天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: 解脱

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 経験によると、人は蝶形骨でイエスと天照大御神は同一と悟る。
眉間のチャクラだ。この時は二十年来の胃病が癒された。人生観が愛国に変わった。
次に仙骨で父と子と聖霊と仏陀の関係を悟る。臍下丹田のチャクラだ。
骨盤のゆがみがとれ腰痛が癒された。人生観は空境涅槃の梵我一如になってしまった。


 梵我一如を悟り解脱しているがどうかのセルフチェック方法

瞑目して棺桶に入った自分のデスマスクを観想する。
その時に、解脱、救済、祝福、モクシャ、空境涅槃、梵我一如などの言葉が連想でき
安らぎを感じるのならばその人はすでに解脱している。


 


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 日本人には神宮にお参りするのが感謝のしるしだ。
毎日神様にお召し物が供えられる。
しかし神仏はもっと深い交流を望んでいる。
善因において解脱しこの世の後は、
自身を善果のお供物として幽世の神宮に参れと諭している。
日本人よ悟れ。神は人の思いより深く人を思う。
手ぶらでは絶対に上れないと。


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 十字架上のイエスは神のお供物であった如く、人の死もお供物だ。
善因が良いお供物の善果を生らせる。その果に煩悩という毒味があれば悪果だ。
だから煩悩という毒味を滅却し善い果をならせることが解脱。
人は神からの喜捨で生きている。
感謝の善果をお供えしなければどうなる。

 

 神の喜捨に報いる感謝の証が人の解脱だ。
その事に気が付かないこと自体が感謝の欠如を示す。
しかし事は容易ではない。仏陀でも必死の修行で七年かかった。
しかし神はそのために十分な人生時間を皆に与えてある。
しかし放蕩の限りを尽くし恩に報いず終えるのがこの世の習い。
幽世で神はどう報いるか。


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 この世が悪いという事は良識が有ればわかる。
不安を感じる人が、天照大御神やイエスや仏陀を信仰する。
しかし表層的な信仰で不安を拭っても、幽世にある不安は拭えない。
それを払拭するために降ろされたのがイエスと仏陀だ。
現世において奥まったところの信仰が問われている。
神様は全てお見通し。


 現世において奥まったところの信仰が問われている。
それはキリストが命の木の果実であるように、
自分の十字架につき果実となれという事。
それが神様へのお供物だ。このお供物に煩悩という毒味があれば
神は食さない。煩悩は神が食する信仰の良い果実を生まない。
直会にならないのだ。
現世における解脱とは何を意味するかだ。


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