このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html (イエスは御父による人類のいいなづけだった)
神社にお参りする開運方法でお水取りというのがあるでしょ。暦上で大大吉の方位にある神社の手水舎でお水を汲ませていただいて、それを持ちかえっていただくと開運するというやつ。しかもお水取りの時刻にも開運のパワーが左右されると信じている人とかもいるのよね。
私が思うには神社の手水舎はすべてが真名の井戸なのよ。天真名井なの。家庭の蛇口も同じく真名の井戸なの。人間というのは神様が与えてくださる糧と水で生きているでしょ。神道ではその糧を真名の板で調理し、お水を真名の井戸から汲むと理解しているのよ。
マナの語源は聖書の中にあるでしょ。そして聖書の中でメシア・イエスは私が命のパンでありマナだと言っているわ。そしてイエスから水を汲むものは渇くことがないとも言っているでしょ。
それがイエスすなわち大御神の真言と神道は理解しているのよ。その大御神が、私の肉を食べ血を飲まなければ父の御国には受け入れられないとみことのりしているの。
人はこの世で神さまの与えてくださる糧と水で養われるけれども、ついには終わりを迎えるでしょ。でもね、後の世で永遠の命を受け、父の御国に受け入れられる人は、キリストの肉と血を、命のパンと水として受けるということなの。
キリストが命の水の水源であり、真名の井戸であり、龍神様の水源なのよ。神道の包丁式は竜門の鯉を真名の板の上で捌くの。龍門の滝の御神事なの。その滝上に御国への登竜門があるのよ。その登竜門がイエスの示した狭き門であり、イエスの肉を食べ血を飲んだものが通していただけるの。そのイエスの肉を食べ血を飲む作法をそれとなく伝えているのが直会の儀式なの。竜門の鯉(富士山は不死山で不死の御国の御山)
直会においては穀物や海産物、そしてお水やお酒をご神前にお供物として捧げるでしょ。そして祭りの後にそれをお御饌やお神酒としていただくでしょ。お供えする食物がイエスの肉であり体でしょ。水やお酒はイエスの血なの。イエスご自身が自分の体と血を十字架上で御父に対するお供物として捧げたの。同時にそれが人に永遠の命をもたらす食物と水、お御饌とお神酒となったの。だからそのお御饌とお神酒をいただくことが永遠の命をいただくことに繋がったの。
それが最後の晩餐でイエスが弟子たちに示したパンとぶどう酒なのよ。パンを裂きながら自分の体であると弟子たちに与えたでしょ。ぶどう酒を自分の流す血であるとして盃を回したでしょ。
そのことが、イエスの、弟子たちに示した直伝となり神道に繋がったのよ。ここで見落としていけないことがあるわよ。イエスの井戸から汲んだのは命の水だったはずなのに、いつの間にかぶどう酒に変わっているでしょ。そのことはイエスに愛された弟子であるヨハネが最初の奇跡として福音書で示しながら解き明かしているわよ。
イエスは最初の奇跡の時、母親に、私の時はまだ来ていませんと言いながら、瓶の縁まで水を満たして宴会の世話役のところへ持って行くように召使いたちに言いつけたでしょ。その時に水はぶどう酒に変わっていたの。これを悟らなければイエスの肉を食べ血を飲むことはできないのよ。
イエスの井戸である真名井から水を汲んだらそれを世話役のところに持って行き、ぶどう酒、すなわちお神酒に変えていただかなければ、イエスから直会を受けることはできないの。
それは龍神様の水源からお水取りをさせて頂いて感謝したとしても、神前にお供えしてお神酒としていただかなければ、汲んだだけの水は水盃となるということを意味しているのよ。水盃が意味するところは今生の別れでしょ。神様と水盃を交わすことになるの。
それはね、人はこの世に来て糧と水で養われ、それを感謝しながら生きたとしてもそれだけでは水盃になるということを意味しているわよ。神様から見れば水臭いということになるのよ。
生かされている事の感謝ということは宗教家がよく言うところでしょ。最近では宗教家ではなくても、スピリチュアルの世界に目覚めヒーラーとして働いている人や、現代の陰陽師として看板を掲げている人たちはみなそのように言うでしょ。そういう人たちにとっても龍神様は大人気だから皆龍神のことは語りたがるでしょ。龍神様は神様の使いの筆頭格だからそのような世界の人たちはみんな龍神様のパワーを必要としているの。
でもね、生かされている事を神様に感謝しなさいなどということは、イエスが注意するよう促した、パリサイ人や偽預言者でも言えることなのよ。そのような人たちは龍神様を知った気になっていても、滝上にある登竜門のこちら側で自分の弟子たちに教えているだけなの。
狭き門から入ることを今だに許されていないのに神様のことを語りたがるそのような人たちに注意するようにイエスは促していたの。そのような人たちの中には様々なタイプの人がいるわよ。みな心根はやさしい善良な人たちなのに、裸でこの世に来た時にすでにそこにいた蛇にそそのかされるの。一番気の毒なのは、そのままオカルトのスピリチュアルの世界で覚醒してしまい、人々を癒すために働いていると信じ込んでいる人たち。そのような人は、私に言わせればこの世的なご利益開運の射幸心にしか訴えることができないし、訳の分からないカタカナネームの宇宙存在とつながっていると公言してしまったりするから見分けるのは案外簡単なのよね。
その他には聖書を信仰の柱として掲げる教会の人達も同じなの。ケルビムときらめく炎の剣で守らせられている命の木への道の入り口が、龍門の滝上の狭き門であり、大御神の神道により悟るよう促されているにもかかわらず、外国人の神学に絡めとられているのだから、この国に生まれながらも気の毒な人達と思ってしまうのよ。
でも本人たちは救われた気でいるから自分たちの教会に人を招きたがるでしょ。龍神様からお水取りさせて頂いただけで救われた気になってはいけないの。
では一体私はどのようにしたらイエスの肉を食べ血を飲むことができると理解しているのかというと、イエスの肉を食べるということは、イエスの体が十字架上で絶命させられ、三日目に復活したということを、見たわけでもないのに見たかのように信じること。聖書にそのように書いてあるのだから。
イエスの血を飲むということはイエスの御言葉を丸ごと鵜呑みにしてそのまま信じること。イエスの御言葉はイエス御自身が語ったように、そのまま天の父の御旨であると信じて飲み込むこと。
それが神様が天から降らせるパンをたべ、生ける命の水をイエスから汲むということなの。でもそれを感謝することだけで終わってはダメなのよ。
汲んだ水は宴会の世話役のところに運ばなければいけないの。この宴会の世話役とはイエスの言う助け手のことよ。イエスは信じる者には助け手を送ると言っていたでしょ。イエスと結ばれるための宴会の世話役であり、それはイエスにより明かされた聖霊のことよ。
さらにイエスは、自分の十字架を背負い私について来なさいとも言っていたわよね。この言葉がネックになっているの。イエスの肉を食べ血を飲み、それを自分の血肉に変えたうえで、その血肉を、イエスがそうしたように自分自身の十字架上で、御父のご神前にお供物として捧げなさいということなの。
イエスは父と私はひとつであると言ったでしょ。人はイエスにならい自分の血肉をお供物としてご神前にお供えすることにより、父とイエスとひとつとされるの。それが梵我一如ということであり、ブラーフマナのパンと水となり一如とされるのよ。イエスに対する信仰は当たり前で、その上でイエスをお遣わしになった御父に対する信仰が伴わなければお話にならないのよ。
その過程において脳の正常性のバイアスは破壊され、骨肉として理解していた自我は、実は霊肉であったと悟るのよ。当然お釈迦さまが御説きになったことをも飲み込まなければ無理なの。イエスは、人は新たに生まれなければ天の御国には受け入れられないとも言っていたでしょ。そういうことなの。
そのようにして龍門を超える準備が整ったときに助け手が送られてくるの。イエスから送られてくる聖霊によりバプテスマを受け、イエスから汲んだ命の水が縁結びの固めの盃に変えられるの。
当然聖霊により覚醒させられるからヨーガタントラにより示される七福のチャクラと七福神と、聖霊であるシバ神の関係などもチャクラの覚醒により示されるの。
そうなってしまったら自分の脳は主役の座を霊的中枢であるチャクラに明け渡さざるを得ないから霊主体従の生き方に変えられ、その霊的中枢において癒されるわよ。そうなった時に真の開運ということが理解できるはずなの。
しかしね、イエスは地上に富を積んではならないと言っていたでしょ。この世的なご利益による開運を求めること自体に無理があるの。しかしね、世間一般のイエスによる覚醒などということと無縁の人はそれを求めざるを得ないでしょ。
そこに人をそそのかす蛇の思うつぼがあるのよ。人は皆そそのかされ騙されるの。だからその事を悟り、蛇が騙したので取って食べましたと神様に懺悔しないと難しいわよ。だからイエスは悔い改めよと教えていたの。
私たちが騙され、神様に背いたからイエスはその罪を負い十字架上で死ななければならなかったの。
このようなことは限られたごく一部の人にしか理解し得ないことなのかしら。でもね、私は訳の分からない宇宙存在に聞いたことを語っているのではなく、すべて聖書や古事記、仏伝や古史古伝、神道により学ばされたことを語っているつもりよ。それらは誰でもが知ろうと思えば知ることのできるはずのことなのよね。
にほんブログ村
神道ランキング
にほんブログ村
聖書・聖句ランキング