このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
(天照大御神の心御柱)
(三柱の神の宇宙)
(聖書において命の木のカバラの示すこと)
(イエスは御父による人類のいいなづけだった)
(イスラエルの十二と永遠の命)
(聖書に書かれていたお釈迦様のこと)
このブログを書き始めてからも瞑想をしながらいろいろな考察を重ねて来たの。その間にも色々なことを想起させられ、いくつものキーワードが生まれて来たの。魔訶般若波羅蜜多による虚空蔵求聞持法やタントラ密教などのバジュラヤーナとか。
考察の中心はブログのタイトルになっている聖書と古事記なのね。そしてその柱がカバラの命の木と古事記の真榊なのよ。
そうこうしているうちにあっという間に世の中が大きく変わってしまったの。そうして全体というものを考えてみた時に、その全体を、キーワードを用いて、たった一言で言ってしまうと、すべてが神様の超能力による、とするのが一番しっくりくるのよ。
魔訶不思議な異能の世界から日常生活に至るまでの全てがその力により成り立っているのよ。人間の生死がその内にあるのだからそうなるのよ。
そのような中にありながら人間は神や弥勒仏の戒めに背きながら生きて来たのよ。現代においては世界中がその背きの罪の極みに達しようとしているとしか私には思えないの。
聖書の中で、御子は人々の不信仰に驚かれたと書かれているの。天照大御神の心御柱が御子の十字架として世に知らされて大分時が経つのに、そのことに対する日本人の無関心さを見るにつけ、私もその不信仰に驚いてしまうのよ。驚きを禁じ得ないの。
世の中の風潮やその時々の流行などは、現代では若者が牽引しているでしょ。世の中が豊かになったということだからそれで良いのだけれども、そこにどうしようもないくらい大きな落とし穴がぽっかりと穴を開けているのよ。
昭和において時代が革まった時には日本の学生たちは政治に大きな関心を持ち、ヘルメットと角棒で武装し大学紛争で石を投げていた時代があったの。
それが1960年代のことなのよ。そうして70年代と80年代を経て90年代の後半に至り、インターネットの時代に突入していったでしょ。大雑把にとらえるとその間の若者の文化はテレビのアイドルとヒーローに牽引されて来たのよ。そしてテレビアイドルの時代はアニメドラマを底流にして、インターネット上のアイドルの時代へと引き継がれて来たのよ。
私は70年代と80年代にまたがる流行の中で若い頃を送ったのだけれども、すこし独特なところがあったの。テレビでは楽しめなくなり海外のポップスに傾倒するうちにジャマイカのポップスに取り憑かれてしまったのよ。そしてジャマイカのカリスマをアイドルとしてしまったの。
今でこそジャマイカのレゲエは日本でも若者の流行のスタイルの一翼を担うまでになっているけれども、その当時は、仲間内でも特異な目で見られる部類だったのよ。
ヨハネの黙示録 5
5すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
今ではそのレゲエという音楽が若者文化の一翼を担うまでにこの国で受け入れられているの。しかし私に言わせればただそのファッション性しか入って来ていないのよ。
カリスマは十分に意識されているのだけれども、ただそのファッション性だけなのよ。そのカリスマが活躍した時代の終焉と共に終わったのねという理解なの。今ではそれでよかったのねと感じるのだけれども、私のような人間は、それが日本の昭和の大躍進の時代と轍が一つだったというところに不思議さを感じてしまうの。
この記事で何が書きたいかというと、アイドルとは直訳すると偶像なのよ。アニメヒーローやインターネット上のインフルエンサーがアイドルになる時代で、平たく言えば偶像がカリスマになる時代なの。
この偶像崇拝が神様の超能力により何度も駆逐されてきた歴史が聖書の歴史なの。シナイの荒野、ソロモンの時代、ユダヤにマイトレーヤーとして御子が降臨した時代すべてに共通しているのがそのような歴史なのよ。
そしてその歴史は革められたイスラエルとしての、大御神の神国に引き継がれているのよ。大御神の心御柱が御子の十字架として明かされた神の国において、またもや偶像崇拝の大輪の花火がどんどんと打ち上げられる時代に至り、その偶像崇拝が最高潮に達しようとしているように思えるのよね。
そのような時に起ころうとしている災いに巻き込まれることの無いようにしようと思ったら、ただひたすら御子を霊において崇拝することでしか免れようがないのよ。そのようにして神様の超能力に呼応することでしか免れ得ないと書かれているの。阿吽
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