このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。

その他推奨記事
 


創世記22章のアブラハムとイサクの物語において父アブラハムが子のイサクを燔祭として捧げるように神に命じられたの。この22という数霊はカバラの命の木の22本のパスと一致しているでしょ。それでこの22という数霊はヨベルの書の数え方のアダムから22代目のイサクの数霊と理解してきたの。

 

父アブラハムから屠られかけたイサクに御子イエスの影が落とされているのよ。そのような理解は一般的になされてもいるのよ。しかしアブラハムがイサクに手をかけようとした刹那、主の御使いがアブラハムに手を下すなと呼びかけたの。そしてアブラハムが目を凝らして見ると後ろの茂みに子羊が角を取られていたのよ。

 

アブラハムはその子羊を焼き尽くす燔祭の生贄として捧げたの。この子羊にも御子イエスの影がとされているでしょ。しかしそれだけではないのよ。この子羊には御子の犠牲と、御子に逆らい六百六十六の焼き印を押され焼き尽くされる獣の影が二重に映されているのよ。

 

イサクは父に屠られかけて主の御使いにより命を救われているの。そのこと自体が御子の死と復活を示しているのよ。その代わりに創造主により供えられたのが六百六十六の獣の生贄なのよ。

 

後にモーセを通してイスラエルの律法とされた、身代わりとして焼き尽くす生贄の燔祭は、創造主により供えられた、神に背く六百六十六の焼き印を押された獣の燔祭の寓意だったのよ。

 

この物語のイサクと角を取られた子羊の物語に、すでに八咫鏡が置かれていたという事なのよ。その意味において八咫鏡もイスラエルのカバラに由来していたのよ。考えてみれば当たり前のことなのよ。イサクの身代わりとなり角を取られていた子羊が、御子の十字架を分別せずにサタンに角を取られ、六百六十六の焼き印を押され燔祭としてお焚き上げされる生贄なの。すべて創造主である神により供えられていたのよ。

 

その神様の御用の向きを悟りお祭りに出仕しようとするのであれば、そのお祭りの主旨を悟り潔斎しなければ叶わないのよ。

 

マタイによる福音書 7

21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 

22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 

23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

マタイによる福音書721節の聖句なの。七つのお祝いの77721でヨハネの福音書や黙示録の数霊と連携しているのよ。さらに212223節は神宮の式年遷宮の後の三年間の一二三で三柱の神様に繋がっているでしょ。さらにこの3つの節は創世記22章と連携しているわよ。八咫鏡の万華鏡なの。21節が天の父の御心で、22節が主よ、主よと呼ばれる御子の節であり、23節が獣に離れ去れと裁きを降す聖霊の節だからね。

 

それらの聖句で、御子の御言葉により天の父の御心を行うという事がどれだけ大切かということを示しているのよ。全てが父である伊弉諾尊の禊により生まれているの。そう冥想するのよね。


24-72-rissyuumain


スピリチュアルランキング
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

神道ランキング

精神世界ランキング