天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: 聖書

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自由について書いておこうと思うのよ。黙示録のヨハネは信徒にあてた手紙の中で常に自由でありなさいと書いているの。ヨハネの言うところの自由が本当の自由なのよ。もうそのたびごとに聖句を引用することはやめるから聖書で確認してね。

 

聖書に神様の御言葉が書かれていて、その御言葉によらなければ本当の自由など判るはずがないのだから、各自で聖書をよく読んでね。コンサバティブやリベラル、新自由主義などという政治用語、フリーダムなどという言葉で理解されている事の中に本当の自由など含まれていないわよ。

 

取締役や課長、部長、係長、社員、パート、派遣社員、アルバイトなどはすべて会社に縛られている社畜だからね。国が住民登録させて税を徴収するのだから皆登録された奴隷なのよ。

 

しかし御子は、カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返しなさいと御言葉されたでしょ。神様のものを神様に返すからその身は縛られていても、神様により自由の身分を授かるのよ。見てくれだけ自由なパリピなどもすべて全滅なのよ。自由業の芸術家や著述家なども自由を完全に取り違えているわよ。今はやりのインフルエンサーなどというのもお釈迦様にお諭しを受けた歌舞伎聚楽主と同じ立場だから全滅なのよ。

 

御子は洗礼を受け四十日に渡り荒野に退き、そこで妖怪を退け宣教を開始されたでしょ。御子によりすべてが示されているの。御子と御霊により生命の御守護を受け妖怪を退けるからご縁が結ばれ自由になれるのよ。妖怪釣瓶落としの罠から免れさせていただき自由を知るの。その為に御子は悔い改めを説かれたの。

 

この世に来てから妖怪の唆しに惑わされ、神様に対して犯した罪の、あんなことやこんなことを全て悔い改めお詫びしなければ自由にはなれないわよ。それが伊弉諾尊の禊の意味するところだからね。

 

それらの罪穢れは御父の御旨により御子がすべて肩代わりして許されているの。その慈悲を知ろうともせず、悔い改めないから神の怒りが炸裂するのよ。自由になどなれるはずもないの。

 

神様のものを神様に返すから怒りを免れ自由になれるのよ。この世の景色が以前とはまるで違って見えるのよ。これは瞑想ではなくて実感よ。身分などにこだわり神様のものをないがしろにするから妖怪の罠に嵌まり自由を失うの。

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イザヤ書 44

6 イスラエルの王である主

イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。

わたしは初めであり、終わりである。

わたしをおいて神はない。

 

ヨハネの黙示録 22

 13 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

 

御子イエスの御言葉はヘブル語の方言であるアラム語で語られたはずなのよ。ギリシャ語に翻訳されアルファとオメガになったはずなのよ。ヘブル語の二十二文字の初めと終わりのはずなのよ。黙示録の22章がその暗示のように感じられるでしょ。

 

カバラの命の木の二十二本のパスがヘブル語の二十二文字に対応しているとされているの。十個のセフィロトはアダムから十代目のノアの数霊のはずなのよ。ヨベル書の数え方で二十二代目がイサクなの。このイサクに御子イエスの影がとされている事を考えれば、ヘブル語の二十二文字がイサクに影を落とす御子イエスを示していると考えられるでしょ。

 

ヨハネによる福音書 1

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 

2 この言は、初めに神と共にあった。 

3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 

4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 

5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

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 闇の中に輝く光が映されているでしょ。もう片方は太陰と太陽で天照大御神と月読命なのよ。それで二つの陰陽なの、その二つの陰陽がさらに陰陽の関係を結び陰陽の三つ巴なのよ。話を戻すと、言が神でその内に命がありそれが人間を照らす光なの。

 

創世記 11

5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 

6 言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 

7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 

9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

 

バベルの王は最初に勇者となったニムロドで、バビロンのネブカドネザルみたいなものなのよ。最後に倒される大バビロンの象徴なの。それで神に逆らう人間の言葉が混乱させられたの。

 

そこはノアによる新天地で、その下地を基にイスラエルに神の祝福が示されたのよ。人類に神の祝福を伝えんがための媒体としての祝福だったのよ。だからヘブル語の二十二文字の初めから終わりまでが神の言葉となり、その言葉により光がもたらされたの。しかし闇がその光を理解しなかったの。だから祝福はイスラエルから取り去られ相応しい実を結ぶ民族に与えられ龍宮となったのよ。言葉が混乱させられ散らされたのよ。そして新たな言語が神の言葉となりその初めと終わりが「あ」と「ん」で阿吽の呼吸となったのよ。

 

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 ヘブル語の二十二文字は命の木に刻印されたけれども、日本語の五十音は至聖所に封印されたのよ。それが生命御守護の十種の神宝に連なる一二三祝詞なのよ。 

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今ではこの龍宮が神の祝福を伝える媒体として至聖所に封印されているのよ。大和言葉で書かれた古事記に神の祝福である福音の原則が封印されているという事なのよ。それが伊弉諾尊の禊による素戔嗚尊と天照大御神の誓約で、月読命が御守護し賜うの。 

 

出エジプト記 20

12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

13 殺してはならない。

14 姦淫してはならない。

15 盗んではならない。

16 隣人に関して偽証してはならない。

17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 

言葉で隣人に関して偽証するということは神に対する偽証となるのよ。神の光で偽証するということになるの。光を理解しない闇に自ら飛び込むという事なのよ。それを戒めたのがお釈迦様の八正道の内の正語なの。人体の喉のチャクラに対応するのよ。昨今のフェミニズムや男女同権思想の悪弊による婦女子の言葉の濁りも気になるでしょ。

 

神の光を受け生まれ変わるのは尾骶骨の周辺にあるチャクラに三巻でとぐろを巻く、火の蛇神の霊験によるの。そこが正命のチャクラなのよ。その様にして七つのチャクラがすべて覚醒して正定に至り、八正の法輪となるのよ。命の木にもその八正の法輪は秘められていたでしょ。龍宮の慶事の熨斗あわびにも秘められているわよ。

 

のしあわび

 

内側の赤い六角形に二つの角が生え八角形を描いているでしょ。六×八の四十八文字なのよ。七×七の四十九文字で五十音に繋がるの。それが龍宮の五十音からなる生命御守護の大和言葉なの。六道から七越の天の川を超え八紘一宇の涅槃に至るには、神による贖いが重要な鍵を握るという事なの。六+八の十四で十四越なのよ。摩訶不思議な神様によるトリックアートなの。

 

レビ記 25

2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。

あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 

3 六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、 

4 七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。

 

8 あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。 

9 その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、 
10 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。

 

五十年目がヨベルの年で大贖罪年なの。神による贖罪なしには解放は宣言されないの。それが大和言葉の五十音に反映され生命御守護の十種神宝として封印されているの。四十九年目の七の月の十日が大贖罪年の五十年目なのよ。雄羊の角笛が御使いにより七回鳴り響かされ、本当の大贖罪年に至るとヨハネにより黙示されたのよ。その贖罪の主が天照大御神だったの。イスラエルの古い律法は永遠の律法なのよ。だから龍宮にも反映されているの。

 

マタイによる福音書 9

16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。 

17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

イスラエルの古い律法と御子イエスによる新しい律法を識別し、どちらも長持ちさせなければいけないのよ。ローマ教会はヘブライの風習を嫌い、新しいぶどう酒を古いぶどう酒の革袋に混ぜてしまったのよ。

 龍宮の神様のお祀りではしっかりと革袋が分けられているという事なの。物部氏の祖の饒速日命が十種神宝の入った革袋を携え天下りし、その後に秦氏と応神天皇が心御柱の入った新しい革袋を携え天下ったのよ。そして古い革袋と新しい革袋が揃ったの。だから八千代を超えた萬歳まで迄長持ちするのよ。その様に瞑想するのよね。


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世界中でいちばん読まれている本が聖書でしょ。その本の中の結びの書であるヨハネの黙示録には第一の復活と第二の死のことが書かれているのよ。

 

聖書全体を通して神の人により預言されているのは、この世に来た人は命運より金運を求め滅びる者が多い、悔い改めて神による命運を求めなさい、そうすれば与えられるという事なの。それが禊なのよ。それがメシアによる洗礼なの。

 

そして世の終わりにもう一度禊ぎをしてから命拾いすると書かれているのよ。そこに資本主義社会という罠が張られているの。

 

命運をあたえられていない人の命はこの世の終わりに金運とともに尽きるのよ。そして二度目の死で永遠に命運が尽きるの。

 

メシアがこの世に永遠の命運をもたらした神の人だったの。それが龍宮の天照大御神なの。禊をし、神による永遠の命運を授かれば、それに伴い金運など授かるようにできているのよ。初めからその様な生命御守護で人は生かされているの。

 その様な幸運の元にこの世に生まれているのよ。幸という字は根付きの真榊を象形していたでしょ。その様な幸運を投げ捨て滅びる者が多いと御言葉されているのよ。

 

アンチキリストと言われるのがどの様な人達なのか容易に想像できるでしょ。天照大御神のお宮に命運を求めずに金運目当てでお参りする人達のことよ。天神様の七つのお祝いのお宮よ。その様に冥想するのよね。


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マタイによる福音書 21

43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 
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この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

この御子イエスの御言葉はユダヤ人に向かって言われた御言葉なの。ユダヤ人に対してあなた達から取り上げられ、ふさわしい実を結ぶ民族に神の国が与えられると御言葉されているのよ。

 

マタイによる福音書 15

 24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

 

イスラエルの家の失われた羊がふさわしい実を結ぶ民族で、神の国が与えられるのよ。それが胎蔵界における龍宮民族なのよ。それを古事記が証ししているの。

 

そのまま終わりの時を迎え金剛界である高天原にまで拡張されると、福音の原則を満たした失われたイスラエル民族の復活により、高天原民族と神との千代となるのよ。創造主による福音の原則は救世主の御言葉に十重二十重に映されているということなの。

 ユダヤ民族がこけた様に、龍宮民族がそのまま高天原民族になれるかと思ったら大間違いなのよ。そう冥想するのよね。

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マタイによる福音書 8

21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 

この聖句なのだけれども初めて聖書を読んだころから強烈なインパクトを感じていたの。父親の葬儀を放り出してでも自分に従いなさいと御言葉しているの。私はこのような御言葉に御子イエスの真骨頂を感じてしまうのよ。惚れ惚れとしてしまうという事なの。

 

この御言葉をこの竜宮の現実に当てはめて読み解くと、すでに死んでいる葬式仏教に死者を葬らせ、あなたは私に従い死になさいとなるのよ。それが至福千年に至る福音なの。その他の死者は千年経つまで生き返らないのよ。お盆の時期にそう冥想するのよね。覆水盆に返らずよ。


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マタイによる福音書 1

15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、 

16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 

  福音の原則が判ってしまいその全体についてばかり瞑想していたから、最近は必要に応じてしか聖書を読んでいなかったのよ。改めて読み直そうとしたら、マタイの第1章からいきなり七越と十四越の大祓でスタートしていたのよ。

  古事記では神武天皇から仲哀天皇までが十四代なの。十四越の第十五代応神天皇だったでしょ。その十四越が龍宮の毎年の大祓なのよ。改めて細かく読み直すとどこに何が隠されているか判ったものではないの。

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月読命による金縛りが解けないのよ。書けば書くほど知らされるの。

 

ヨハネの黙示録 13

 3 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。

 

ヨハネの黙示録 20

1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。

2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、

3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。

 

7 この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、

8 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。

9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

 

千年の間縛っておかれるサタンは千秋楽の結びの一番で火に焼かれ、高天原の土俵から外の闇に放り出されると書かれているのよ。その為の力士の清めの塩なの。サタンが高天原の土俵にのぼり、縛られた後に牢から解放されることの予型が、死んだと思われていた獣の復活なのよ。それが第一の獣で、第二の獣がその獣の像を造り、物を言えるようにしたの。どこかの国の同盟関係とそっくりなのよ。その同盟関係により六百六十六の刻印が押されるの。

 

高天原の千秋楽がこの世に映されていると見れば、獣の復活によりこの世で千秋楽が始まってしまっているということなのよ。立ってはいけない者が立ってはいけないところに立ってしまったのよ。2匹の獣とは二度の死を意味していて、その死は大御神により既に克服されているのよ。だから負けるに決まっているの。その取り組みがどこまで進んでいるかというと、私の見立てでは天照大御神の心御柱が出て来て、土俵上でこれより三役の生命御守護のかごめ紋が切られてしまったように見えるのよ。獣も大御神に敵対しながらその紋を持っているでしょ。

 

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千秋楽が始まって73年も経っているからね。その3年前に龍宮が火の雨を降らされているのよ。火の雨を降らせるのは第二の獣なの。その様に考えると777の数霊の21世紀にはいると同時に心御柱が出て、これより三役の取り組みにはいっていると思えるでしょ。獣と大御神の結びの一番が待たれているの。そこまで待てなかったとしても、神様から創造の御印を受けるのはこの世に息のある内なの。神の創造が男女に映されているのだから、その様にこの世に全てが映されているのよ。

マタイによる福音書 24

15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい


 私がどの様に山に逃げたかは、このブログで既にすべて書ききってしまってあるわよ。


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マタイによる福音書 7

13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 

ヨハネの黙示録 20

4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 

6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

 

七越と十四越の大祓で打ち止めかと思っていたら大相撲の千秋楽が飛び込んできてしまったの。千秋楽が千年間の統治に相対している、千代のお祭りだったの。この千秋楽の結びの一番で竜と獣と偽預言者と、それ以下の六百六十六の印を受けた者たちが第二の死に投げ込まれるのよ。そしてその数の方が狭き門を見出すものより多いの。

 

それは御言葉の通りに既定路線なのよ。第二の永遠の死による滅びが既定路線なの。神の創造において既定路線で、なくてはならない関門なのよ。なぜそうなるのかというと永遠の命と永遠の死は表裏一体で、片方だけ切り離すことの出来ない陰陽として、創造の鏡に映されているからなのよ。

 

そのような既定路線の中で狭き門を見出すように警告されているの。その警告がこの世においては、ほとんどノイズのように扱われているという事なの。第一の死について考えたくない人にとっては、御子の死と復活ということもノイズとされ、心理的盲点の内側に置かれるのよ。

 

第二の死に対する警告が為され、サイレンが鳴り響いていても、脳の働きによりノイズとして判断してしまうのよ。それが罹災者の正常性のバイアスなの。怖い思いをしないと心理的盲点はなかなか外れないのよ。狭き門を通していただくための合言葉が「怖いながらも通りゃんせ」なのはそのためなのよ。

 

その様なバイアスを手遅れになる前に外すためには、御子の御言葉にすがるしかないの。そうしているうちに心理的盲点が徐々にのぞかれ、御子を完全に信じ切ると助け手の御霊が送られるのよ。この御霊によりノイズが完全に打ち消され視界が開け、御言葉が鮮明に聴けるようになるの。

 

その様だから第二の死による永遠の滅びが創造主による生贄の燔祭で、それにより永遠の命が贖われるとくっきり見えてしまうのよ。そのようにして八千代に至ると謳われているの。


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創世記22章のアブラハムとイサクの物語において父アブラハムが子のイサクを燔祭として捧げるように神に命じられたの。この22という数霊はカバラの命の木の22本のパスと一致しているでしょ。それでこの22という数霊はヨベルの書の数え方のアダムから22代目のイサクの数霊と理解してきたの。

 

父アブラハムから屠られかけたイサクに御子イエスの影が落とされているのよ。そのような理解は一般的になされてもいるのよ。しかしアブラハムがイサクに手をかけようとした刹那、主の御使いがアブラハムに手を下すなと呼びかけたの。そしてアブラハムが目を凝らして見ると後ろの茂みに子羊が角を取られていたのよ。

 

アブラハムはその子羊を焼き尽くす燔祭の生贄として捧げたの。この子羊にも御子イエスの影がとされているでしょ。しかしそれだけではないのよ。この子羊には御子の犠牲と、御子に逆らい六百六十六の焼き印を押され焼き尽くされる獣の影が二重に映されているのよ。

 

イサクは父に屠られかけて主の御使いにより命を救われているの。そのこと自体が御子の死と復活を示しているのよ。その代わりに創造主により供えられたのが六百六十六の獣の生贄なのよ。

 

後にモーセを通してイスラエルの律法とされた、身代わりとして焼き尽くす生贄の燔祭は、創造主により供えられた、神に背く六百六十六の焼き印を押された獣の燔祭の寓意だったのよ。

 

この物語のイサクと角を取られた子羊の物語に、すでに八咫鏡が置かれていたという事なのよ。その意味において八咫鏡もイスラエルのカバラに由来していたのよ。考えてみれば当たり前のことなのよ。イサクの身代わりとなり角を取られていた子羊が、御子の十字架を分別せずにサタンに角を取られ、六百六十六の焼き印を押され燔祭としてお焚き上げされる生贄なの。すべて創造主である神により供えられていたのよ。

 

その神様の御用の向きを悟りお祭りに出仕しようとするのであれば、そのお祭りの主旨を悟り潔斎しなければ叶わないのよ。

 

マタイによる福音書 7

21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 

22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 

23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

マタイによる福音書721節の聖句なの。七つのお祝いの77721でヨハネの福音書や黙示録の数霊と連携しているのよ。さらに212223節は神宮の式年遷宮の後の三年間の一二三で三柱の神様に繋がっているでしょ。さらにこの3つの節は創世記22章と連携しているわよ。八咫鏡の万華鏡なの。21節が天の父の御心で、22節が主よ、主よと呼ばれる御子の節であり、23節が獣に離れ去れと裁きを降す聖霊の節だからね。

 

それらの聖句で、御子の御言葉により天の父の御心を行うという事がどれだけ大切かということを示しているのよ。全てが父である伊弉諾尊の禊により生まれているの。そう冥想するのよね。


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ヨハネによる福音書の第21章には七七七の数霊が暗示されているでしょ。この福音書が書かれたのは、ヨハネが黙示録を書いた後のこととして伝わっているのよ。その黙示録では七つの封印、七つのラッパ、神の怒りが盛られた七つの鉢で七七七の数霊が示されていたのよ。

 

その様だからヨハネによる福音書の第21章には、七つのお祝いを待ち望むこの龍宮にとっても極めて重要なことが書き記されているの。この章は大きく三つに分けられるのよ。まず復活した御子イエスが七人の弟子の前に現れた一節から十四節なの。十四という数霊は十四越の大祓の数霊なのよ。これらの節で百五十三匹の魚の物語が語られ、それが復活した御子との直会の物語として語られているの。

 

それに続く節では十五章から十九章までで、イエスとペトロの事が語られているの。

 

 17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 

この章の聖句はペテロが、鶏が鳴く前に三度イエスを知らないと言ったことに対する御子の祀りかえの御言葉なのよ。それが神宮の式年遷宮の始まりを告げる「カケコー」という鶏鳴三声の寓意なのよ。十九章という数が式年の二十年を暗示しているでしょ。それに続くニ十章から二十五章まではイエスとその愛する弟子であるヨハネの物語なの。

 

 22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 

23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

 

この聖句を私が瞑想するとね、ヨハネの書いた黙示録や福音書はイエスが天照大御神として再臨する時まで生きていると読めるのよ。それがヨハネによる福音書の七七七の二十一章なのよ。七つのお祝いの時には貴船が龍宮から高天原に遷御されることが書かれているの。そう冥想するのよね。

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