天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: 直会

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。

その他推奨記事
 


密教によっても言葉にされ得ないとされていることは、古事記の時代から悟られ倒語(さかしまごと)で言葉にされていたのよ。それを日本語で誰にでもわかるように言葉にした人がいなかったのよ。それでなぜか私がその白羽の矢を受けてしまって言葉にさせられているの。御霊により金縛りにされ書かされているのよ。書かなければ次を知らされないので書くのよ。金縛りが解けるまで書かなければいけないようなのよ。

 

初潮が来るとお母さんがお赤飯を炊くということは、龍宮における神事なのよ。龍宮の神事とは、意味を知らされていなくても粛々と執り行われるでしょ。全て八咫烏が目を光らせこの龍宮に広めて来たのよ。初潮だけに限らず処女は毎月お赤飯を炊いても良いくらいのことなのよ。

 

それとは裏腹に月ごとのお守りの血は穢れとして忌むことが習わしとなっているでしょ。それでもお赤飯をたく習わしは八咫烏が広めたと瞑想するのよね。

 

この世とは胎蔵界であり、高天原が金剛界なのよ。その高天原から救世主が胎蔵界に遣わされ、御霊により処女が身ごもったの。その救世主がその血による贖いで胎蔵界を救ったの。それで永遠の命への道が開かれたのよ。それが全て高天原の創造主の御旨であると聖書に書かれているのよ。

 

月ごとのお守りの血をその救世主の血と同じく生命御守護の血とした、創造主の創造の賜物なのよ。穢れとして扱うべき事柄は別のところにあるのよ。それを悟っていた八咫烏からお赤飯をたく神事が広まったのよ。そう考えると裏天皇家である八咫烏は穢れについても古代から知り尽くしており、世代を超え貞潔が守られているはずなのよ。そのような霊性により龍宮で神をお祀りすることを任されていると考えられるでしょ。

 

この世ではなく神に属しているのよ。皇室の三種の神器の裏に隠されている、神に属する神璽を預かっているのよ。そのうちの一つが大御神の心御柱で御子イエスの十字架なのよ。目にすることはできなくても、この十字架には血の跡が残されているらしいの。その血が生命御守護の血なのよ。

 

御子はその肉を食べその血を飲まなければ御国には受け入れられないと御言葉しているでしょ。それが直会の血なのよ。お赤飯はその生命御守護の直会の血を祝して炊かれるのよ。直会でも最高の部類なのよ。御子の血であるとして回されたワインの杯に匹敵しているの。神道において直会の奥義は理解されていなくても、この龍宮とはそのような所なのよ。

24-72-rissyuumain


スピリチュアルランキング
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

神道ランキング

精神世界ランキング

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。

その他推奨記事
 


民俗学用語で「ハレ」と「ケ」という用語があるでしょ。「ハレ」とは晴れの日で、儀礼、祭礼や年中行事で、婚礼などは最高の晴れの日でしょ。それに対して「ケ」は日常と説明されるのよ。この国の年中行事などは全てお祭りに根差しているから「ハレ」がお祭りの日で「ケ」は日常の生活と区別できるのよ。どちらも神道に根差しているの。

 

その神道における祭礼において「直会」というものがあるでしょ。「直らう」などという言い回しもあり、お祭りにおいて捧げた御神饌や御神酒をいただき、神様と共に飲食するというお祭りなのよ。

 

その「直会」の語源がお祭りのために行った清めの斎戒を解く「直り合い」だとするのが定説になっているのよ。ここでは「直会」が「直合」に変化してしまって語源とされているのよ。それ以外にも、単に一同が会して食事をするという意味で斎戒を解くという意味はないとする説があり、神道における常で、統一見解がないのよ。

 

私の瞑想によれば一目瞭然で細部まで透けて見えてしまうの。民俗学者や国学者の学問では見えてこないということがまるわかりなのよ。陰陽道である表の神道において統一見解が無くても、裏の神道においてははっきりとした統一見解があり、その見解が「直会」の語源なのよ。

 

その表と裏の陰陽それ自体が「ハレ」と「ケ」の陰陽になっているのよ。統一見解に至った「ハレ」の神道と、統一見解に至れない「ケ」の神道の陰陽によりバランスが保たれているのよ。

 

その「ケ」とは穢れの「ケ」なのよ。極論すれば、斎戒の神道と穢れの神道のバランスなの。またまた過激になって来たでしょ。

 

ではその陰に隠されている斎戒の「ハレ」の神道とは何かというと、天照大御神により開けた岩戸に〆が張られ、それ以来晴れの日が永遠にまで続くことになってしまった神道なのよ。岩戸が開けた時に大御神に直会した弟子たちのお祭りが、陰に隠されている斎戒の神道なの。斎戒して大御神に直会し、御神饌と御神酒をいただいたのよ。それ以来ずうっと晴れの日が続いていて日常の「ケ」になど戻れなくなっている神道なの。「直会」の語源は大御神に「直に会った」なのよ。

 

それに先立ち、穢れた日常から、お祭りの晴れの日に解脱するようにと説かれたのがお釈迦様だったの。そのお釈迦様を勧請したのが梵天だったでしょ。この梵天という神様はヒンズーのブラフマという神様で、天照大御神の御父の影が映された神様なのよ。その梵天の灌頂により穢れた日常から晴れの日への解脱が説かれたの。

 

その神様とお釈迦様の影がこの国に映り、解脱に至る道筋にお地蔵様が建てられているのよ。そのような陰陽で大御神の父神が均衡を保たれているのよ。その様だから裏の神道ではその父神をしっかりとお祀りしているのよ。

 

神様が陰陽の影を落とされたのが最初の人、アダムとイブの時だったの。アダムとイブは神様に皮の衣を着せられ楽園から追放されているのよ。神様に晴れ着を着せられ追放されているのよ。

 

360px-Wedding_kimono

 

それが神様の均衡の保ち方なの。裏の神道ではそのようにはっきりと知られているの。阿吽



スピリチュアルランキング
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

神道ランキング

精神世界ランキング

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/6984756.html (イスラエルの十二と永遠の命)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/7077308.html (聖書に書かれていたお釈迦様のこと)

23844402_1399862840126754_8237800405062572674_n-420x280

 

式神様と藁人形は表裏一体の鏡合わせだったでしょ。

 

DSC_0169

 

 三つ巴紋なんか天の御柱と命の木への入り口の鏡合わせだったでしょ。八咫鏡に映る陰陽に奥深い仕掛けがあるわよね。この九月は奥の奥まで見せられてしまったの。四月ごろに命の木シリーズを書いていた時も脳みそフル回転で頭くらくらしていたけれども奥が知れないのよ。同じこと繰り返しても飽きられるから今日も新ネタいくわよ。

 

ヨハネによる福音書 21 口語訳

4夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 5イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。 6すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。8しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。

9彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあってその上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 

 10イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。 11シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。

13イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 14イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

 

 いつものように抜粋してあるのだけれども、復活したメシアが三度目に現れた時の情景なの。この情景の中に七五三の十五という数が暗示されていると思うのよ。153匹の魚はイエスにすくわれる魚の暗示で1531×5×315なのよ。不思議なのは聖書の新共同訳では

 

ヨハネによる福音書 21 新共同訳

8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

 

となっており、その距離が口語訳だと50間となっている事なの。口語訳で見るとこの場面に現れる数が15と3なのよ。この1×5×315というのが七五三の魔法陣の暗示になっているのよ。

 

3a9064835945283a883109fa033f5f1f - コピー

 

 この説が正しいのかどうなのかは、何かこじつけめいていて私も正直自身がないの。しかしね、この場面でメシアが魔法陣のことを語っていたのだとしたら、それはメシアの右手の暗示なのよ。右の手で救われる153匹の魚なの。

 詩編 16:11 新共同訳
 命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 その他にも見逃せないことがあるのよ。

 

イエスは三度目に現れ、ここで弟子たちと食事しているのよ。それは弟子たちにとって、復活したメシアとの直会の食事の意味があるでしょ。その食事はメシアの用意したもので炭火の上に乗せられた魚とパンだったのよ。

 

f0449805dcc33328aae4d29337a8372f

 

この魚を焼く器が七輪と呼ばれているのはメシアとの直会の暗示になっているのよ。この聖数の七で、後の世の、メシアと復活した弟子たちの婚宴の預言にもなっているのよ。

 

神鳥たちはそのようなことを百も承知だったから魚を焼く器を聖数の七輪とし、ヨハネが黙示した子羊の婚宴を童謡の中で「この子の七つのお祝い」と唄わせているのよ。

 

ここで七五三の十五と結びついてしまうのよ。その奥深さが神道なのよ。こんなこと聖書を読んでいても誰も気が付かないわよね。気が付く私がどうかしているのよ。

 

しかしこのことがこれもまた日本人であればだれでもが知る一枚の絵と結びついてしまうのよ。

 

514626X1KVL._AC_SX466_

  この絵が全てを表しているでしょ。龍神様の貴船に、七福神、マストの十字架の頂点に宝珠、帆はメシアのお体で寶と刺繍されているでしょ。そこに亀が泳ぎ鶴が舞い、蓬莱山である不死山に大御神がかかっているの。もう至れり尽くせりでしょ。

 

それはこの型の型映しなのよ。

 

0fc8d0c9

 

 一対のケルビムが聖数七の七福神なのよ。しかしこの絵を見ても日本人はあまりお目出度さを感じられないはずなの。それは式神様と藁人形が表裏一体であることに通じるでしょ。

 

私は聖書と古事記をかなり読み込んでいるから、この絵は紛れもなく七福神の宝船に違いないと思えるのだけれどもね。

 

しかしそれで終われないのよ。七福神の宝船には神道のさらなる恐ろしい仕掛けが施されているの。この解き明かしは宿題にしておくわ。答えの分かった人はコメント欄にでもメッセージしてね。

 

キーワードは鶴と亀と真名井よ。阿吽


にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村

瞑想ランキング

聖書・聖句ランキング
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 神道へ
にほんブログ村


精神世界ランキング


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)

 イエスの肉を食べ、血を飲むにはどうしたらいいのか。

これはイエス御自身が倒語(さかしまごと)で語っているという事だ。


 イエスの肉とは神が天から降らせるパンだ。

血とは神がイスラエルの井戸から湧出させる命の水だ。

 

どちらもイエスの言葉なのだ。だからイエスを愛した弟子のヨハネは

「神は言葉であった。この言葉によらずに成ったものはひとつもなかった」

と言ったのだ。

 

イエスの言葉は世界中で良く知られている。

しかしただ漫然と読むだけでは食べたことにはならない。

 

水は水のままで、水盃になってしまうのだ。これは日本人にしか

理解できないのではないのか。水杯を神酒に変える神変を

伴わなければならないのだ。それをヨハネはイエスの最初の奇跡として

カナの婚礼の物語で示した。水を葡萄酒に変える神変を伴わなければならないのだ。

 

この物語の中で宴席のぶどう酒が足りなくなった時に、

母マリアは「ぶどう酒が足りなくなりました」と言った。

その時にイエスは最後に、「私の時はまだ来ていません」と言いながら

水をぶどう酒に変えたのだ。この私の時とはイエスの受難の時であり

十字架上で血を流す時のことだ。

 

この時に生ける命の水はイエスとの縁結びの血である御神酒、

ぶどう酒に変わったとヨハネは言いたかったのだ。

 

だから十字架刑を受けようとしていたイエスの最後の晩餐の時に、

弟子たちにイエスの体と血の象徴のパンとぶどう酒を与え祈ったのだ。

 

そして「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ御国には受け入れられない」

と言葉を残した。

 

そのようなイエスの言葉は新約聖書中にあふれている。

それは珠玉の言葉として世界中が知っている。しかしイエスは

狭き門の入り口を見出すものは少ないと言葉を残している。

 

私はそれを見てしまったと思いこのブログを立ち上げたが、

私の目から見てその入り口を見つけ出している人は

人生の経験上見聞きした人たちの中にひとりもいないのだ。

 

それは何故なのか。イエスは「天の御父の御旨を行うものが天国に入る」

と語った。しかしこの父の御旨は何なのか未だに解読されないでいる。

なぜが、それは人がイエスの珠玉の言葉を聞くだけでそのとおりに行わず

聞き流しているからなのだ。それをイエスは、

「主よ、主よと私の名を唱える者が御国に入るのではない」と言ったのだ。

 

教会に行けばイエスの肉を食べさせ、血を飲ませてくれると思ったら

大間違いなのだ。ではどうすればよいのか。

 

私はイエスの言葉をその肉と血として咀嚼し、飲み込み、腹に納め、

腑に落ちてしまった。その結果気が付いたことは、
イエスの言葉は人に解脱を促しているという事だ。

 

イエスの言葉通りに行いこの世で自分が変わろうと思うなら

解脱しなければ無理だ。このブログで何度も指摘しているように、

そのための作法をイエスに先立ち広めたのが、弥勒菩薩であるイエスの

道をまっすぐにするために、創造主である梵天から灌頂を受けた

仏陀釈迦牟尼であったのだ。

 

地球はそのような神仏の降臨する神籬(ひもろぎ)であった

という視点が必要なのだ。

 

イエスの言葉は煩悩社会にへばりつきながらそこでの

生き方を快適にするための処世術ではない。

 

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という

私が杖にしている御言葉がある。誰でも知っているはずだ。

しかしこの御言葉をどう受けるかで人の生き方に違いが出る。

 

この世とうまく付き合いながら遊び暮らし、片手間に神のことを思うのか、

神のものを神に返すことを人生の主目的にし、この世とは

面従背腹でつき合うのか。

 

イエスの言葉は人の食べ方により全く違う食べ物になるという事だ。

それが同じイエスの言葉を知っていても、水杯を交わすのか、

御神酒のぶどう酒をいただくのかの違いとなるのだ。

 

神道はそのようなことは古代から百も承知だ。

 

では具体的には何をすればいいのかと思われるかもしれない。

それを参考になればと思い記しておきます。

 

とにかくイエスの言葉を味わい尽くすこと。
その後は何も考えずにだだ座っているだけで事足りる。

それを生きる主目的にしてしまう事。

 

人間の脳は何かしているときよりも何もしないで

ぼーっとしている時の方が二十倍もよく働いているそうだ。

 

それを出家した後に瞑想において悟った仏陀は、

「ただ座れ」と言葉を残した。

 

煩悩の巷に溺れそこに生きることを主目的にしながら、

その苦しみを緩和するためだけの片手間に、仏陀やイエスの言葉を味わっていても、

信仰が伴わないのだ。信仰が伴わなければ水はぶどう酒に変わらない、
弥勒菩薩の薬は効かない。だからイエスは人を癒そうとするときに
「私のことを信じるか」といつも言ったのだ。

 

かといって現代人は出家などできない。

葬式仏教に従事するための出家など何の役にも立たないだろう。

 

ではどうするか。私はできないことではないと思う。

カエサルのものはカエサルに返しながらも、神のものを神に返すことを
主目的に生きればよいのだ。誰にでもできる簡単なことなのだ。


 家に神棚を祀り、天照大御神の御守り札を、実はイエスのお守り札と見定め、
家の男女が宮司と巫女として生きればよいのだ。
家でいただく食事は日々の直会なのだ。
神様が天から降らせるパンと水とぶどう酒なのだ。
神様に直にお会いした弟子たちがそう伝えたのだ。
パンであるマナを調理する板がまな板で、
蛇口は龍神様でもあるイエスから水を食む井戸なのだ。
であるから日本人は竈に神様をお祀りしているのだ。

 

正常性の偏見を取り除き、心理的盲点に気が付くという

頭の切り替えは誰にでもできるはずなのだ。

 

私は誰も教えてくれなかったのでそれに気が付くまでに

三十年もかかってしまったが。

 

キリストと仏陀の言葉には真理がある。

この世に生を受けながら真理を侮ったものは、後の世に禍根を残すと書かれているのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村


聖書・聖句ランキング

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)

 京都に、丹後一宮元伊勢 籠神社というお宮があるの。
この神社の奥宮には真名井神社があるの。
その他にも神話の里とされる土地には、天真名井という言葉を冠した神社があるの。

 この天真名井とはイスラエルの井戸のことよ。

 

真名とはマナでモーセの時に神変によりイスラエルに降った神のパンなの。
同じ荒野で神変により水が与えられたわ。ここからすべてが始まったの。

 

サマリヤの女とイエスの物語が聖書には出てくるでしょ。
ここでイエスはわたしから水を汲むものは渇くことがないと教えたの。
それでサマリヤの女はイエスがメシアであると悟ったの。

 

翻って古事記にも似た話が出てくるわよ。

 

山幸彦が海神のお宮に行ったときの事、お宮から水を汲みに出て来た侍女に、
水を飲ませてくれるように頼みながら、水を汲んだ器に口から玉を吐き入れたの。
そうすると玉は器にくっ付き取れなくなったと書かれているの。

 

この物語は古事記だけでは意味不明でしょ。でもね古事記は聖書と読み合せないと
わからないように倒語
(さかしまごと)で書かれているわ。

 

聖書に眼をうつせば、イエスがヤコブの井戸に座っているときに、
サマリヤの女が水を汲みに来て、イエスはその女に「水を飲ませてください」と言ったのよ。
そしてイエスの言葉でその女はメシアを悟ったの。

 
 この二つの物語とてもよく似ているでしょ。
そこに着目してカバラを当てはめ解読すると、聖書において神が天から降らせるパンと、
ほとばしらせる水はどちらもイエスの御言葉だと言っているのよ。

 

モーセの時天から降ったマナは記念としてツボに納められ、
マナの壺としてイスラエルの神器となったの。

この壺の中のマナはイエスから汲む生ける命の水と同じ物だと、
古事記の稗田阿礼さんは言いたいのよ。

 

マナも命の水も神の賜物でイエスの御言葉であり、人はそのイエスの言葉で
メシアを悟り救われると言っているのよ。

 

山幸彦が吐き出した玉はイエスの言霊であり、勾玉という神器でもあり、
器とくっ付いてしまったのは、マナの壺も勾玉も、どちらもイスラエルの神器である
賜物を示唆しているの。カバラなの。カバラとは賜物なの。
その賜物としての壺を如実に示すのがあの前方後円墳の形なの。

 

その後イエスは十字架上の死を言霊でしめし十字架についたわ。
そして命の木になる賜物の果実となったのよ。
そしてこの時にマナはイエスの体になり、
水はぶどう酒であるイエスの血に変わったの。

 

ヨハネはカナの婚礼においてイエスの最初の奇跡として、
水をぶどう酒に変える話を書いているけれども。
これはヨハネの倒語
(さかしまごと)なの。

 

人はイエスの言葉によりメシアを悟り、その信仰によりメシアの十字架の意味を理解し、
救われると言いたかったの。

 これが最後の晩餐のパンとぶどう酒の持つ意味よ。

 

だから天真名井とは、賜物であるイエスの言葉を汲む井戸であり、
ヤコブの井戸=イスラエルの井戸=イエスの井戸なの。
この井戸から汲んだ水を甕の縁まで満たすと神変によりぶどう酒に変わり、
イエスからぶどう酒の杯を受けるという事なの。
これが賜物であるイスラエルのカバラであり、古事記の倒語
(さかしまごと)なの。

 

信仰により天真名井から汲む水を瓶の縁まで満たし、宴会の世話役である
聖霊のところに持って行かないと、
水はぶどう酒には変わらないの。


 神道ではこのパンとぶどう酒をお御饌(おみけ)と御神酒(おみき)としてお供えし、
お祭りの後の直会としていただくの。
お御饌はイエスの体であり、御神酒は水杯から変えられた固めの盃なの。
直会とは弟子たちがご神体に直に会い、そのようにおおせつかった
お祭りだという事を示しているの。

 この国とはそのような国なの。


キリスト教ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)

直会
(なおらい)の御饌(みけ)とお神酒(おみき)はキリスト・イエスのパンと葡萄酒よ。

キリスト・イエスは神が天から降らせるパンでありマナでもあるの。

モーセの時に神は天からマナという食べ物と泉からほとばしる水を神変で

イスラエルに与えたわ。

 

その神が後に神変で人類にもたらしたのがキリスト・イエスの体と血だったの。

それは十字架上で与えられたの。それを日本人は知らずにまな板と呼んでいるの。

 

キリスト・イエスの体はパンでありマナなの。

キリスト・イエスの血は生ける命の水。イエスは聖書中で
「私から汲むものは渇くことがない」と言っているわ。

さらに「私の肉を食べ、私の血を飲まなければ御国には入れない」とも言っているでしょ。

 

神が降らせたパンと水を飲まなければ御国には入れないということなの。

この言葉を受け入れる人はキリスト・イエスから生ける命の水を汲むことになるのよ。

その信仰により汲んだ水を甕(かめ)の縁まで満たし、宴席の世話役のところに持って行くと

水はぶどう酒に変わるとヨハネは書いていたの。
 

宴席とはキリスト・イエスとの宴席よ。

最後の晩餐は弟子とキリスト・イエスの婚約の宴席だったの。

だからパンと葡萄酒を弟子たちは受けたの。

そのぶどう酒は、キリスト・イエスの言葉と弟子の信仰という神変により
水が変化したものだったの。

 

そして記念としてこれを行いなさいと弟子が言いつかったの。

聖書にその様に書いてあるわ。

そう言いつかった弟子たちが直会(なおらい)として今に伝えたのよ。

なおらいとは直り合いではなく、直にご神体に会ったという意味なの。

お水とお神酒とお御饌は信仰により神前のお供物となり、祭りの後にいただくでしょ。


 それはキリスト・イエスである天照大御神との婚約の儀式だったの。

この求婚をお受けしようと思う人は、水を甕(かめ)の縁まで満たし
宴席の世話役のところまで持って行かなければならないのよ。

 
 この世話役が聖霊という神様よ。

 

水を甕(かめ)の口まで満たした証しとしてぶどう酒に変えられるの。

それが聖霊のバプテスマで、キリストから受ける葡萄酒の御神酒なのよ。


 神さまが関与するから神変なのよ。受ければそうわかるわ。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 神道へ
にほんブログ村

神道ランキング

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)

その昔、イスラエルにおいては男女の縁談話はいいなづけ婚だったのよ。

 
 イスラエルにおいて、いいなづけとされた男女は、適齢期になると、
婚約の宴が一週間ほど催され、その最終日に花嫁候補が、
花婿候補から拒まずにぶどう酒の杯を受ければ婚約成立という運びだったの。


 そして婚約が成立すると、花婿は実家に帰り、
一年ほどかけて結婚の準備をすることになり、
その間は貞潔を保つために飲酒は控えるというしきたりだったの。

そうしながら父から結婚の許しが出るのを待ったのよ。

 
 ヨハネが福音書で記述した、イエスの最初の奇跡が行われたカナの婚礼とは、
いいなづけ同志の婚約式の婚礼であり、その婚約式において
ぶどう酒が足りなくなったことを意味していたの。

 
 ヨハネはここで何を言わんとしているかというと、
いいなづけの花嫁候補らの不品行により、縁談が破談に終わろうとしているときに、
キリストが贖いの業の奇跡により、信仰の象徴である瓶の縁まで満たした水を
縁結びの御神酒に変えたと示唆していたの。

 そして最後の晩餐におけるパンとぶどう酒がその縁結びの杯だったの。
しかもこの席でイエスはパンとぶどう酒は自分の体と血だと言って弟子に与えたでしょ。
そしてこれを記念として行いなさいと言ったのよ。
イエスは十字架上で自分の体をお供物としたの。
その記念が天照大御神からいただく御饌と御神酒の直会なのよ。
この国において水杯が不吉とされるのは、信仰が伴わなければお神酒を受けられずに、
神様と今生の別れになるということまで意味しているのよ。
それをイエスの十二弟子とその子孫である八咫烏が伝えたの。

 このいいなづけというキーワードは聖書や古事記において覆いをかけられ、
露骨に現されることなく、それとなく秘匿されて来たの。

 
 でも、聖書にはそれを示唆する記述がいくつかあるわ。

 福音書から引用するわね。

 
 マタイ
2629 
 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 
 ヨハネ
1336 
 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

 
 ヨハネ
14 2 
 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。引用ここまで。

 
 ここで引用した聖書のイエスの御言葉は、イエスの御業が
いいなづけ婚の習わしに沿い進行しているという事を示唆していたの。

 
 創造主である父なる神は私たちのいいなづけ親だったの。

 
 極めつけはヨハネ
20章のこの聖句よ。

  
 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」引用ここまで 

 
 これはイエスの復活後、マグダラのマリアに姿を現しお語りになった御言葉よ。

ここでイエスはわたしの兄弟たちと語っているけれども、実は杯をうけた婚約者たちなの。

 
 その婚約者に、婚約は済んだが、まだ父のお許しが出ていない、
結婚はこの父のお許しを待たなければならない、であるから今はまだ、
わたしにすがりつくのはよしなさい、と語ったの。

 
 ヨハネは完全にその事を悟り、福音書を記述していたの。

 
 他の三者の共観福音書と趣を異にしているのは、ヨハネの悟りの
深さを示しているからではないのかしら。

 
 主に愛された弟子と言われ、黙示録を書いたヨハネよ。

 
 この聖句の「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、
わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」

 という言葉
を、

「イエスのいいなづけ親の父であり、私たちのいいなづけ親の父である方、

またイエスのいいなづけの神であり、私たちのいいなづけの神である方のところへ
イエスは上られた。準備が整えば、神である父のお許しを受け迎えに来られる。」
と読み、イエスの御言葉をしっかりと飲み込めた時には、キリストの十字架上の死と復活を信じ、
イエスからぶどう酒を受けたことになり、なおかつ梵天界で準備をしておられる弥勒菩薩、
天の神宮で準備をしておられる天照大御神を悟ったことになり、
御霊を受けるわ。


 婚約をお受けしてしまえばお仲人が立てられるでしょ。
信じる者には助け手を送るというイエスの言葉が結実し神変を受けるわ。
でもそれを信じるということが人にはなかなかの難関なの。

 
 このいいなづけというキーワードがいかに物凄い破壊力を秘めているかという事なの。

このキーワードを頭に入れて聖書を読み直せば聖書理解は飛躍的に進むわよ。

と同時に眼を開かれ、古事記の倒語が読み込めるようになるの。
神道における盃事とは一体何なのか理解できてしまうの。

 神様は太古から、人間を自分の家に家族として受け入れようとされてきたという事なの。
人間の方が正常性の偏見によりそれを拒み続けてきたとしか思えなくなるわ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ
にほんブログ村

哲学・思想ランキング


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)

 日本人には神宮にお参りするのが感謝のしるしだ。
毎日神様にお召し物が供えられる。
しかし神仏はもっと深い交流を望んでいる。
善因において解脱しこの世の後は、
自身を善果のお供物として幽世の神宮に参れと諭している。
日本人よ悟れ。神は人の思いより深く人を思う。
手ぶらでは絶対に上れないと。


人気ブログランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)

 十字架上のイエスは神のお供物であった如く、人の死もお供物だ。
善因が良いお供物の善果を生らせる。その果に煩悩という毒味があれば悪果だ。
だから煩悩という毒味を滅却し善い果をならせることが解脱。
人は神からの喜捨で生きている。
感謝の善果をお供えしなければどうなる。

 

 神の喜捨に報いる感謝の証が人の解脱だ。
その事に気が付かないこと自体が感謝の欠如を示す。
しかし事は容易ではない。仏陀でも必死の修行で七年かかった。
しかし神はそのために十分な人生時間を皆に与えてある。
しかし放蕩の限りを尽くし恩に報いず終えるのがこの世の習い。
幽世で神はどう報いるか。


人気ブログランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)

 この世が悪いという事は良識が有ればわかる。
不安を感じる人が、天照大御神やイエスや仏陀を信仰する。
しかし表層的な信仰で不安を拭っても、幽世にある不安は拭えない。
それを払拭するために降ろされたのがイエスと仏陀だ。
現世において奥まったところの信仰が問われている。
神様は全てお見通し。


 現世において奥まったところの信仰が問われている。
それはキリストが命の木の果実であるように、
自分の十字架につき果実となれという事。
それが神様へのお供物だ。このお供物に煩悩という毒味があれば
神は食さない。煩悩は神が食する信仰の良い果実を生まない。
直会にならないのだ。
現世における解脱とは何を意味するかだ。


人気ブログランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ