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今年も九月九日の重陽の節句が巡って来るでしょ。菊の節句とも呼ばれるこの日なのだけれども、この日が巡って来ると、日本人は盲点の内にいてこの日の持つ深い意味を見落としていると毎年思うのよ。
夏越しの大祓に至る三月三日の桃の節句と陰陽を成しており、年越しの大祓に至る重要な節句なのよ。
この重陽の節句の神様が菊理姫命なのだけれども、その神様と同一神とされる白山比咩神をお祀りする白山比咩神社の説明を見ても、この神様と重陽の節句の関連は語られないの。
菊理姫命はくくり姫と読ませているのだけれどもそれは括り(くくり)を意味していて、日本書記でただ一か所、伊弉諾尊と伊弉冉尊の別れの場面の黄泉比良坂に登場し、その二神の和解を取り持つ括りで、縁結びの神と説明されているの。
その様だから九月九日の菊の節句という極めて重要なヒントが龍宮の暦に組み込まれているのに、それを見落としているとしか思えないのよ。ここにも龍宮のバジュラヤーナによるトリックアートの仕掛けがあるという視点で読み解こうとすると、中秋の名月の菊花酒に映る月見酒まですべてが繋がっている事が見えてくるのだけれども、表の神道はその視点を欠いているの。
それは大祓の人形代が晴明さんの式神と同一の呪術であるという視点を欠いていることと同じなのよ。菊理姫命の「くく」は九九なのよ。九九理の姫なの。そして九九が白なの。だから白山比咩神と同一神なのよ。九九の白に一を足すと百になるの。百は生命御守護の十種神宝では「もも」と読まれるのよ。
黄泉比良坂に菊理姫命が顕れる直前には、伊弉諾尊が追っ手を追い払うために三つの桃を投げているのよ。これは命の木の三種の神器を表していて、それが晴明神社で祀られている厄除桃なのよ。伊弉諾尊が投げた三種の神器が厄除桃なの。それは三度の大祓を意味しているのよ。
この大祓の主役が桃太郎さんなの。桃太郎さんが手にする日本一という幟旗があるでしょ。桃引く一が九九なのよ。百引く一が九九で白なの。それが九九の理で、菊理姫命が白山比咩神と桃太郎さんと同一神で、すべて伊弉諾尊の投げた厄除桃の神様でそれが天照大御神であり、封印されているメシア、キリスト・イエスなのよ。白がその象徴の色で、神の子羊とたとえられるメシアの御言葉が比咩なの。め~と鳴く羊の鳴き声にたとえられるメシアの御言葉なのよ。
重陽の節句の菊花酒は、長寿をもたらす菊水にメシアの御言葉が加わり、永遠の命運をもたらすお神酒として醸造されたのよ。ワインに変えられた水がその元なの。その御神酒に中秋の名月である満月を映して生命御守護の天照大御神と月読命のコラボの完成なのよ。
その様なトリックアートは神道の重要な神社においても、まず古事記の下敷きが聖書であり、そこで語られるメシアの御言葉によりすべてが始まっているという視点を欠いていては、見ることが出来ないのよ。
全てが大祓につながっているの。龍宮のお祭りはすべてその様な伊弉諾尊のバジュラヤーナによるトリックアートでつながっているのよ。日本人か外国人かに関らずメシアの御言葉がふるいなのよ。聞き分けなければふるい落とすというのが生命御守護の月読命に課せられたお役目なの。
九九はメシアを示しているけれども九九九はメシアをお遣わしになられた父の数霊で、その一撃で千代に至るのよ。その千代において九九九の数霊のお祓いで。六六六が屠られるとメシアの使徒に預言されているのよ。
そのことが八幡様の巴紋の裏側に示されていたでしょ。バジュラヤーナによるトリックアートなの。