天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

タグ:真榊

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陰陽道の対極図あるでしょ。最近記事にしたのだけれども、三つ巴が神道の本筋で対極図はお宮で見かけたことがないので偏見を抱いていたようなのよ。

 

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どうやら京都の晴明神社の式神象の近辺にあるマンホールの蓋なのかしら?そこに描かれているらしいのよ。晴明神社の公式ページでは紹介されていないのだけれどもなぜかマンホールの蓋と思しきところに描かれているのよ。見る人は陰陽道との連想で不思議に思わないのでしょうけれども、晴明さんにゆかりがあるとなると絶対に何かが隠されている、この蓋の下には何が隠されているのと想像が膨らむのよ。何故マンホールの蓋なの?

 

晴明さんと言えば式神でしょ。紙の式神はどう見ても大祓の人形代にしか見えないのよ。しかしつながりがあるとは説明されないの。知らないから説明できないのか、知っていて隠しいているのかの、どちらかなのよ。八咫烏は確実に後者のはずなの。

 

ウィキペディアで丑の刻参りを参照するとこんな一文があるの。

 

室町時代にこれを翻案化した能楽の謡曲「鉄輪」においても、橋姫は赤い衣をつけ、顔に丹を塗るなど赤基調が踏襲され、白装束や藁人形、金槌も用いていはいないが、ただし祓う役目の陰陽師晴明の方は、「茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め、(後略)」祈祷をおこなうのである。よって現在の形で丑の刻参りが行われるようになったのは、この陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという見解がある。

 

 晴明さんが茅の人形を人尺に作りと書かれているのよ。これどう考えても茅の輪くぐりと人形代の大祓でしょ。それと丑の刻参りが結びついているのよ。カバラの命の木は人形代に見立てられることもあるでしょ。ということは、命の木は真榊と完全に一致しているから、その真榊を人形代に見立てると、鏡を首からさげた鬼女の姿が浮かび上がるでしょ。この鬼女の手にするのが藁人形なの。 

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 藁人形を手にした鬼女は宇治の橋姫伝説が元になっているの。鬼女と化した橋姫を封じ込めたのが晴明さんなの。そして晴明神社の説明によれば式神とは、晴明さんにより橋の下に封じ込められ、橋を渡る人の橋占、つまり占いをしていたとなっているのよ。

 

そこで思い浮かぶのが神宮の宇治橋の守り神の饗土橋姫神社なのよ。宇治の橋姫なのよ。これらが晴明神社のマンホールに封じられている秘密なのよ。隠しているのは八咫烏しかいないでしょ。

 

そしてここまで来たらもう悟るしかないの。神社の境内とは女神の胎蔵界に見立てて造られていたでしょ。命の木が丸ごとその胎蔵界でもあるのよ。下層世界が一の鳥居、中高世界が二の鳥居、ダアトが拝殿、至高世界が本殿なのよ。

 

それを神宮に当てはめるとダアトが本殿でその下に封じられている地下殿が至高世界なのよ。そこで心御柱として封じられている御子イエスの十字架がお祀りされているの。十重二十重に封じられている呪術なのよ。命の木と真榊の完全一致が飲み込めてしまうと、それが白日の下にさらされてしまうのよ。

 

このダアトのルートが宇治橋でもあり神宮の境内が至高世界でもあるのよ。神宮の宇治橋の下に式神が封じ込められ、御用のない者通しゃせぬと橋占をしているのよ。このダアトは千歳の世の終わりの六百六十六の大祓も隠されていたでしょ。式神の橋占とは素戔嗚尊と天照大御神の誓約による卜占のことなのよ。それが晴明さんの陰陽道の正体なのよ。その様だから陰陽の対極図の本当の意味は生命御守護の蛇と唆す蛇の陰陽なのよ。同時に太陰と太陽で月読命と天照大御神の陰陽をも表しているの。

 

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 それと同じことを左右一対の真榊も示しているの。一対の真榊は幹と根っこの陰陽なのよ。光を志向する幹と闇に生える根っこで、園の中央の死の木と命の木の陰陽、命の木に絡みつく生命御守護の蛇と死の木に絡みつく蛇の陰陽なの。メシアとサタンの陰陽なのよ。

 

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向かって左の真榊が死の木でやがて伐り倒されるべく剣が架けられているのよ、右側の木が命の木で大御神の御霊である鏡と勾玉がかけられるの。この勾玉も命の木のダアトの下に隠されていてこの勾玉に素戔嗚尊がお隠れになっているのよ。

 

何故かというと向かって左の真榊が剣を振るう裁き神の月読命でもあり、右が天照大御神の真榊で、真榊は命の木と完全に一致しているけれども中央の柱は封じられているのよ。その柱が伊弉諾尊の柱でダアトはその鼻なの。その鼻に素戔嗚尊が封じられていて、勾玉として右の真榊に鏡とともにかけられているのよ。そこに父なる神と子なる神の梵我一如が暗示されているでしょ。ダアトに共に封じられている素戔嗚尊と式神の梵我一如なのよ。

 

伊弉諾尊に天の御父と素戔嗚尊が封じ込められていて、式神に天照大御神とユダヤの王イエスが封じ込められているの。

 

また完全に想定外の記事になってしまっているの。梵我一如は想定外だったわ。素戔嗚尊と天照大御神の梵我一如の誓約だったのよ。八咫烏はブラーフマナなど想定内だという事なのよ。命の木と真榊と対極図や三つ巴紋すべてに蛇の陰陽と太陰太陽の二つの陰陽が封じ込められているのよ。

 

命の木では唆す蛇がどこに封じられているかというと、滅びの世界のマルクトで、ここが命の木の闇に生える根なのよ。その闇の蛇の頭を砕き命の木の火の蛇神が三巻半で至高世界に誘導するのよ。それを左右から御守護するのが天照大御神と月読命なの。

 

剣と鏡と勾玉はお宮の真榊では左右の月読命と天照大御神にそれぞれ託されているけれども、命の木ではすべて伊弉諾尊の柱にかけられているの。それが天の岩戸の前に掲げられた根付きの真榊なのよ。

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命の木のダアトが喉のチャクラで文字通りネックだったのよ。大事なことはここに全部封じられていたのよ。梵我一如まで隠されていたのよ。

 

ヨハネによる福音書 10

 29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

30 わたしと父とは一つである。」

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福音の原則に従って御霊を受けると簡単に言うけれどもそれって日本人にとっては尋常なことではないのよね。御神霊に関することなのよ。御神霊などと言ったら日本人にとっては一生関われるものではないというのが普通の感覚でしょ。私はずうっと聖書に張り付いて来て二十年以上たった時に御霊に感じてしまったの。

 

そうして心御柱の古事記を読んでいるうちにその裏が読めるようになり、聖書に何が書いてあるのかもはっきりと飲み込めるようになってしまったのよ。そのことについて、書いてはいけないと思うこと以外はすべて記事にして来たのよ。

 

書きながらも覚醒しながら、命の木を最後まで自分なりに解読してしまったようなの。聖書の命の木と古事記の根付きの真榊の完全一致なのよ。御霊に感じながら御言葉を杖としてきたの。そのような状態の中に放り込まれてしまったから、それが当たり前の世界の中にいるのよ。

 

しかし冷静になってよく考えてみると、天照大御神の御神霊の関与する霊的事象の中に放り込まれてしまっていたということなの。客観的に考えたら尋常なことではないのよ。尋常なことではないのだけれども、それが御言葉により理解できるから突き進んできたの。

 

御神霊に関する重たい問題を扱っているから、その重たさを軽減するためにはこの語り口が一番適していたの。言葉がスラスラ浮かんできて肩がこらないのよ。ですます調や論文調では重たいことをますます重たくしてしまうのよ。だから途中からこの語り口に切り替え、気が付いたら900記事以上、一日平均にしたら一記事以上777日間書き続けているのよ。覚醒に一区切りつけないといけないと思いながらこの記事書いていて、今、記事数確認したら777のぞろ目が出てた。私っていつでも、その様なことに背中を押されるのよね。

 

読みに来る人にどう受け取られているか、反応が薄いから判らないことの方が多いのだけれども、777日間毎日一記事以上のペースで書き続けてきた内容が、天照大御神の御神霊一択だったの。それに関すること以外など書く気がしないのよ。御霊に感じて行った神宮へのおかげ参りで千木と鰹木のそびえるお社の威容に圧倒され、最後に立ち寄った倭姫命の旧跡地で風に煽られてからというもの御神霊に取り憑かれてしまったの。それで書きまくってきたのよ。なぜそうなったのかというと御子の御言葉なのよ。

 

マルコによる福音書 16

14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 

15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 

16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

福音を述べ伝えよという御言葉もさることながら、信じて洗礼を受けるという事は、御霊が降ってくるという霊的事象の中に身を置くという事なの。それは天照大御神の御名により伊弉諾尊から月読命の御神霊をお受けするという事なのよ。この一節だけを口にしても誰も何を言っているのかわからないどころか、下手をすれば気がふれていると思われるのが落ちなのよ。キリスト教徒も理解できないはずなの。教会で洗礼を受けるという事とはまるで別次元のことなの。

 

日本人の感覚で言う御神霊をお受けするという事なのよ。それでなければ滅びの宣告を受けると、復活された天照大御神が直言しているという事なの。御子が敵から気がふれていると嘲笑された通りなのよ。

 

下手をすれば気がふれていると思われかねない状況の中で、確実におぼれ死ぬと判っていてだまっていていいの?ということなのよ。福音を述べ伝えるということは、初めから述べ伝える側は蟷螂の斧と理解しているのよ。皆信仰により御神霊を受けるまでに、世間のことなど裏側のことまで知らされた大人なのよ。

 

私は口頭で日本人に伝えるのは無理と思っているの。尋ねられもしないのにその話を持ち出すと日本人は皆怖がるのよ。場違いな怪談話みたいなことになるのよ。霊的感性の強い日本人ならではの反応なのよ。

 

御神霊による生命御守護により息をしているなどとは思わず、神を分別しない動物たちと同じ原理で生かされていると教育され、そう信じているのに、霊感を呼び覚まされると恐怖を感じるという事なの。動物と同じく生かされていると教育されている時点で家畜化教育なのよ。関与したのはキリスト教国生まれの博物学者。

 

その霊的事象にまつわる恐怖は裏の神道ではよく知られているから、怖いながらも通りゃんせと唄わせられるのよ。その様に、おいそれと理解されずに、怖い霊的事象について、何故言い広めよと御言葉されたのかという事なのよ。そんなの溺れかけている人を救うためでしょと誰でもが思うでしょ。その通りなのだけれども、そこに奥深い霊的事情が存するのよ。

 

御神霊を受けるということは当たり前のように第三の眼による覚醒を伴うのよ。その様な霊的覚醒の興奮の中にありながらも、それを当たり前のこととしてさらに目を醒まし冷静になる必要があるのよ。私の場合は宣教にはそのような効能があったの。777日目にして一区切りなのよ。

 

口頭で伝えることは無理でも、私は文章ならいくらでも書けるの。ブログという媒体があるのだから渡りに船でしょ。だから興奮しながら書きまくってきたのよ。そうするうちにその効能により、当初御霊に感じた時にはまるで想定外のことに徐々に眼を開かれ、聖書の命の木と古事記の根付きの真榊の完全な一致にまでたどり着いてしまったの。初めて光を見てしまうとまぶしさに目がくらむでしょ。それが落ち着いてすべてが見通せるようになるという事なの。

 

聖書が預言書であるように古事記はそれを冷静に意識しながら書かれた預言の総集編、完結編として書かれているの。古代から完全に覚醒しながら冷静な目を持ち陰に隠れているのが八咫烏なのよ。宣教せずに陰に隠れながら祭祀に徹してきたのよ。その祭祀の仕掛けに命の木と真榊の完全一致を秘め、預言成就による乾いた土地が顕れるのを冷静に見つめているのよ。怖いながらも通りゃんせと促しながらね。


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旧約聖書が古い革袋に入れた古いぶどう酒の律法だとしたら、ヒンズーの聖典はそれよりもさらに古い革袋に入った律法が記されているのよ。ヒンズー教の神の主神争いがそれを預言していたの。その預言が大昔から全世界的において成就しながら現代に至るのよ。

 

それを現代の日本に見ようと思えば仏教と神道がそれに該当するのよ。神道はその初めから主神争いに巻き込まれず造化三神の三神一体で古事記を記述してきたの。仏教はお釈迦様の覚醒によりインドで起こり、そのお釈迦様の覚醒には主神である梵天と弥勒菩薩が関与している事が伝えられてきたでしょ。しかし同時に法滅に至ることが預言されていたのよ。

 

その預言は仏教が伸長を期してヒンズー教の神を護法神として取り込み、ヒンズー教との主神争いによる延命に明け暮れ、その結果として法滅に至り成就したのよ。

 

その預言の成就はこの国の衆生に仏教が浸透した時代にも顕著に表れているの。他宗排撃という主神争いに明け暮れた僧侶がそれを露呈していたのよ。この僧侶は一人も成仏させられなかったと私は見ているの。これは他宗排撃にはあたらないからね。何しろ私の家がその宗派だから。

 

そのような視点で神道と仏教を見るとヒンズー教の三神一体でありながらも主神争いをしたというあり方には悟るべき大いなる神秘が秘められているの。それを記述してしまおうと思うのよ。

 

仏教は主神争いに陥りながら護法神としてヒンズーの三神を取り込んだでしょ。梵天と那羅延天と大自在天として。そして那羅延天の乗り物としての迦楼羅天までも。それはブラフマとビシュヌとシバであり、ガルーダなのよ。神道はその三神一体を初めから悟り主神争いに与したことなど一度もなかったのよ。

 

三神の化身として造化三神を記述し、さらにその化身として三貴子の一体を記述していたでしょ。それがこの国の祭りとなり現代でも行われているの。それを取り仕切っているのが天照大御神の烏たちであり、ガルーダなのよ。神武天皇の道案内をしたガルーダだったの。この国ではガルーダを描く時は三本足で三神一体を示すのよ。

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仏教ではそのようなことは悟られずに今日に至っているのよ。ガルーダにより建設されていたのがこの国のエルサレムである平安京だったの。そこに至る過程で仏教がこの国に入って来ていたでしょ。物部氏はそれに抵抗して没落したけれども聖徳太子が受け入れたのよ。

 

それは聖徳太子が仏教の悟っていなかった仏法を悟ったガルーダの人だったからなのよ。だから他宗排撃という愚を犯さずに、世間虚仮唯仏是真という言葉を残されたの。人は三神一体の悟りによりブッダとされるという事が天照大御神の乗り物であるガルーダの悟りなのよ。だから仏法を受け入れることができたの。

 

そのような視点を確保することができれば仏教では悟りに至れないことが一目瞭然なのよ。だから世間虚仮唯仏是真なの。仏教が取り込んだ那羅延天がビシュヌの化身であり弥勒菩薩の化身なのよ。その乗り物がガルーダなの。しかし仏教では那羅延天は不人気であまり知られていないでしょ。私が知らなかっただけなのかしら。しかしそれが、仏教が初めから悟っていない証拠なのよ。

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 その那羅延天の化身がクリシュナ神なのよ。このクリシュナ神がヤハウェの化身であるキリスト・イエスの化身なの。化身でも同一神だからヤハウェ、ビシュヌ、弥勒菩薩、クリシュナ、キリスト・イエス、高皇産霊神、伊弉冉尊他古事記の女神、天照大御神はすべて同一神なの。クリシュナ神を仏教が取り込まなかったというところに、仏教が初めから悟ることを許されていなかったという事が暗示されているのよ。

 

この世に来たキリスト・イエスが弥勒菩薩であると悟ることは初めから許されていなかったということなのよ。私が見る限り唯一の例外は大日如来の空海さんだけなの。だからと言って空海さんやお釈迦様を弥勒菩薩の様に崇めていても解脱できないわよ。それでも仏教が神道に許容されているのは神道がすべてを悟っているからなのよ。

 

申命記 11

26 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。 

27 あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、 

28 もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。

 

神道は神が人の前に置かれた呪いと祝福を、初めから園の中央に生えている二本の木として受け入れているのよ。私が瞑想すると四天王寺で毎年行われる聖徳太子の聖霊会はその二本の木のお祭りと思えるのよね。

 

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こんなことを書くと四天王寺からお叱りを受けるかしら。

 

二本の木も天照大御神がガルーダに乗り世界中を睥睨していることを考えればやはり日本の木となることは必定だったとも思えるでしょ。根付きの真榊よ。


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私が瞑想において悟るようなことなどガルーダにとってはこの世の初めからお見通しだったという事なのよ。

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八咫烏の三本足って八×三の暗示になっているのよね。それは貴船の暗示でもあるのよ。貴船に限らず方形の箱は縦横高さの三方向のベクトルの角が八つあるでしょ。それが神様の契約の箱であれば奉斎しているのは八×三の神遣八咫烏なのよ。

 

その箱の中に神器があればそれを取り巻く八つの角が八宝珠で魔訶般若の法輪を意味するでしょ。契約の神器は三種だから三種の神器と八宝珠の法輪になり、神器の中心が八咫鏡なのよ。

 

箱の上面の四つの角が天の四方で下面の四つの角が地の四方ともとれるでしょ。天の四方と地の四方の中心にお祀りされているのが八咫鏡なのよ。

 

大御神の岩戸開きの時に八咫鏡が調製されるまではその中心が十戒石板だったのよ。今では神宮の地下殿の貴船に石板が奉斎され、本殿の御船代に八咫鏡が奉斎されているという事なのよ。そして本殿と地下殿をつなぐ床下に心御柱が奉斎されていて、それは貴船と共にお祀りされている御子の十字架の形代なのよ。

 

すべてを八×三の八咫烏が奉斎しているのよ。だから走水の海で倭建命の身代わりで入水した弟橘姫は三種の畳を八枚ずつ敷いてその上に座り入水したの。八×三の貴船と共に祀られている身代わりの十字架を暗示していたのよ。

 

船は八と切り離せないの。ノアの箱船で救われた八人家族を舟八口で示し、ノアその人はアダムから数えて十代目の預言者なのよ。この十という数は命の木の十個のセフィロトであるし、八の船で救われた十代目の預言者なのよ。そして八の貴船の中の十戒なのよ。そこに十種神宝が見えるでしょ。

 

そのノアと神様の間で虹の七色の契約が交わされたの。ここまでで七八十が出て来たでしょ。そして九は古事記の中に出てくるのよ。菊理姫。古事記ではくくり姫と読ませるのよ。菊とくくと言ったら九月九日の重陽の節句、菊の節句なのよ。無縁であるはずがないでしょ。白山比咩神と同一神なの。

 

それで気が付いたのだけれども八宝珠の法輪に中心があればその中心は九でしょ。八咫鏡の中心が九なのよ。八咫鏡の中に七八九が秘められているの。虹の契約の鏡なのよ。虹の七色は無色の光の分光でしょ。それは白光なのよ。その光は元神様の光あれという御言葉でなったの。それが御子である光の誕生なの。これで七八九の由緒がわかるでしょ。

 

虹の契約の由緒なのよ。御父と御子と御霊の由緒なの。三位一体としてひとくくりにしてしまったら見失うのよ。そこに九九の理が秘め隠されているの。新約聖書では御子の、九十九匹の羊と一匹の羊のたとえ話が出てくるわよ。これで七八九十が出そろうでしょ。

 

虹の七色の契約による七つのお祝いなのよ。その道筋をお釈迦様が五六七とお示しになられたの。貴船の御子と七福神の渡御の道筋なの。

 

お釈迦様の弟子は十大弟子だったでしょ。十とは貴船の中に奉斎されている数だったでしょ。御子の弟子は十二弟子なのよ。十は失われたイスラエルの十支族、十二はイスラエル全体の十二でしょ。

 

貴船の辺は十二辺で成り立ちその中に十戒が奉斎されているのよ。イスラエルの十二と十の関係がそこにあるのよ。お釈迦様の魔訶般若波羅蜜多が十種神宝に匹敵するのよ。契約の貴船に秘められた十種神宝なのよ。完全に理外の理なの。

 

命の木のセフィロトの十はノアの数で、それから十二代後の二十二がイサクの数で命の木のパスの数なのよ。二十二代目がイサクという数え方は偽書とされているヨベル書によるのよ。賢しらなアカデミズムが偽書としていたらその偽書の方に目を凝らしてみなければいけないの。

 

イスラエルにおけるヨベルの年というのは七×七の四十九年を経た五十年目の大贖罪年という極めて重要なお祭りの年なのよ。そのお祭りをタイトルとして持つイスラエルの聖書が偽書って、キリスト教アカデミズムがいかにも冒しそうな過ちでしょ。何しろ三位一体だからね。この辺はもう直感の領域なのよ。

 

日本のアカデミズムも理外の理でものを考えることができないから何でも偽書と断定するのよ。偽書中の偽書とされている竹内文書などはノアの洪水以前の事が記されているらしいわよ。私は門外だからそこまでは踏み込む気はないのよ。

 

それでも旧約聖書と新約聖書と古事記は私の座右の銘の宝庫だからこだわらずにいられないの。この三書をつなぐ御子の御言葉が、水を飲ませてくださいなのよ。瓶の縁まで水を満たして宴会の世話役のところに持って行きなさいという御言葉でつながっているのよ。話がそれそうだから元に戻すわね。

 

貴船と八咫鏡は八咫烏の数霊ですべてがつながっているという話。貴船と八咫鏡を結び付けたのが八咫烏の陰陽道なのよ。その陰陽道は数霊のみではなく言霊も網羅しているのよ。その中心がやはり鏡なのよ。お正月の鏡餅の鏡開きなのよ。鏡餅とは年神様の依り代で年神様の居場所なの。

 

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私が見ると命の木の三栄光にしか見えないのよ。歳神様の依り代としてふさわしいでしょ。三輪山の大物主の神様とも無縁ではなさそうでしょ。三回転半の三栄光で、逆らえば三行半の離縁状なのよ。

 

その鏡餅は一月十一日に鏡開きで割って食べ無病息災を願う儀式が習わしなのよ。歳神様の鏡はどう考えても八咫鏡に他ならないでしょ。その鏡は岩戸開きと切っても切れないのよ。鏡開きと岩戸開きなの。

 

私が解釈すると、岩戸が開け大御神が復活し、その後に年神様をお迎えするお祭りなのよ。無病息災どころか永遠の命に至るお祭りなのよ。そこにかがみの言霊を見るの。

 

かがとは古語で蛇を意味するらしいのよ。蛇が見るからかがみで蛇の目となり、八咫鏡は蛇神様の目で龍神様の目でもあるのよ。蛇の目であり大祓の茅の輪であり日の丸であり太陽神天照大御神の目なのよ。それは伊弉諾尊の左目でもあるのよ。

 

そのかがみを開いて我を捨てるとかみになるのよ。八咫鏡を開いて悟りを得、自我を捨て去り梵我一如となるという事なの。父神を悟りその子となるという言霊なのよ。

 

命の木を蛇神様の火が三回転上昇するとビシュッダからアジュナのチャクラに至り、眉間の第三の眼が開け、残りの半回転でサハスラーラに至り命の木の上部の籠目である六芒星が完成してしまうということなのよ。

 

蛇神様の目で、かが目とすれば籠目の語呂合わせになるでしょ。その籠目は麻の葉模様なのよ。ちょっと苦しいかしら。でも籠神社の裏社紋は籠目に日月で伊弉諾尊の左右の目の意匠だったりするでしょ。片目だとどこかの結社のシンボルみたいでとてもネガティブな印象になり、忌まわしいから画像張らないの。

 

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 大御神のお札は神宮大麻でしょ。麻の葉模様と籠目の六芒星の合体には十二個の三角が顕れてくるのよ。大御神と十二はイスラエルの十二支族とユダヤの十二弟子と相まって切っても切れない関係なのよ。貴船の数でもあるでしょ。

 

そして籠目と鶴亀も切っても切れない言霊で唄われる関係でしょ。鶴亀と貴船の七福神も切っても切れないのよ。


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歳神様の鏡開きと大御神の岩戸開きなのよ。籠目開きの鶴と亀なのよ。うしろの正面は誰か知れてしまうでしょ。三柱の神様よ。

 

全て古事記で真榊とされた、命の木に包含される数霊と言霊の一端なのよ。理外の理の魔訶般若なの。阿吽



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聖書に書かれている右と左ってあるでしょ。漠然としか理解されていないけれどもきっちりと理解するとどういうことになるかというお話。

 

インド人にとって左の手は不浄とされているでしょ。メシアは施しをする時は右の手のしている事を左の手に知らせるなと御言葉しているの。右の目が罪を犯すのであれば抉り出して捨ててしまいなさいとも。

 

ヨハネの黙示録では最後の審判において山羊は左に、羊は右に分けられるとされているでしょ。獣の刻印である六百六十六印は右の手か額に刻印されるの。そのように右と左ははっきりと区別されているわよ。

 

そこを分別して次のステージに上がるの。古事記がその分別を助けているわよ。伊弉諾尊の禊の時に生まれた三貴子がそのことを物語っているでしょ。左の目から大御神が生まれ右の目から月読命が生まれているの。ここには一筋の縄では解けない倒語(さかしまごと)の仕掛けがあるのよ。

 

私は理解するのに数年は要したわ。この記事ではその結論を書いてしまおうと思うの。

 

鼻から生まれた素戔嗚尊が中心で主神なのよ。その右と左なの。ところが陰陽道の呪術により右と左が反転させられているのよ。そこに置かれているのが八咫鏡なのよ。大御神の神道はすべてこの鏡を通して示されるのがお約束なの。八咫鏡を理解しないと迷宮入りするのよ。

 

この鏡は大御神の岩戸開きに際して調製され根付きの真榊の中の枝に掛けられたでしょ。その意味するところは人体のマニプーラのチャクラで、命の木のティファレトのセフィロトだったでしょ。ここが八宝珠の中心だったでしょ。わからない人は前記事の命の木について書いた記事を熟読してね。

 

その場所に鏡がかけられているのよ。それはイスラエルのカバラがメシアの復活以降弟子たちに明かされたことを意味しているのよ。

 

注意しなければいけないのは鏡というものの性質が左右の反転なのではなく、前後の透過だということなの。前後が透過しているから左右が逆転しているように見えるの。鏡に映した右手は鏡像の左手として映るのだけれども、右手はどこまで行っても右手なのよ。その鏡が真榊である命の木に掛けられ明かされているの

 

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そこで明かされているのは均衡の柱と慈悲の柱と峻厳の柱の並びなのよ。命の木は鏡像であり神様の玉座の前面の後面透過ということなのよ。

 

そう理解してよく見ると慈悲の柱は玉座の右に位置している事が分かるでしょ。慈悲の神のメシアは勝利を得て神の右に坐しているのよ。それが左目のように見える大御神の真の玉座の位置なの。

 

その主神と大御神の着座が京雛の左上右下なの。今でもそのしきたりにおいて京雛は飾られるの。関東雛の飾りにおいて逆転している事にはかなり大きな神秘が秘匿されているわよ。

 

この雛飾りは命の木を映していてそこには素戔嗚尊と大御神の誓約の物語が凝縮されていたでしょ。そのように見た時に気が付かなければいけないのは、京雛の雛飾りは玉座を正面から拝している形ということなの。女雛のメシアが右に坐している姿なの。


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 四段目の随身である右大臣と左大臣は右の柱であるメシアと左の柱の聖霊の並びなのよ。慈悲の柱と峻厳の柱の並びなの。左が優位だから左大臣が老人で右が若者と説明されるの。 

 

けれどもアブラハムとイサクとその親子二人の僕の誓約と聖書が暗示していることを考えれば右大臣の若者が御子で若頭なのよ。左大臣が僕として働く聖霊様であり、共にお働きになられた仏陀釈迦牟尼とみても間違いではないと思うの。

 

問題は五段目なの。そこには右近橘と左近の桜とその間に三人の仕丁がいるのだけれども、この右近橘と左近の桜が、神様が園の中央に生えさせられた二本の木で、命の木と善悪を知る木なのよ。その間にお仕えする人間たちがいるの。

 

この二本の木は命の木が橘で弟橘姫と岩長姫、善悪を知る木が桜で木花開耶姫(このはなさくやひめ)と古事記では暗示されているのよ。天孫瓊瓊杵尊が天下った先で岩長姫を送り返し木花開耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚したと古事記は語るのだけれども、そこにはとんでもないことが預言されているわよ。古事記には木花散る姫などという神様も登場しているの。その件はまた今度。

 

ここでの問題は右近の橘と左近の桜なのよ。御父と御子の左右の他にもう一つの左右の解釈があるの。この解釈の違いを識別しないから聖書の右も左もわからないのよ。この二つの左右の違いと関連を悟らなければならないの。

 

一言で言えば御父と御子の左右により、命の木の左右をどのように悟るか誓約で占われているということなの。その帰結により右と左に分けられるのよ。

 

善悪を知る木から取って食べて悔い改め、命の木に食い改めることができるかどうか試されているということなの。左の山羊として悔い改め、右の羊の列に加えていただかないととんでもないことになるとヨハネが黙示していたのよ。

 

右のメシアは慈悲の神様だから逆らっても許されるの。だから全員復活させられるの。しかし左の聖霊様に逆らったらこの世においてもあの世においても許されることはないというのがメシアの御言葉なの。

 

メシアを信じた時に送られてくる助け手はこの神様よ。宝船の、虹の七福神様なの。逆らった日には七殺の祟りの丑寅の金神と化すのよ。雷様でもあるわよ。ゴロゴロ鳴っているうちに悔い改めておかないと直撃を受けるの。だからカバラのくわばらくわばらなの。

 

そのような御父と御子の左上右下が大正時代に諸外国の右側優位にならい改められて、男雛が向かって左、女雛の右に飾られるようになったの。

 

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時代の中でカバラの八咫鏡の左上右下が大きく動きだしてしまっているのよ。それが今の時代なの。長くなるから続きはまたの記事で。

 

重陽の節句の後の雛ね。大人の雛祭りとも呼ばれるらしいわよ。


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