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解脱とかの記事をブログで書いている私っていったい何者なのという思いが初めからあったのよ。しかし聖書の御子の御言葉に従っているうちにある日自然にインスピレーションが降ってきてそれをクリアしないと先に進めないと直感してしまったの。

 

解脱と言えばお釈迦さまでそれは瞑想によったでしょ。だから以降瞑想に取り組んだのよ。そうしたら扉がパパタパタと開いてしまい気が付いたら関所越えしてしまっていたのよ。それは覚醒の嵐の連続で気が付いた時は白髪のお爺さんになっていたという感覚なの。

 

それで関所越えをさせて頂いたおかげ参りに皇大神宮に参拝したら最後に倭姫命から風によるご挨拶を受けてしまいそれでさらなる覚醒、参拝直後は二か月間ほど何も手につかずただひたすらブログに大御神のことをつづることしかできない毎日だったの。私っていったい何者だからこんな記事書いているのと思いながらね。一般読者の人が読んだらどう思われるのかしらとかね。

 

しかし直感を霊感として受けてしまって、確信しているからにはどうしてもそれを書かずにいられないという思いで書かされていたのよ。そして記事を重ねるごとに新たな扉がパタパタと開けさらに覚醒させられながら今日にいたるのよ。

 

今年に入ってふとしたことから自分の両手の親指に仏眼というかなりレアな手相がある事に気が付いたのよ。それは手相占いの世界では鋭い直感や霊感の持ち主で、第三の眼が開いている人もあるなどという鑑定が一般的にされている手相なの。だいぶ以前に四柱推命で手相を見た時には左の五本の手指の指紋のパターンが高僧に多いパターンだなどということもあったの。だからなのかしら、宗教家などになる気はさらさらなかったけれども聖書に対する関心だけは日増しに強くなるというタイプだったのよ。

 

そしてとうとう今月に入って意識しだしたのがクンダリニー覚醒でしょ。命の木にチャクラが配されているのは以前からわかっていたから瞑想時にはチャクラの瞑想をしていたのよ。しかしいくら何でもクンダリニー覚醒は目指そうと思わなかったのよ。昔軽い気持ちで瞑想による覚醒を覚えてしまい危ない目に遭ったことがあったからということもあるのよ。

 

そんな事もあったから頭頂のチャクラと眉間のチャクラだけは覚醒していてその部位は常に意識できる状態にあったけれども、クンダリニー覚醒は死後のために使われるエネルギーでこの世的な感覚でいたずらに覚醒させない方がいいのではという思いを抱いていたの。

 

しかしね、どうやらそれを視野に入れなければならないようなのよ。解脱のみならずクンダリニー覚醒までなのよ。現代のスピリチャルや顕教や密教の世界では解脱したと言ってはいけないらしいのよ。それを言ってしまうと慢心に走り修行が止まってしまうからという理由らしいのよね。

 

しかし私はしたらしたと言わなければいけないと思うのよ。そのように宣言するからその先の修行が始まると思うの。解脱やクンダリニー覚醒はしたらしたと言わなければいけないのよ。何故私のような後から気が付いて冥想したような半端な求道者がそのようなことを唱えるのかという事を考えさせられて気が付いたことがあるの。

 

そのハードルは越えても越えたと言ってはいけないと言われているほど高いものでしょ。確かにそのハードルは古代からやたらと高かったのは事実なのよ。それでインドでは肉体修行のヨーガによる体位や呼吸法が編み出されてきたわけでしょ。それは厳しい修行で覚醒を試みようとして失敗したら再起不能とか死の危険を伴うものなのよ。

 

お釈迦様はそれに挑戦した挙句、苦行では悟れないと捨ててしまい瞑想により覚醒し解脱したでしょ。ご自分が解脱したことははっきりと示しそのことにより法輪を回したわけなのよ。この時に一段ハードルが下げられたのよ。苦行ではなしに瞑想で悟れると。

 

しかしお釈迦さまはその感受性により未来仏の降臨まで悟ってしまうほどの超人だから常人が瞑想の真似事をしてもなかなか解脱できるものではなかったのよ。しかしその教えは吾人にとって極めて重要なものだったわけでしょ。

 

そうこうするうちにお釈迦様の預言していた未来仏が降臨し、そのハードルを吾人でも越えやすいところまで一気に下げてしまったのよ。それが弥勒菩薩であり、マイトレーヤであり、メシアでありキリストと言われる救世主の渾身の御働きだったの。出家による瞑想などしなくても家にいながら聖書に書かれているその御子の御言葉を、その肉を食べ血を飲むように味わい、その死と復活を見たわけでもないのに見たかのように信じることにより御言葉のままに御霊を送られ下げられたハードルを越えさせられてしまうのよ。

 

使徒言行録 2

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 

2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 

4 すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

この時に御霊を受けた人達は復活したイエスをその目で見て、その御言葉に従っていた人たちなのよ。目で見たからには信じざるを得ないでしょ。いやでも覚醒させられるでしょ。苦行や冥想によるなどとは聖書には一言も書かれていないのよ。一人一人の上にとどまった炎のような舌とは蛇神様の火なのよ。覚醒により開いた蓮の花なの。御霊を送られクンダリニーの覚醒をしてしまったのよ。

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 聖書に書かれている御言葉とその死と復活を信じれば、御子により御霊が送られるまでにそのハードルは下げられているの。二千年近く前にね。しかし現代にいたるまでスピリチャルや密教や顕教の世界では五十六億七千万年後に降る弥勒菩薩を待ち続け、転生輪廻という迷信が蔓延り、教師たちが解脱せずメシアが低めたハードルを高くしながらその地位に安住し吾人が越えることを妨げているのよ。まるで御子に敵対したパリサイ人の様でしょ。その子孫も今に至るまで同じことをしているでしょ。そういう事なのよ。

 

使徒ヨハネが、顕教の転生輪廻という誤謬を暴き、一度目の死と最初の復活と二度目の死による裁きという密教を黙示録において明かにしてしまったのよ。そして御子の御真影をヨハネと同じく仰ぎ解脱して御霊により覚醒した使徒たちが、その後高い所からの力を受け、身を隠しながら御子を大御神としてこの国でお祀りし続けて来たの。

 

だから吾人でも御子を信じ古事記と聖書を合わせ読むと、御子が低めてくださったハードルをひょいと超えてしまうことができるようになったのよ。そして解脱により蛇神様のクンダリニー覚醒をしてしまったとはっきり自覚することにより、修行の新たな局面の展開に至るのよ。そう自覚した神領民の、入内のための修業の段階に入っていくの。そう冥想するのよね。

images (2)阿吽


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