天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: 仏陀

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歌舞伎聚楽主がお釈迦さまに、自分たちは天国に行けるか尋ねた時に、お釈迦様は歌舞伎聚楽主が天国に行けないのを承知で、そのようなことは尋ねないが良いとお答えにならなかったの。そのようなことを尋ねているうちは、天国になど行けるものではないという事なのよ。だから聞かない方がいいのよ。

 

しかし歌舞伎聚楽主はしつこく三度まで尋ねたのよ。そこまで聞くならばと、お釈迦様は、日ごろ舞台の上で人を笑わせ煩悩を煽ることを職業としていては、悪趣に堕ちるしかないと教えられたの。そう教えられて歌舞伎聚楽主は随喜の涙を流しお釈迦様に帰依したとなっているの。少し仏伝をかじっている人ならだれでもが知っている教えなのよ。

 

ある時ネット上でマスコミの人がそのことを書いていたのだけれども、その人はよくわかっていて、自分達の職業もろくな死に方をしないだろうと結んでいたのよ。私それを読んで思ったのよ。川の中州で家族と共に逃げ遅れ、立つ瀬を失って絶対絶命の危機に陥った時に、家族の顔を見ながら、やはりそうだったとでも思うのかしら、この人の書いていることには絶対に共感できない。頭おかしいわよ。と思ってしまったの。

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それが逃げ遅れる人の正常性のバイアスというものなのよ。マスコミ人がそのように仏伝を侮るようなことを平気で記事にできるような正常性バイアス社会なのよ。

 

そのように感じて思うことはお釈迦様もこの国の八咫烏と同じく、門番として立てられていた仏陀だったのねという事なの。梵天により門番として立てられながら、命の木への道筋を守るお地蔵様なのよ。門番であるから、その門を通らなければすべてが悪趣に堕ちると心得ているのよ。しかしそのようなことは、しつこく問いかける気概のない者には、とても理解しがたいことなので、尋ねない方が良いと秘されているの。それが密教の秘匿性なのよ。

 

しかし弟子の仏陀を侮ることを見て取ったお釈迦様は、そのような密教までもが法滅に至ることを預言されていたのよ。最後まで女性の出家を許さまかったお釈迦様に、強引にそれをさせたのが、同じ釈迦族出身の弟子だったの。

 

現代の密教などは門番としての役割など帯びていないように見えるでしょ。洪水で絶滅した時には烏と鳩が放たれたのよ。八咫烏と八幡の鳩しか勝たないのよ。そう冥想するのよね。

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あのね、この世において自分の名前が命の書に書かれているのかいないのかは当人にとっては大問題だと思うのだけれども、神様の目からしたらさしたる問題ではないのよ。

 

ある時、姦淫の現場で捕らえられモーセの律法により石打の刑に定められた女が御子の前に引きずり出されたでしょ。律法により死刑に定められていた女を御子は一言で贖い、もう罪を犯すことの無いようにと諭し行かせたでしょ。律法により死刑と定められていても御子の御言葉はそれを贖いあまりあるのよ。もしご縁が無ければそのまま石打に処され滅びていたはずでしょ。それが御子の御言葉の効能なの。

 

命の書に名前があろうがなかろうが今世において御子の御言葉を乞食により受け、悔い改めなければ元も子もないという事なのよ。お釈迦様が行乞の人だったことにはそのような意味があるのよ。

 

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しかしお釈迦様は御子がまだ天で生きているうちにそれを悟ってしまった超人だったのよ。そのような生き方をお説きになったけれども常人がまねをしても及ぶところのものではないのよ。ただ梵天によりそのように下地が整えられての弥勒菩薩の降臨だったのよ。

 

超人仏陀により、弥勒菩薩が降臨しても世の中はそれと悟らずに法は滅するということまで先見されていたということではなかったのかしら。

 

御子の御言葉を、その肉と血のお布施として受ける行乞の沙門が、法により贖われるの。凡夫であろうがその状態に置かれればいやでもそれと気が付くのよ。そう冥想するのよね。阿吽

 

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この五月は瞑想に最適な時季なのよね。

 

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七五三の中心の五月だし六月の大祓に向けたお祭りの時季なのよ。年越しの大祓を控えた七五三の十一月のと陰陽の関係だったでしょ。しかも魔法陣は八本の輻でつながる車輪とその車軸の形だったでしょ。八正道の法輪。そしていつものようにこちら。

 

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冥想においてこの車輪が完成してしまうと頭頂で千の花びらが開き、おへそのチャクラで梵天と繋がってしまうのよ。へその緒でつながってしまい梵我一如となってしまうのよ。月が満ちれば誕生となるでしょ。しかし下手をすると流産の可能性もあるという話なの。

 

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それが昨日までの瞑想で気が付いたことなのよ。そうしたら今日はお釈迦様と聖徳太子なの。お釈迦様は王様に呼び止められ身分を尋ねられた時に、太陽の末裔の釈迦族の出身と答えているの。

 

スッタニパータ423. 第3 大きな章 1.出家経 19.
○中村元訳
423
姓に関しては<太陽の裔>といい、
種族に関しては<シャカ族>(釈迦族)といいます。
王さまよ。わたしはその家から出家したのです。
欲望をかなえるためではありません。

 



 

 まあ学問的には様々に解釈されるのでしょうけれども、梵天の灌頂により初めて法輪を回したお釈迦様がこの世に残し広まっている言葉は捨ておけないでしょ。聖徳太子がそのことを知らなかったはずはないと瞑想するのよ。そして日出処の天子へとつながるの。

 

隋の煬帝が激怒したという有名な「日出処の天子書を日没するところの天子にいたすつつがなしや」という国書を遣隋使の小野妹子が持参したという話。聖徳太子は即位はしなかったけれども日の本の日嗣の御子でありブッダであるという自覚があったのではなかったのかしらという事なの。五六七の数秘術など理解していた預言者なのよ。

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古い話だし事の真相は藪の中だと思うのだけれども、神仏に関する伝説として後世に伝わっていることは神様の検閲に耐えて残っているとの理解なの。聖書も同じよ。しのびの祖と言われる聖徳太子だし小野妹子も秦河勝も蘇我馬子もすべて分身の術を使った聖徳太子自身ではなかったのかしらとも妄想するのよ。

 

もしかしたら天照大御神が降臨して分身の術を使っていたのかしらとかね。大御神自身は復活後何度も弟子の前に姿を現しているし不可能ではないと思うのよ。そこまで行かなくても戸籍を持たない八咫烏であれば架空名を名乗り複数人で分身の術を使うことはいくらでも可能でしょなどとね。いくら冥想してもその辺は知らされないけれどもね。

 

古事記は聖徳太子の時代で終わっているし十七と十二という数は古事記の天地開闢に関わる重要な数秘術になっているし、日出処の天子に関しては興味が尽きないのよ。

 

Yatagarasu_2阿吽



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この世の趨勢を変えようと思ったらやはり人々の覚醒によらなければ無理なのよね。政治的圧力などというのは煩悩の炎による害悪以外の何物でもないのよ。それで覚醒なのだけれどもその世界も神示やチャネリングなどという霊感商法に丸ごと絡めとられまるで機能していないのよ。宗教では覚醒出来ないときているしね。

 

しかし民間はまるで機能していなくてもこの国の大御神の神道が盤石の構えでしっかりと態勢を整え、まるで揺るぎがないのよ。その様な盤石の態勢においてこの世に来た命がふるいにかけられているという事なのよ。だから暗黒郷であっても何の問題もないの。

 

その上で覚醒による救済というのはきわめて個人的な問題なのよ。悟って救済されるブッダの個人的な問題なのよ。社会性などということは埒外なの。それでもお釈迦様と天照大御神が社会により広く認知されていて、魔訶般若の波羅蜜多が、神道により担保されているというのがこの国の秘められた神々による真骨頂なの。そこで神様たちのお社における出会いによる救済が担保されているのよ。

 そのような意味で一番神様に近く、愛されている国がこの日本神国なのよ。そう冥想するのよね。そのおかげを落とす輩がただのアホなの。

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もう芋づる式に理解できてしまうでしょ。五十六億七千万年とはクンダリニーの蛇の三回転半に至る暦だったのよ。覚醒したお釈迦さまがその様にして弥勒菩薩の降臨と再臨を預言していたという事なのよ。再臨の時は大日如来として臨まれるという事なの。それが千代と八千代の神様なの。空海さんも知っていたのよ。

 

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お釈迦様の生きた時代はちょうど一回転半を過ぎた中間の時代だったのよ。その時代に覚醒してしまったのだからまさに超人だったのよ。釈迦族とは失われたイスラエルの末裔だったとしか思えないの。

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何故か最近クンダリニー覚醒の事に気を奪われていたのだけれども、気が付いたら蓮の花の開く季節になっていたのよ。

 

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たぶんお釈迦さまはあたりまえの様にカバラの命の木を御存知だったと気が付いたの。命の木の至高世界は水面に咲く蓮の花その物でしょ。その季節はこの国では二十四節季のうちの晴明なのよ。清浄明潔という言葉の略なの。蓮の花を命の木と見ると水面下直近にあるのがダートというセフィラでビシュッダチャクラなのよ。ここに安倍晴明さんが式神様を隠し結界を張っていたのよ。

 

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 その難関である結界をクリアするから水面に花を開かせるのよ。それがブッダになるための覚醒なの。先見者たちはそのことをすべて知り抜いていたのよ。イスラエルの命の木がそれだと悟っていたのよ。

 ブッダとは性エネルギーを大御神との聖婚のための聖エネルギーに昇華させ得た沙門のことだったのよ。多分それが密教の落着なのよ。そのエネルギーによりなっているのがこの国だったのよ。驚いた、本当にまいった、まじ卍の仏国土だったわ。

 日本人は水面下の潜在意識でそのことを皆知っているのよ。だから異国の文化を取り入れても自国で昇華させてしまうのよ。悪い面も含めてね。現代はそちらの方が強いのかしら。阿吽



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あまり人は死について考えたり普段の生活で語ったりしないものでしょ。そのような話題を持ち出すと目くじら立てて忌避されるのが普通なのよ。しかし私に言わせるとこの問題は普通に言っても考えておかないといけない問題のはずなのよ。

 

それは私が若いうちから聖書を読んでいたことが影響していると思うのだけれども、普通に生きていたのでは人は天国には行けそうもないなという直感が早くから働いていたからなの。天国や地獄って行って帰った人の話をきいたことがないのだけれども、御子イエスは天国のことをはっきりと語っているでしょ。

 

それでも人は想像するしかないのだけれども、この世の生活にも報酬系と罰系の時間があるでしょ。楽しく好ましい時間である報酬系と、つらく苦しく好ましくないのだけれども報酬にありつくために我慢しながら過ごす罰系の時間があるでしょ。

 

私の想像では天国というところは報酬系の時間が永遠に続く場所で地獄とはその逆に罰系の時間が永遠に続くところなのよ。私はつらく好ましくない時の中で永遠に過ごさなければならないような場所には金輪際近づきたくないの。楽していきたいタイプなのよ。

 

それでも死後の世界があるのかないのかという事は科学で証明できないし、御子の御言葉があったとしても、はっきり言ってふたを開けて見なければ判らないことなのよ。私のような人間は科学者の言うことより聖書の預言や御言葉の方を信用するタイプだし、心霊体験など実際にさせられているので死後の世界がないわけがないとする確信に至っているけれどもね。

 

もしそうでなかったとしても死については考えておかなければいけない理由があるのよ。生きている以上は考えたくなくてもいつかはその谷を超える時が来るでしょ。死後の世界があるとの確証がなかったとしても、人にとって死後という時間は必ず来るのよ。家族の死に直面すればだれもが見ている光景でしょ。

 

その時に死後の世界というものがなく、それですべてが終わりであれば何の問題もないのよ。問題なのは死後の世界があって生前より好ましくない状態に置かれることなの。悪いことを考えずに普通に生きていればそれだけで生前より好ましい状態に置かれるのであればそれも問題ないわよね。しかし神様の世界はそれほど甘くはないわよ。メシアである御子は慈悲の神様で、お釈迦様の説法もお慈悲による獅子吼だったのよ。しかし三柱の神様の内の一柱は峻厳をもって鳴らす神様だからね。侮ると怖いわよ。

 

それはさておき当初私の考えたのは死後の世界があり好ましくない状態に置かれるリスクは絶対に回避しなければならないという事だったの。そのように突き詰めて考えれば話は結果に付随するリスクを回避するための安全性の確保という問題になってくるのよ。

 

死について考えるのを忌避するということはそのようなリスク管理を放棄しながら生きるという事なのよ。そしてそれが世間一般の普通の生き方なのよ。私の目には神仏の啓示によりそのようなことに対する警鐘が古代から乱打されているにもかかわらず、油断しながらグレーゾーンで遊び惚けている人ばかりの世としか映らないの。

 

そのようなことを思うといつも1999年の夏の玄倉川の映像が思い起こされるのよ。神仏による彼岸への避難勧告を無視していながら、そのような因果で助かるものではないと瞑想するのよね。

20200320main-670x670阿吽


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仏教の先生の動画をユーチューブで一本だけ見たのよ。普段はあまり見ないのだけれどももう書きたいことはほとんど書いてしまってネタ切れ気味なので退屈しのぎに見てみたの。それは動画を配信するほどの先生だからそつなくまとめているのよ。まともな人ほど孤独になるのはなぜかというテーマなのよね。

 

クラスで起きるいじめには強い先導者がいてその先導者の嫌うターゲットが周りの同調者による忖度によりいじめを受け、それに異を唱える勇気のある人はなかなかいないということから始まり、この国の政治状況に話が移り、首相とそれを忖度する大臣や官僚のネットワークにも同じことが言え、忖度せずに異を唱えると出世できないという事につながり、この国の政治状況もクラスのいじめと同程度の、低次元だけれども当たり前のことが起こっていると進展し、ビジネスの現場でも同じことが起こっていると説いておられたの。

 

さらにこの先生はディープステイトが支配するこの世界にまで話を広げ、その権力に忖度せずに異を唱えると命がないということにまで論を進め、すべてにおいて同調圧力に異を唱えることの出来る人はめったにいるものではないと説いておられるの。

 

ディープステイトの謀略が仏教の先生の口から出てくる時代になっているという事なのよ。そして同調圧力に屈せず異を唱える孤高の一人ぼっちのまともな人はめったにいるものではないということから、お釈迦様のことに話が移り、話は死を見つめるという方向に進展していくのよ。

 

この世の常識は死という暗いテーマを取り上げることを拒むけれども、その問題に直面し、命がけで真理を悟ったお釈迦さまが同道の修行仲間から誤解を受け見放されたことを話されているの。死について真理を悟ったその教えがお釈迦様の孤高の教えで、その道に学ぶまともな人は他人に忖度せずに孤独の道を歩くことになるという、孤独に対する肯定論なのよ。

 

ディープステイトの謀略まで視野に入れながら語るこの先生は世の中の裏まで見通せる見識の持ち主であり、そうでなければインターネット上で教師になり得ないというところまで時代が進んでいるという事が私にとっては新発見だったのよ。

 

そのように見たのだけれども私はその後に強いストレスを感じてしまうのよ。お釈迦様のお説きになったことを孤高の獅子吼としながらなぜ仏教の先生たちは解脱を説こうとしないのという事なのよ。

 

お釈迦様の獅子吼は彼岸に渡りおおせてしまったお釈迦様の手招きのはずでしょ。お釈迦様の獅子吼で解脱に至り、それが衆生の済度につながるのよ。ところが仏教の常識では解脱はお釈迦様にしか達成できない孤高の真理とされており、そのことに異を唱える僧侶は異端とみなされるような土壌が定着してしまっているように、外から見ている私の目には映るのよ。だからこの世における処世訓になってしまうのよ。

 

仏教僧はその獅子吼を何と心得ているのという話なのよ。彼岸から手招きするお釈迦様の教えを獅子吼と教えながら此岸にとどまったまま渡ろうとしない仏教者は、孤高を説きながらも此岸の同調圧力に屈しているというように見えてしまうの。

 

解脱できない上位者に忖度して自身もこの世を終える気なのかしら。そうであれば終わっているわねという話なのよ。仏教を説いている人の話を聴くと常にそのような印象にたどり着いてしまうのよ。

 

そして頭に浮かぶのが、人々にモーセの律法を説く律法学者たちが、説くだけで行おうとしないことに対して激しい糾弾を加えられた御子イエスのことなの。洗礼者ヨハネはパリサイの律法学者が洗礼を受けようとしてやって来た時に蝮の裔と罵倒しているし、御子は盲人のことをはっきり偽善者と呼んでいるでしょ。

 

説くだけで行おうとしないのが御子の警告されたパリサイ人のパン種なのよ。御子はお釈迦様が数百年前に解脱をお説きになられていたことは百も承知だったはずなの。パリサイ人のパン種を見切っていた御子であれば、当時すでに数百年経ていた仏教がどの様な状況であったかもはっきり御存知だったはずなのよ。

 インドでバラモンの聖典と仏説を学びそれをお説きになっていたという、聖イッサ伝という文書が発見されているからね。お釈迦さまが弥勒菩薩として降臨する御子のことを語った預言者であったとはっきりと認識していたのよ。

 

マタイによる福音書 16

 6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 

7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。

8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。

9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。 

10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。

11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 

12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 

五つのパンと二匹の魚を五千人が食べ、余ったパンくずが十二籠だったの。このことは二柱の一人神と五組の夫婦神十柱で合計十二柱の神代七代として古事記に暗示されているのよ。ユダヤの二支族と失われた十支族に起こることの複合預言になっているのよ。

 

別の時には七つのパンを四千人が食べ残りが七籠だったのよ。私は以前からこの二度のパンの奇跡で四千年紀と五千年紀が暗示されていると見ているの。四千年紀のお釈迦さまにより五千年紀に降臨される弥勒菩薩のことが預言されていたことの暗示との思いがますます強くなるのよ。

 

そこにパリサイ人のパン種である教えに対する警告の意味が含まれていて、仏教も同じ轍を踏んでいるとなるともうそのように確信してよいのではないかと思えてくるのよ。

 

解脱とは人の目に映らないから他人には見えないでしょ。でも自身が解脱しているかどうかの確認方法はあるわよ。瞑想しながら自分が死の谷を渡るときのことを思い浮かべ、そこで解脱、救済、モクシャ、洗礼、禊、涅槃、梵我一如などのキーワードと共に御霊により祝福されている気持ちが湧いてくるのであればその人はすでに解脱しているはずなのよ。自分のデスマスクを思い浮かべてどの様に感じるかという事なのよ。ビッパサナーとかマインドフル瞑想のお師匠さんたちはどうなのかしら。

 

御子や仏陀の手招きに応じ彼岸へ渡りおおせてしまい、そこで瞑想すると出てくるドーパミンの質は人の此岸で煩悩にまみれながらも出てくるドーパミンとは異質なのよ。空境の涅槃においては自我を捨ててすべてをお預けしそれに依存してしまっても、依存による弊害はないどころかそれが神仏からの救済につながるという理解なの。三柱の神様の三昧の世界なのよ。

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陰陽の対極図あるでしょ。

 

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左回りと右回りの関係はこのブログの読者さんなら既知でしょ。鏡に映した関係なのよ。前面の後面透過の陰陽だったでしょ。

 

そして古事記では左上右下の陰陽と示されているの。左回りの男神が先なの。そうでないと生命は形を成さないのよ。この陰陽の対極図も八咫鏡で大御神の御霊を示しているのよ。御親と御子の似姿に人の生命がデザインされているからそうなるのよ。そして対極図は陰陽五行と十干のシンボルなのよ。

 

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その根幹を記述してしまえば生と死の陰陽なのよ。左回りの左上右下の図が眼に見えるこの世の生死の陰陽なの。しかし八咫鏡に映すと裏に隠れる右回りと表裏一体の色即是空の陰陽なのよ。

 

現生の生死と幽世の生死の陰陽なの。私がこの陰陽を大御神の御霊である御言葉に照らして解釈すると、現生の生死が先で、その裏に幽世の生死が表裏一体の関係として隠れていると読むのよ。

 

現生の生死は誰の目にも明らかでしょ。幽世の生死とは二度目の生と死なのよ。そのことは大御神である御子の愛した弟子が聖書ではっきりと黙示しているの。だからそう読めるのよ。

 

そして対極図は陰陽五行の十干でその数霊は十と読むのよ。十大弟子を従えたお釈迦様は、魔訶般若を悟る者は一本目の矢を受けても二本目の矢は受けないと伝えたのよ。その様に読み仏伝を表象すると、陰陽の対極図になると解釈するの。

 

しかし日本の暦は十干のみではなく十二支も不可欠でしょ。

 

仏伝により伝えられた弥勒菩薩は十二弟子を従えたの。弥勒菩薩の十二神将なのよ。イスラエルの十二支族と失われたイスラエルの十支族の関係性の表裏一体なのよ。

 

その様だから対極図を、十二神将をもって拡張するとこの表象になってしまうのよ。

 

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なぜそうなるかというと十二弟子は御子の生死と復活をその目で見せられ、御親と御子と聖霊による魔訶般若の陰陽をすべて悟らされたからなの。

 

そしてその御用の向きを大御神の御霊の八咫鏡として示し、真榊の中の枝に掲げたのよ。

 

大御神をお遣わしになられた御親神の回転方向が左回りの左上右下で、禊の未に三貴子をお産みになられたの。

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遂に役者がそろってしまったわよ。もうね、頭の中がその様にリセットされているから九月九日の次は十月十日でしょと身構えていたの。十月に入って上から大ネタを落とされていたのはその前振りにしか過ぎなかったの。意識していた十月十日に伊弉諾尊の大桃が落ちて来てしまったの。

 

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落ちて来たのは真名井の鶴亀でもあり大神実命の巨大桃でもあるのよ。

 

三月三日の七段飾りと七月七日の織姫と彦星はすでに控えていたでしょ。五月五日の桃太郎さんの鬼退治も当然視野に入っていたのだけれども、金太郎さんが盲点になっていたの。

 

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ところが桃太郎さんと金太郎さんも八咫鏡の表裏一体だったのよ。この五月五日が七五三の中心なの。すべての中心なの。

 

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龍神様の鯉のぼりと包丁式の両脇に控えていたのが、桃太郎さんと金太郎さんだったのよ。


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これで役者がそろってしまったの。伊弉諾尊の黄泉比良坂の舞台の役者がすべてそろってしまったのよ。

 

お釈迦様を通して伊弉諾尊から投げられた桃が魔訶般若の八正道だったでしょ。それでもお釈迦様の八正道は弥勒菩薩の八正道の前振りにしか過ぎなかったのよ。

 

神道の八正道はお釈迦様の八正道より奥深い真名井に隠されていたのよ。その両方を合わせた物が伊弉諾尊の投げた巨大桃だったの。

 

お釈迦様は弥勒菩薩の降臨を預言し、そのことは御存知だったはずでしょ。弥勒菩薩として来られたメシアも当然御存知だったわよ。

 

お釈迦様の投げた桃を七つのパンで四千人が満腹として示され、ご自分が投げる桃を二匹の魚と五つのパンで五千人が満腹し、残りのパン屑は十二かごと示されていたでしょ。神様の暦の四千年目に仏陀、五千年目にメシアの桃が投げられたの。

 

その仏陀とメシアが投げた桃で神道が出来上がってしまったのよ。神代七代は二柱の一人神と五柱の夫婦神で七代だったでしょ。そこに七つのパンも、二匹の魚と五つのパンも、十二かごも見えるでしょ。

 

造化三神、その後に二柱が加わり別天津神五柱となり、その後が神代七代なのよ。初めから三五七なの。この三五七の舞台が弥勒菩薩の八正道の舞台で、当然のことながら仏陀の八正道が土台になっているのよ。基礎クラスと実践クラスの関係なの。

 

仕掛けたのはどちらも桃を投げた伊弉諾尊なの。その仕掛けの桃がこのブログ内に落ちて来ているの。

 

拾いに来るのは多分その人がメシアの羊だからなの。神道だからね。宗教じゃないわよ。

 

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 阿吽


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