天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

2019年10月

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 今日は久々に五記事目。実はもうこのブログから離れ自分の生業に専心しようと思っていたのよ。だからしばらく書かなかったの。もう自分の気持ちの迷いは失せて、ぶれない不動心というものが分かったから過去の経験で絶好調であった時期を凌駕して生業に精を出そうと思ってブログ捨てる覚悟だったの。

 

もう自分が知り得たことは包み隠さず全部出し切って書いたからもういいでしょと思っていたのよ。そうしたらね、意味不明の無気力、まったくのやる気のなさに見舞われたの。なにこれ?という感じ。そしてね、台風19号の接近に伴いなぜが玄倉川の水難事故が思い出され、それにより思いを新たにされたのよ。神様の救命隊とか、大自在天のレスキューとか今日の記事で書いたことは台風19号の暴風と豪雨で安アパートが揺れる中で、あ~、風神と雷神と龍神様がこられている、とか瞑想しながら得た着想なの。

 

なぜ19号の襲来の直前で玄倉川の水難事故など思い出して記事に書いたの?という感じなの。そして今日四記事書いてわかったの。菩薩ヨハネが六百六十六の印を右の手か額に受けなければ売り買いをできなくされたと書いていたことの意味が。薄々とは気が付いていたことだけれどもやはりそうだった。イエスは、金持ちは天国には入れないと宣言しているのよ。はいれないでななく、いれないなの。神と富とに兼ね仕えることはできないとも言っているでしょ。カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返しなさいとも。お釈迦さまは乞食(こつじき)の人だったでしょ。梵天と弥勒菩薩の喜捨とお布施により食を乞う道の人として教えを説いていたのよ。

 

大自在天のレスキューによりその列に加えられたら売り買いできなくされるの。それでも現代はバビロンのシステムが行き届いているから、生きていると嫌も応もなく請求書は来るでしょ。それでも弥勒イエスの御言葉が絶対なのよ。お釈迦さまはバラモン教のはびこる宗教地帯で破格の人だったので長者たちが喜んで寄進をし、その喜捨により祇園精舎に弟子を住まわせたでしょ。その弟子たちは救命隊としては機能しなかったけれども仏陀の救命法を後世に伝えたでしょ。現代法滅の弟子たちは最悪よ。仏陀の救命の経を、死んだ阿修羅とその親族の弔いの席で聞かせて、そのような何の功徳にもならないことで仏陀にかこつけ布施と称して、葬式代金をまきあげて、成仏とか言っているのよ。最悪でしょ。私の目にはそう映るわ。これが仏陀の示した正見だと思うのだけれどどうかしら?

 

話がそれたわね。何が言いたかったかというと本当に大自在天からレスキューを受けてしまったら、神のものを神に返すのが本業の正業、カエサルのものをカエサルに返すのは副業としてしか営めなくされるということなの。神様とのお布施と喜捨の関係が正業で、商業は副業としてしか営めなくなるというのが八正道の正定の定めということなのよ。それを菩薩ヨハネは言っていたのよという理解。

 

この世は幽世の映しなので涅槃と六道の悪趣が同時に映されているから解脱救済のレスキューを受けるのも大変だけれども、受けた後もバランスを取るのが大変なのよね。仏陀の示した菩薩の八正道が杖になるの。やはり仏陀という人は思ったとおり、メシアの婚約者の教育係としてリクルートされた花嫁修業のお師匠なのよ。駆け出しの身には修行はまだ緒に就いたばかりなの。でもなんとかバランスを取り戻せそうだわ。


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この日本の国土は山河そのものが龍神様の龍体なの。山はすべて神の山であり、河川は龍脈として龍神様の血流なの。水なのになぜ血液なのかという問いには菩薩ヨハネが答えてくれるわよ。イスラエルで清めに使う水瓶が六個あり、イエスの言葉に従いその水瓶の縁まで水を満たし婚宴の世話役のところに持って行くと水はワインに変わったと示されているでしょ。

 

ワインは婚宴の固めの盃。キリストの聖杯でありイエスはその聖杯のワインを私の血として受けよと弟子に差し出したの。しかも清めに使う水瓶は六個だったということ。六百六十六の獣の印と、六道の阿修羅を清める生ける命の水であり、イエスの流した血が世話役である大自在天により、固めの杯の神酒に変えられたと示されているでしょ。

 

それらすべては、弟子がイエスの復活を目の当たりにした時に、有無を言わさずに飲み込まされたのよ。弟子は如来と大自在天により救命隊の菩薩としてリクルートされたの。その菩薩たちが神隠しに会い中東からシルクロードを極東に遡上したのよ。モーセの出エジプトによる約束の地への旅路と相似象なの。これは人が前世から現生の荒野を経て来世の約束の地に至ることとも相似象なの。

 

この菩薩の救命隊としてイエスに組織された一団はイエスの龍脈を遡上する鯉となったの。鯉が滝を遡上して上流に至り龍門を超えると龍に変化するというのは中国から仕入れた諺なのではなく、日本人の先祖がシルクロードに残した足跡なの。シルクロードを遡上した菩薩救命隊たちはイエスの十字架を命の木のご神体として携え荒野を遍歴し、登竜門を超えこの日本にやってきたのよ。日本海が登竜門だったかしらね。彼岸から此岸の龍宮城にたどり着き、そこで天照大御神からこの豊葦原の瑞穂の国を安国として平けく知ろし食せと命を受けたと祝詞が語っているでしょ。鯉の滝登りなの。

 

そして鯉の滝登りはイエスに因むの。イエスは十字架上で俎板の鯉だったのよ。御父に十字架上で捌かれたの。それがイエスの滝登りだったの。遡上とか滝登りは信仰の暗喩なの。まな板はイエスの十字架の暗喩よ。蛇口は命の水の龍脈。そのようにして登竜門を超えたイエスが龍神と化し復活して弟子に大自在天を遣わしすべてを整えたの。

 

その帰結がこの国の神道なの。その時の菩薩の一団が闇夜の鴉、八咫烏となり虚空からこの国に結界を張り国家を鎮護しているの。全国八万社のお社がその結界の役割を果たしているの。それ以前は神籬や磐境として文字通りの岩や木が結界として張られていたのよ。その古神道に天照大御神の救命隊の菩薩たちが天津神として天下り、お社の神道として結界を張り直したの。全国のお社には神宮の大麻札が頒布され、結界は二十年に一度常若として新しく張り直されているでしょ。だからこの国は安泰なの。安泰でないのは龍神の逆鱗を逆なでする日本人や外国人なの。

 

龍宮城の乙姫様とか太陽の女神天照大御神として顕されているから、その女神の優しさに甘えこの世にしか目のない男女の阿修羅たちは、みな逆鱗に触れているように私の目には映るわ。その龍神様の御言葉が世界のベストセラーとして知られているのに誰もかれもが御言葉を読んでも行おうとしないのがそのしるし。天照大御神は慈悲の神様だからお許しになるけれどもお許しにならない神様も龍宮でお仕えしているわよ。


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頭頂のチャクラで正しく梵天に祈念するのが正念。眉間のチャクラの開眼でこの世を見晴らすのが正見。耳鼻咽喉のチャクラで虚空蔵の求聞持を観音し正しく語るのが正語。ハートのチャクラで救世を思惟するのが正思惟。みぞおちのチャクラの正しい肝っ玉で行う正業。臍下丹田のチャクラで自分の性にとっての正しい精進を見出すのが正精進。ベースのチャクラでこの世に生まれて以来の間違いを正し、正しく死ぬのが正命。これらの七つのチャクラと大自在天、そして薬師如来と霊線がつながり、定めを知ることが正定。わたし的にはこれが菩薩の八正道だと思うの。大自在天は龍神界から派遣される七福神の救命レスキュー船に乗り込んでいるわよ。宝船として知られているでしょ。七福のチャクラを磨かないと派遣は困難なの。

 

正定に至ると頭頂の千の花びらが開くわ。この千という数は梵天の数なのよ。古事記の中では千曳の岩戸閉め。千座の置戸としてさりげなく暗示されているの。お釈迦さまは三千年に一度開く優曇華の花と示していたのではないかしら。この花を開くのが救世の父の御旨でそれは千載一遇の好機なのよ。千載一遇とかいうととてつもなく難儀なことで競争倍率千倍の狭き門かと目の前が真っ暗になるでしょ。でもね、人間はこの世に生を受けているというそのこと自体がすでに千載一遇の好機を得ているということでしょ。阿修羅のままこの世を終えるということがその好機を無に帰するということでしょ。それは龍神界の逆鱗に触れるでしょうね。

 

大自在天は七殺の祟りの第六天魔王に変化するはずよね。イエスは「聖霊に逆らう者はこの世においても、あの世においても許されることはない」とさりげなく御言葉しているでしょ。菩薩ヨハネはバビロンの淫婦は神の怒りの酒船で踏まれ、その血が馬のくつわに達したと書いているでしょ。阿修羅たちの血の池地獄なの。阿修羅とはこの世で正しい許婚者を見誤り、サタンにかどわかされた愚かなおとめで淫婦だと仏伝と聖書で示されているの。私が観音菩薩に教わりそのように正見してみると、それと知らずに龍神様の逆鱗を逆なでしている阿修羅たちばかりなのよ。困ったことよね。すべてが私の杞憂なら良いのだけれど。



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この世の宗教はね創造主を完全にないがしろにしているわよね。この創造主をキリストは天の父と呼び、仏陀は梵天と示し、ヒンズー教ではブラフマとして示されているでしょ。しかしキリスト教徒は三位一体とか言って御父を識別しないし、仏教は釈迦如来とか言って梵天を仏陀の下位においているし、ヒンズー教ではシバ派とビシュヌ派に分かれていてブラフマは不人気だっていうのよ。

 

私は以前カルトと称されている事を知りながらキリスト教会に所属していたことがあるの。その教会は三柱の神を識別していたからなの。ところがその識別の仕方でとんでもない誤謬が教義になっている事を悟り即座に脱会したの。その教会では信仰を知らない十代の少年が森に入り祈ったらキリストと御父が姿を現したことになっているのよ。この少年が教祖になっているのだけれど不良少年だったらしいのよ。しかしこの教会では預言者とされているの。

 

今の私の知るところでは御父と御子と聖霊の玄義は、御子を救い主と信じ、救い主の父に祈り、その信仰が義とされるまでに高まった時にレインジャーの聖霊が派遣され有無を言わさずに救われるということなの。聖書はよく読むとそのようにしか読めないの。

 

弥勒菩薩を信じ、梵天に祈りが通じた時に大自在天が派遣され虚空蔵の求聞持法により悟りを得、救われるというのがお約束なの。この世の宗教はどういうわけかすべてそのお約束から逸脱しているのよ。キリストがはっきりそのことを聖書で示しているにもかかわらず逸脱し創造主を貶めているのよ。神道でも古事記で、天照大御神より尊い神様がいますことが語られているのに神道家たちはそれを理解して広めようとしないのよ。これはどういうことかというとこの世の宗教家たちが御父と御子に敵対する阿修羅たちで、キリストが注意するよう促したパリサイ人のパン種により養われ、キリストからのパンを受けようとしない人達だとしか理解できないのよ。そのような盲人が手引きしているの。

 

手引きを受けない阿修羅たちもこの世の富や娯楽その他にご執心なの。神様の救済を必要と感じないのだから救いようがないのよ。創造主である神の喜捨、お布施により命の息と食と水を与えられ生きていけるのに、感謝するということを知らないの。そのお布施に対して信仰による感謝というお供物をお供えしなければ神様の怒りを招くなどと思ってもみようとしないの。創造主から救世主という神のパンを与えられたことを無視してただで済むと思っているのだから、この世は本当に始末に負えないわ、よ、ね…。



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キリスト・イエスは救命隊長なのよ。聖霊は隊長から派遣されるレインジャーなの。御父は創造主でありながら救命隊を組織した本部長なの。預言者というのは隊長に救命され、救命隊にリクルートされた救命隊員たち。この救命隊は目に見えるかたちでは組織され得ないらしいのよね。目に見える形で組織しようとした救命隊員のお釈迦さまでもなし得なかったでしょ。

 

でもねこのお釈迦さまはかなり卓越した救命隊員だったので、救命法を後世に残したのよ。隊長がこの世に来る前に、本部長からその才能を見込まれリクルートされ、副隊長とされた人だったの。隊長がこの世に来ることまでしっかりと報道していたでしょ。

 

この隊長と福隊長がこの国では神仏とされているの。それは天照大御神と仏陀釈迦牟尼なの。この仏陀が生まれた時からすでに救命隊は存在していたの。ブラフマ、ビシュヌ、シバとしてね。しかし当時この救命隊をそれと知る人間がいなかったのよ。さかのぼればノアにまで行きつくのだけれど、このノアという人は知っていたはず。ノアの何代か前のご先祖にエノクという預言者がいたのだけれど、エジプトのギザのピラミッドはこの救命三神の神殿として建てられたという伝説があるのよ。仏陀は隊長がこの世に来る567年前にそれを悟ってしまった破格の人だったの。弟子たちがついていけなかったのも無理もないわよね。

 

でもこの弟子たちは仏陀が明らかにした救命法を半ば正確に伝えているでしょ。その救命法がこの救命隊について正確に知る助けになっているのよ。どのように示されているかというと、それが虚空蔵求聞持法なのよ。この求聞持法は阿修羅にとってはちんぷんかんぷんなのよ。自分にとっては、救済など必要ないと思っている阿修羅の方が多いくらいだから。

 

私はこの虚空蔵菩薩とはレインジャーとして派遣される聖霊という神様と理解したわ。仏伝ではいろいろな菩薩や観音、如来がいてオンパレードの様相を呈しているわよね。それは仏弟子たちが、未来仏として示された救命隊長である弥勒菩薩に対する統一見解を欠いていたからそうなったのではないかしら。

 

イエスはこの世に来た時にこの仏伝を学んだと書き残されているのよ。そして父なる神と御子と聖霊について証ししているの。本部長と救命隊長とレインジャー部隊長なの。梵天と如来と大自在天なの。この世に来た弥勒菩薩が梵天の命により救世の業を成し遂げ如来となったことは聖書を学ばなければ理解できないわ。弥勒菩薩は全阿修羅たちの不信仰の罪を一身に背負い十字架上でその罪を祓い清めたの。それが本部長の命令だったの。

 

全阿修羅は既に救済されているのよ。でもね、それを信じない阿修羅は自らの不信仰により、救済されていながらも罪を増し加えるから救われないの。その阿修羅の悪趣から解脱し救済を望まなければ救われないのよ。

 

何から救済されなければならないのか、なかなか理解しづらいということも大きな問題なの。そのことは隊員である黙示録のヨハネがはっきり示しているの。救済されたものは一度目の死を受けても二度目の死から害を受けることはないと。同じ隊員である仏陀も、救済を受けた者は一本目の矢を受けても二本目の矢は受けないと言い残しているでしょ。イエスは自分の弟子たちに復活を約束しているでしょ。菩薩が将来如来となることを約されているというのはそういうことなの。

 

この世に来た以上、救済を受け菩薩の一員とされても死は免れないの。問題は罪をまとった阿修羅としてこの世を終えること。そのことから免れるためにイエスは、天の父に祈れと教えているでしょ。「信じる者には助け手を送る」とも御言葉しているでしょ。それは隊長である自分を信じ、本部長に救済を願い求めよということでしょ。それは阿修羅に信仰がなければできないし、あってもその信仰がおぼつかなければ本部長の裁可は降りないのよ。本部長の裁可が降りるまでに信仰を示した者には隊長の言葉通りに、助け手であるレインジャーの大自在天が派遣されるの。その派遣を受けてしまったらそれは阿修羅にとって神変と感じられるの。神様の救命隊の一員として菩薩とされるのだから当然なの。この大自在天はスーパーレインジャーだから救いそこなうということは絶対にないのよ。

 

そのことは阿修羅の目には映らないから信じがたいのよ。お釈迦様の伝え残した虚空蔵求聞持法で悟るということなの。救命隊長はそのことを「羊は羊飼いの声を聞き分ける」と言い残しているでしょ。それを聞きわけない阿修羅には後に大自在天が第六天魔王として臨むと仏伝で示されているのよ。解脱救済を必要としない阿修羅はいないの。いないにも関わらず宗教者は救命隊の役割を果たしていないでしょ。川の中州で阿修羅たちのバーベキューにつき合っているだけ。そのことを救命隊長は偽預言者とパリサイ人のパン種に注意しなさいと警告しているの。聖書ではこの本部長と救命隊長とレインジャーを、いいなづけ親といいなづけとその世話役という示し方でも書かれているのよ。神様の救命隊は変幻自在なの。



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 久しぶりに記事書いてみようかしら。最近思い出したのだけれど、1999年に神奈川県の山北町の玄倉川で水難事故があったでしょ。あの時十人以上が濁流にのまれ死亡したでしょ。テレビでその人達が川に流される模様が放映されていたでしょ。その人達はダムの管理事務所と警察の避難勧告を三度まで拒否し、上流のダムの放流のサイレンを聞きながらも玄倉川の中州にとどまったのよ。翌朝気が付いたときは既にパニック。自力で避難することのできる水位は超えていたの。

 

この模様がテレビで放映されて、このキャンプのリーダーが相当たちの悪い人で、暴言主だったことでこの災害は「DQNの川流れ」と形容され被害者に同情どころか、自業自得のわかりやすい教訓とされネット上で覚えられているでしょ。この事故があったのが1999814日。818日には太陽系の惑星のグランドクロスがあった日で、玄倉川の被災者たちは滝つぼに流されていたの。

 

この事を不思議に思ったので虚空蔵の玄義を羊飼いに聞いてみたの。そしたらねこの世は、弥勒菩薩が避難勧告を出してから2000年以上の時を経ていて、その言葉が世界中でベストセラーとなりけたたましいサイレンとして鳴り響いているのにそのサイレンの音を聞き分け、菩薩とされ救われる阿修羅たちがとても少ない災害現場だと教えられたわよ。

 

まさにこの世は世間虚仮、河童の川流れの水難事故の現場なのだって。

 

警告を発している弥勒菩薩は、「羊は羊飼いの声を聞き分ける」と御言葉しているわ。この御言葉が玄義であり、虚空に鳴り響く羊飼いの声なの。阿修羅は聞く耳を授かりこの世に来ているのに聞く耳を持たないのよ。馬耳東風の河童の河流れでしょ。

 

虚空蔵の羊飼いの声を聞き分けた羊は、川の流れを遡上する鯉のぼりに変化するの。中州の娯楽バーべキューから解脱するのよ。そして遡上を遮る滝を上って上流の竜門に達するの。

 

この竜門に達し、その竜門を目にした時に、第三の眼が開かれ、弥勒菩薩から竜門をくぐって菩薩とされるための助け船を出されるの。先に如来となった弥勒菩薩からの助け船よ。この助け船なしには竜門は通していただけないわよ。この竜門を通していただいた阿修羅が菩薩とされたときに、頭頂のチャクラの千の花びらが開くと瑜伽タントラで示されているわよ。この花びらは開かれなければならない理由があるわよ。

 

死と黄泉の鍵を握るのがこの弥勒菩薩だと示されているわよ。「私のことを信じない者が私を殺すのである」「私を見ないで信じる者は幸いである」それが弥勒菩薩の詔。弥勒菩薩に対する信仰なしには何事も起こりえないということ。

 

玄倉川の水難事故を対岸の火事と思っている阿修羅は、弥勒菩薩の虚空蔵の玄義を聞き分ける羊として、悔い改めるところからやり直さないと河流れになるわ。

 

玄倉と玄蔵と言霊になっているわよ。魔訶般若波羅蜜多の虚空蔵求聞持。幽玄の幽世と顕世の色即是空なの。

 

この顕世は、川の流れのよ~に~♬とかいう歌の雰囲気に流される河童ばかりなの。


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