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仏教の先生の動画をユーチューブで一本だけ見たのよ。普段はあまり見ないのだけれどももう書きたいことはほとんど書いてしまってネタ切れ気味なので退屈しのぎに見てみたの。それは動画を配信するほどの先生だからそつなくまとめているのよ。まともな人ほど孤独になるのはなぜかというテーマなのよね。

 

クラスで起きるいじめには強い先導者がいてその先導者の嫌うターゲットが周りの同調者による忖度によりいじめを受け、それに異を唱える勇気のある人はなかなかいないということから始まり、この国の政治状況に話が移り、首相とそれを忖度する大臣や官僚のネットワークにも同じことが言え、忖度せずに異を唱えると出世できないという事につながり、この国の政治状況もクラスのいじめと同程度の、低次元だけれども当たり前のことが起こっていると進展し、ビジネスの現場でも同じことが起こっていると説いておられたの。

 

さらにこの先生はディープステイトが支配するこの世界にまで話を広げ、その権力に忖度せずに異を唱えると命がないということにまで論を進め、すべてにおいて同調圧力に異を唱えることの出来る人はめったにいるものではないと説いておられるの。

 

ディープステイトの謀略が仏教の先生の口から出てくる時代になっているという事なのよ。そして同調圧力に屈せず異を唱える孤高の一人ぼっちのまともな人はめったにいるものではないということから、お釈迦様のことに話が移り、話は死を見つめるという方向に進展していくのよ。

 

この世の常識は死という暗いテーマを取り上げることを拒むけれども、その問題に直面し、命がけで真理を悟ったお釈迦さまが同道の修行仲間から誤解を受け見放されたことを話されているの。死について真理を悟ったその教えがお釈迦様の孤高の教えで、その道に学ぶまともな人は他人に忖度せずに孤独の道を歩くことになるという、孤独に対する肯定論なのよ。

 

ディープステイトの謀略まで視野に入れながら語るこの先生は世の中の裏まで見通せる見識の持ち主であり、そうでなければインターネット上で教師になり得ないというところまで時代が進んでいるという事が私にとっては新発見だったのよ。

 

そのように見たのだけれども私はその後に強いストレスを感じてしまうのよ。お釈迦様のお説きになったことを孤高の獅子吼としながらなぜ仏教の先生たちは解脱を説こうとしないのという事なのよ。

 

お釈迦様の獅子吼は彼岸に渡りおおせてしまったお釈迦様の手招きのはずでしょ。お釈迦様の獅子吼で解脱に至り、それが衆生の済度につながるのよ。ところが仏教の常識では解脱はお釈迦様にしか達成できない孤高の真理とされており、そのことに異を唱える僧侶は異端とみなされるような土壌が定着してしまっているように、外から見ている私の目には映るのよ。だからこの世における処世訓になってしまうのよ。

 

仏教僧はその獅子吼を何と心得ているのという話なのよ。彼岸から手招きするお釈迦様の教えを獅子吼と教えながら此岸にとどまったまま渡ろうとしない仏教者は、孤高を説きながらも此岸の同調圧力に屈しているというように見えてしまうの。

 

解脱できない上位者に忖度して自身もこの世を終える気なのかしら。そうであれば終わっているわねという話なのよ。仏教を説いている人の話を聴くと常にそのような印象にたどり着いてしまうのよ。

 

そして頭に浮かぶのが、人々にモーセの律法を説く律法学者たちが、説くだけで行おうとしないことに対して激しい糾弾を加えられた御子イエスのことなの。洗礼者ヨハネはパリサイの律法学者が洗礼を受けようとしてやって来た時に蝮の裔と罵倒しているし、御子は盲人のことをはっきり偽善者と呼んでいるでしょ。

 

説くだけで行おうとしないのが御子の警告されたパリサイ人のパン種なのよ。御子はお釈迦様が数百年前に解脱をお説きになられていたことは百も承知だったはずなの。パリサイ人のパン種を見切っていた御子であれば、当時すでに数百年経ていた仏教がどの様な状況であったかもはっきり御存知だったはずなのよ。

 インドでバラモンの聖典と仏説を学びそれをお説きになっていたという、聖イッサ伝という文書が発見されているからね。お釈迦さまが弥勒菩薩として降臨する御子のことを語った預言者であったとはっきりと認識していたのよ。

 

マタイによる福音書 16

 6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 

7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。

8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。

9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。 

10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。

11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 

12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 

五つのパンと二匹の魚を五千人が食べ、余ったパンくずが十二籠だったの。このことは二柱の一人神と五組の夫婦神十柱で合計十二柱の神代七代として古事記に暗示されているのよ。ユダヤの二支族と失われた十支族に起こることの複合預言になっているのよ。

 

別の時には七つのパンを四千人が食べ残りが七籠だったのよ。私は以前からこの二度のパンの奇跡で四千年紀と五千年紀が暗示されていると見ているの。四千年紀のお釈迦さまにより五千年紀に降臨される弥勒菩薩のことが預言されていたことの暗示との思いがますます強くなるのよ。

 

そこにパリサイ人のパン種である教えに対する警告の意味が含まれていて、仏教も同じ轍を踏んでいるとなるともうそのように確信してよいのではないかと思えてくるのよ。

 

解脱とは人の目に映らないから他人には見えないでしょ。でも自身が解脱しているかどうかの確認方法はあるわよ。瞑想しながら自分が死の谷を渡るときのことを思い浮かべ、そこで解脱、救済、モクシャ、洗礼、禊、涅槃、梵我一如などのキーワードと共に御霊により祝福されている気持ちが湧いてくるのであればその人はすでに解脱しているはずなのよ。自分のデスマスクを思い浮かべてどの様に感じるかという事なのよ。ビッパサナーとかマインドフル瞑想のお師匠さんたちはどうなのかしら。

 

御子や仏陀の手招きに応じ彼岸へ渡りおおせてしまい、そこで瞑想すると出てくるドーパミンの質は人の此岸で煩悩にまみれながらも出てくるドーパミンとは異質なのよ。空境の涅槃においては自我を捨ててすべてをお預けしそれに依存してしまっても、依存による弊害はないどころかそれが神仏からの救済につながるという理解なの。三柱の神様の三昧の世界なのよ。

ume-min阿吽



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