約(うけい)の物語には出てこないが、暗に、

須佐之男命と天照大御神が八咫鏡の象徴なのだ。

そして剣が三、勾玉が五、とくれば、暗に、八咫鏡は七なのだ。

雛飾りには、七五三のお祝い、桃の節句、端午の節句、七夕、

皇室の三種の神器が、神道の倒語(さかしまごと)で、味方にだけわかるように

配置されていたのだ。

 

この雛飾りにはそれだけではない、天地創造から今日に至るまでの

すべてが凝縮され詰め込まれているのだ。

 

完全に神道による呪術なのだ。

しかも人間だけではなすことのできない呪術だ。

 

それにより示されていることは七月七日の七夕は天の安の河を挟み、

須佐之男命と天照大御神が誓約をする日だという事なのだ。

 

そしてこの日を神道では「この子の七つのお祝い」とそえ歌で

歌っているのだ。そえ歌とは倒語(さかしまごと)と同じく、

他のことになぞらえて諭すための歌と日本書記に書かれている。

 

それは神武天皇のみことのりにより決められたと書かれている

それであるから神道においては言挙げできず、倒語と、そえ歌でしか

表に出せないのだ。

 

 それはなぜか、人に聞かされるのではなく悟るべき事柄だという

神さまのお諭しなのかもしれない。イスラエルのカバラとまったく同じもので、

信仰によりその賜物であるカバラを悟れと言われているように思う。

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 雛人形は内裏雛で内裏の天皇と皇后を示している。

 

と同時に誓約(うけい)を行った天照大御神(あまてらすおおみかみ)

須佐之男命(すさのおのみこと)をも示している。

 

同時にみとのまぐわいにより国生みを行った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

伊弉冉尊(いざなみのみこと)をも示している。

 

天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約とは、
みとのまぐわいなのだ。

 
 この誓約により国土が生まれた。

 

これらが古事記の倒語(さかしまごと)で、実は何を意味しているかというと、

聖書の神である天の御父と御子の天地創造なのだ。

 

であるから内裏雛の本当の正体は天の御父と御子であり、

その誓約によりすべてがなったことを示していたのだ。

 

そして内裏雛は最初の人であるアダムとイブでもあるのだ。

だから神がこの二人を創った時に園の中央に生えさせられた二本の木も、

雛飾りの右近橘と左近桜としてそこにあるのだ。

 

雛人形は神の天地創造から始まり、神の歴史が今上陛下と皇后陛下まで

続いていることを示しているのだ。

 

内裏雛の並びが男雛の左上と女雛の右下であるのはほかでもない、

キリスト・イエスが栄光を受け天の御父の右の座に就かれたからなのだ。

 

それが神道であり、この神の歴史は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで
千歳萬歳に至るのだ。

 

雛人形に現世と幽世のすべてが顕わされているのだ。


 イスラエルと皇室の三種の神器にはじまり、古事記の神代はすべて

雛人形で示されているのだ。

 

だから日本の皇室は天の皇室の顕れなのだ。


 天の皇室の雛形の雛人形なのだ。

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