このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
(天照大御神の心御柱)
(三柱の神の宇宙)
(聖書において命の木のカバラの示すこと)
(イエスは御父による人類のいいなづけだった)
(イスラエルの十二と永遠の命)
(聖書に書かれていたお釈迦様のこと)
あまり人は死について考えたり普段の生活で語ったりしないものでしょ。そのような話題を持ち出すと目くじら立てて忌避されるのが普通なのよ。しかし私に言わせるとこの問題は普通に言っても考えておかないといけない問題のはずなのよ。
それは私が若いうちから聖書を読んでいたことが影響していると思うのだけれども、普通に生きていたのでは人は天国には行けそうもないなという直感が早くから働いていたからなの。天国や地獄って行って帰った人の話をきいたことがないのだけれども、御子イエスは天国のことをはっきりと語っているでしょ。
それでも人は想像するしかないのだけれども、この世の生活にも報酬系と罰系の時間があるでしょ。楽しく好ましい時間である報酬系と、つらく苦しく好ましくないのだけれども報酬にありつくために我慢しながら過ごす罰系の時間があるでしょ。
私の想像では天国というところは報酬系の時間が永遠に続く場所で地獄とはその逆に罰系の時間が永遠に続くところなのよ。私はつらく好ましくない時の中で永遠に過ごさなければならないような場所には金輪際近づきたくないの。楽していきたいタイプなのよ。
それでも死後の世界があるのかないのかという事は科学で証明できないし、御子の御言葉があったとしても、はっきり言ってふたを開けて見なければ判らないことなのよ。私のような人間は科学者の言うことより聖書の預言や御言葉の方を信用するタイプだし、心霊体験など実際にさせられているので死後の世界がないわけがないとする確信に至っているけれどもね。
もしそうでなかったとしても死については考えておかなければいけない理由があるのよ。生きている以上は考えたくなくてもいつかはその谷を超える時が来るでしょ。死後の世界があるとの確証がなかったとしても、人にとって死後という時間は必ず来るのよ。家族の死に直面すればだれもが見ている光景でしょ。
その時に死後の世界というものがなく、それですべてが終わりであれば何の問題もないのよ。問題なのは死後の世界があって生前より好ましくない状態に置かれることなの。悪いことを考えずに普通に生きていればそれだけで生前より好ましい状態に置かれるのであればそれも問題ないわよね。しかし神様の世界はそれほど甘くはないわよ。メシアである御子は慈悲の神様で、お釈迦様の説法もお慈悲による獅子吼だったのよ。しかし三柱の神様の内の一柱は峻厳をもって鳴らす神様だからね。侮ると怖いわよ。
それはさておき当初私の考えたのは死後の世界があり好ましくない状態に置かれるリスクは絶対に回避しなければならないという事だったの。そのように突き詰めて考えれば話は結果に付随するリスクを回避するための安全性の確保という問題になってくるのよ。
死について考えるのを忌避するということはそのようなリスク管理を放棄しながら生きるという事なのよ。そしてそれが世間一般の普通の生き方なのよ。私の目には神仏の啓示によりそのようなことに対する警鐘が古代から乱打されているにもかかわらず、油断しながらグレーゾーンで遊び惚けている人ばかりの世としか映らないの。
そのようなことを思うといつも1999年の夏の玄倉川の映像が思い起こされるのよ。神仏による彼岸への避難勧告を無視していながら、そのような因果で助かるものではないと瞑想するのよね。阿吽
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