天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

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 京都に、丹後一宮元伊勢 籠神社というお宮があるの。
この神社の奥宮には真名井神社があるの。
その他にも神話の里とされる土地には、天真名井という言葉を冠した神社があるの。

 この天真名井とはイスラエルの井戸のことよ。

 

真名とはマナでモーセの時に神変によりイスラエルに降った神のパンなの。
同じ荒野で神変により水が与えられたわ。ここからすべてが始まったの。

 

サマリヤの女とイエスの物語が聖書には出てくるでしょ。
ここでイエスはわたしから水を汲むものは渇くことがないと教えたの。
それでサマリヤの女はイエスがメシアであると悟ったの。

 

翻って古事記にも似た話が出てくるわよ。

 

山幸彦が海神のお宮に行ったときの事、お宮から水を汲みに出て来た侍女に、
水を飲ませてくれるように頼みながら、水を汲んだ器に口から玉を吐き入れたの。
そうすると玉は器にくっ付き取れなくなったと書かれているの。

 

この物語は古事記だけでは意味不明でしょ。でもね古事記は聖書と読み合せないと
わからないように倒語
(さかしまごと)で書かれているわ。

 

聖書に眼をうつせば、イエスがヤコブの井戸に座っているときに、
サマリヤの女が水を汲みに来て、イエスはその女に「水を飲ませてください」と言ったのよ。
そしてイエスの言葉でその女はメシアを悟ったの。

 
 この二つの物語とてもよく似ているでしょ。
そこに着目してカバラを当てはめ解読すると、聖書において神が天から降らせるパンと、
ほとばしらせる水はどちらもイエスの御言葉だと言っているのよ。

 

モーセの時天から降ったマナは記念としてツボに納められ、
マナの壺としてイスラエルの神器となったの。

この壺の中のマナはイエスから汲む生ける命の水と同じ物だと、
古事記の稗田阿礼さんは言いたいのよ。

 

マナも命の水も神の賜物でイエスの御言葉であり、人はそのイエスの言葉で
メシアを悟り救われると言っているのよ。

 

山幸彦が吐き出した玉はイエスの言霊であり、勾玉という神器でもあり、
器とくっ付いてしまったのは、マナの壺も勾玉も、どちらもイスラエルの神器である
賜物を示唆しているの。カバラなの。カバラとは賜物なの。
その賜物としての壺を如実に示すのがあの前方後円墳の形なの。

 

その後イエスは十字架上の死を言霊でしめし十字架についたわ。
そして命の木になる賜物の果実となったのよ。
そしてこの時にマナはイエスの体になり、
水はぶどう酒であるイエスの血に変わったの。

 

ヨハネはカナの婚礼においてイエスの最初の奇跡として、
水をぶどう酒に変える話を書いているけれども。
これはヨハネの倒語
(さかしまごと)なの。

 

人はイエスの言葉によりメシアを悟り、その信仰によりメシアの十字架の意味を理解し、
救われると言いたかったの。

 これが最後の晩餐のパンとぶどう酒の持つ意味よ。

 

だから天真名井とは、賜物であるイエスの言葉を汲む井戸であり、
ヤコブの井戸=イスラエルの井戸=イエスの井戸なの。
この井戸から汲んだ水を甕の縁まで満たすと神変によりぶどう酒に変わり、
イエスからぶどう酒の杯を受けるという事なの。
これが賜物であるイスラエルのカバラであり、古事記の倒語
(さかしまごと)なの。

 

信仰により天真名井から汲む水を瓶の縁まで満たし、宴会の世話役である
聖霊のところに持って行かないと、
水はぶどう酒には変わらないの。


 神道ではこのパンとぶどう酒をお御饌(おみけ)と御神酒(おみき)としてお供えし、
お祭りの後の直会としていただくの。
お御饌はイエスの体であり、御神酒は水杯から変えられた固めの盃なの。
直会とは弟子たちがご神体に直に会い、そのようにおおせつかった
お祭りだという事を示しているの。

 この国とはそのような国なの。


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 イエスから聖霊を賜るということははっきりとした神変だ。
うすぼんやりとした感覚的な事ではない。
あなたが葡萄酒を受けたので、イエスもあなたのいちじくを受け
ご縁が結ばれたと知らせる御神霊だ。地球神籬の最高神からのお使者だ。
開眼させられるとPTSDを発症しかけるが薬師様の施薬により癒される。

 聖書はイエスを証ししている。
しかしイエスは、今は天に上り天照大御神としてこの地球神籬において祀られている。
イエスの詔によりなった安国で、平けく祀られている神の道が命の木への道だ。
そこには門番がいて御用のないものは通さぬと言っている。
聖書は重要だがそれだけでは通れない。

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 大祓詞でのられる天津金木とはヨハネが示した「良い実を結ばない木の根元には
斧が置かれていると」という言葉を示している。天の金克木だ。
天津菅曾とは神が手にする箕のことで十種の神宝を示している。
この十種の神宝で篩い分けられ、切り倒されるという事だ。
どちらも禊の現場において語られた。


 十種の神宝とはそれはモーセの十戒だ。
そこには安息日を心に留め大切にせよと書いてある。

これは七日目の天における千年間の大宴会のことだ。
この宴会にイエスのバプテスマを受け馳せ参じることが、天神様の
七つの祝いにお札を納めると示されてきた。
納めないものは丑寅の金神の七殺の祟りを受けると
言いつがれてきた。

 直会のお祭りの御饌と神酒はイエスの肉と血だ。
では神前のお供物は何か。それは信仰者の肉と血だ。
神はそれを食し空腹を満たす。
自分の十字架を負いイエスのように血を流すことを意味する。
イエスは真の葡萄であり。人の信仰はいちじくの木。
実がなければイエスは怒り呪われる。そう聖書に書いてある。

 イエスの肉と血を食すとは瓶の縁まで水を汲むという事だ。
すると水は葡萄酒に変わる。これは満たした信仰によりいちじくの実が生り、
それをイエスに食していただき空腹を満たして差し上げるという事だ。
それが葡萄酒の固めの盃で、盃事がなると介添のお使者が結納のために遣わされる。
 

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