天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: 聖書

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ひとつ前の記事で虚実の木と真実の木について書いたの。神が園の中央に生えさせられた二本の木でそこに神様の創造から救済に至るすべてが集約的に示されているということ。

 

古事記では根付きの真榊として示され、幹と根っこで二本の木、その一方は命の木と呼ばれイエスの十字架の暗喩になっているのよ。その命の木である十字架が天照大御神の心御柱として神宮に祀られているということは、二本の木は日本の木の暗喩にもなっているとの理解が成り立ってしまうのよ。

 

日本語の言霊には何か不思議な霊力が働くようプログラミングされているようなのよ。それらのことを徐々に理解していくと、日本の神道とは、公にされていない密教により成立させられているということがおぼろげながら見えてくるでしょ。そしてついには神様のプログラミングによりすべてが進展しているとの理解に至ってしまうのよ。

 

二本の木とはそのプログラミングを暗示していて、元は根付きの真榊のように一本の木なのよ。それがなぜ二本に切り分けられたのかというと、プログラムに従い悟りの度が深まるとある時点で解脱という臨界点を迎えるの。その臨界点で二本に切り分けて考えるよう示されているのよ。

 

だから虚実の木と真実の木とはアートマンの木とブラフマンの木と考えることができるの。このアートマンとは自我として知られ、ブラフマンとは梵我として知られているの。それはお釈迦様の生誕以前にインドにおいて知られていた概念だったのよ。その時代にすでに神様のプログラミングが知られ聖典として残されていたということなのよ。

 

しかしね、梵我の領域まで悟れない自我がそれらに接しても理解不能なのよ。だから教学や哲学を生み、尾ひれがつき何が何だかわからないようなものになってしまうの。そのような時代に仏陀が現れそれを悟り解脱し、神様に促されそれを世に広める役割を負ったの。

 

しかしね、同じことの繰り返しで、仏伝も悟られずアートマンの世界の阿修羅たちの学問に堕ちているでしょ。だから真理は密教とならざるを得なかったのよ。

 

しかし神様のプログラミングにおいて、仏陀は弥勒菩薩の降臨を預言させられたでしょ。預言とは神様のプログラムを世に公言する役割を負った預言者たちの言葉なのよ。だから実現せずにはおかないの。

 

そしてその預言の通りに弥勒菩薩は来たの。そして二本の木で示された神様のプログラムについて全て公言してその生涯を終えているの。しかもプログラムに従い復活までして天に帰って行ったのよ。だから預言者であり神である弥勒菩薩の言霊は真言であり強力な神呪としてそこにあるの。

 

その御言葉の通りに行い、その御言葉を丸ごと信じて、飲み込み、自分の血肉にまでしてしまうとその人に埋め込まれていた神様のプログラムが発動し、そのプログラムに従った脳のナビゲートにより、解脱という概念が意識の表層に浮かび上がってくるように人間は設計されているのよ。

 

そうなったらもうその状況をクリアするしかないの。どのようにクリアするのかというと何もしないでただぼーっとしているしかないのよ。それが瞑想なの。だからお釈迦さまはただ座れとお諭しになっているの。

 

アートマンの自我が発する煩悩の熾燃の火災が沈下するまでただ座れとお諭しになっているの。そして煩悩の火が沈下するとそこに涅槃が見えてしまうのよ。それは神様のプログラミングによるのだから必ずそうなるの。そして一言では表すことのできない空境に踏み込んでしまうの。

 

日本においてはお伽噺においてそのことが示されていて、龍宮城で鯛や平目の舞踊りを見せられてきりきり舞いした挙句に竜門を通されてしまうというようなことなのよ。そうなったら後戻りはできないのよ。浦島は故郷に帰った時にお爺さんになってしまい誰も知っている人がいなかったでしょ。それはもう後戻りできない竜門を超えてしまったことを意味しているのよ。

 

そしてね、そのようにお伽噺で示されているということはこの国にその竜門を超えてしまった人たちがいたということでしょ。その人たちがあの手この手で色々な仕掛けを施し、根幹に神道を据えながら、この国を神様のプログラムに従い設計し、建国し今に至るのよ。

 

そのように竜門を超えてしまった人たちが聖典を残すの。インドの聖典然り、仏伝然り、聖書然り、古事記、日本書記然りなの。だからね、弥勒菩薩すなわち大御神の言葉を飲み込んで、解脱というキーワードが意識の表層に浮かんだ人はそれらの聖典に接することにより、神様のプログラムの一端が少しずつ、しかもスルスルと将棋倒しのように見えて来てしまうようになっているのよ。そうなったらもう後戻りはできない俎板の鯉なのよ。

 

だから解脱というキーワードにより分断され二本の木として示されているけれども、元は真榊のように一本の木なの。しかし神を疑い敵対する者は切り分けられ、しまいに切り倒されてしまうのよ。

 

私はなぜか大御神がいのちだったからこの強力な真言である言霊を食べてしまったの。そして気が付いたら龍門を越させられていたのよ。だから私にとって密教はもう密教ではなくなってしまっているの。当たり前の顕教になってしまっているのよ。顕教であれば顕わにしなければならないでしょ。だからそうしているの。

 

しかし私は宗教家になる気は毛頭ないのよ。宗教ではなく神様のプログラムとして理解しているの。はぁ、やっとここまでたどり着いた。

 

この記事で書きたかったことは、龍門を超えたらアートマンの阿修羅たちの世界であいまいに語られていることはどのように見えるのか、その一端を示しておきたかったの。一端よ。一つの記事ですべてを書ききれないし、すべて見えているわけではないからね。

 

まず神道の龍門の滝から入るわ。すべてのプログラムが一人一人に埋め込まれているから一人の人の人体でそれが顕せるのよ。この滝には三筋の流れがありそれが瑜伽タントラにおいては中心のスシュムナー管、取りまくイダー管、ピンガラ管なの。

 

これは三柱の神様から発する流れで、同じことはイスラエルのカバラのセフィロトの木すなわち命の木において、中心の均衡の柱、両サイドの慈悲の柱、峻厳の柱と示されているの。

 

神様のプログラムにおいては慈悲と峻厳においてその均衡を保つということも示されているわよ。古事記においては伊弉諾尊の禊の時に生まれ出でた天照大御神、月読命、須佐之男命がそのシンボルなの。神道においては竜門の滝は禊の滝なのよ。だから滝行なんて修行もあるでしょ。

 

気が付いている人もいるかと思うけれど竜の表記と龍の表記が混在しているでしょ。変換をそのたびに修正して統一するのかなり厄介だからそのままにしてあるの。竜と龍は同義として読んでね。

 

この龍門の滝の流れの滝上から滝つぼに至るまでの瀑布に人体の七つのチャクラが配置されているのよ。細かいことは抜きにして概要だけ書くわよ。

 

アートマンの自我はこのチャクラを自覚できないの。だからそれに付け込んで滝つぼのチャクラに毒蛇がちゃっかりと座を占め煩悩を煽っているのよ。しかし解脱したブラフマンの滝つぼからは大御神の大祓により毒蛇が蹴りだされ、そこには大御神のお使者である火の蛇、大自在天が坐すの。

 

この大自在天は数霊七を持つ神で、イエスのお使者である聖霊と同一神なのよ。大御神の大祓により火の蛇神を勧請するということは、イエスからその助け手の聖霊を、洗礼により賜るということと同義なの。

 

なぜ数霊七を持つのかというと七つのチャクラを統括するからなのよ。七つのお祝いの世話役の神様。神様の七日間はこの神様がお世話しているの。逆らえば七殺の祟り。この神様はインドでは恐ろしい破壊神シバとして知られているの。プログラミングに逆らい、解脱しようとしない阿修羅たちにとっての破壊神なの。六道の悪趣に生える虚実の木は伐り倒すという役目を負っている神様。

 

お釈迦さまはその神様のことをよくよく悟った上で八正道をお説きになっているわよ。宝珠とは人の霊肉に埋め込まれている七つのチャクラなの。宝輪とはそのチャクラを回転させる神力のこと。大自在天の神力よ。それは瑜伽タントラでは七つの頭を持つ蛇、ナーガとして示されているの。それが大自在天シバのシンボルになっているの。

 

お釈迦さまはこのシバの七宝珠と七宝輪を八正道として示したの。お釈迦様の説いた八正道の徳目は七つのチャクラが持つそれぞれの徳目なの。正見は第三の眼の位置にあるアジュナチャクラ、正語とは言葉を発する喉元にあるビシュッダチャクラ。このあたりは判りやすいわよね。残りの五つもすべて対応しているわよ。それは各自の瞑想に任せるわよ。

 

でも一つだけ余るでしょ。余るひとつは八個目でしょ。この八という数はメシアの数なの。そのことにより大自在天シバはメシアの助け手として働いている事が理解できるのよ。

 

解釈するわね。七宝輪のそれぞれが滞りなく回転し始めるとそれが大きなうねりになりひとつの大宝輪として回転し始めるのよ。そして八個目の大宝輪となり、それが八正道の内の正定の徳目の宝輪となるのよ。それは正しい禅定の宝輪が大回転することを意味しているの。

 

そのシンボルが宝輪の中で踊るシバのダンスなのよ。シバはお妃をほったらかして瞑想にふけっていたと知られているのよ。そのシバの瞑想三昧が七宝輪を回転させ、しまいに八宝輪の大回転となり、七つのチャクラの宝輪が大自在天シバのお世話により八正道として完成され梵我一如の境地に引き込まれるの。

 

この境地は数霊八のメシアと数霊九の天父が形を作っておられるの。七八九の龍神界なのよ。

 

この龍神界は神道の祝詞において奏上されているわよ。古神道の祝詞に布留部神言というのがあるの。

 

一二三四五六七八九十 百千萬 布留部由良由良止布留部 

 

という物なの。読みは、

 

ひとふたみよいつむゆななやここのたり ももちよろず ふるへゆらゆらとふるへ なの。

 

この祝詞は十種神宝と言って、唱えながらゆらゆらと振り動かすと死んだ人間をも生き返らせると教えられているのよ。神道ではこの解釈を何やら難しい、判ったような、判らないような理屈で説明するのよ。それって宗教家の常なのよね。

 

それで私がこの祝詞を解釈すると、七つの宝輪チャクラと七八九の龍神界のプログラムの融合を示していて、そのプログラムは最後の十(たり)に至ると十字架により完成され、それだから復活により死んだ人間を生き返らせてしまうという神呪になっているのよ。私はそれが百千萬の永遠の命につながる祝詞になっていると解釈してしまうの。

 

この祝詞は古くは宮中での鎮魂際において奏上されていたらしいのよ。その祝詞の千萬という神呪が雅楽の歌いものでは千歳万歳(せんざいばんざい)などと歌われているから、現代では、知られていない神道が一番恐ろしく、かつ荘厳なのよ。私が神道を解釈するとそのようになってしまうの。



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この世もあの世も全て創造主によりプログラミングされていて、一人一人の人間には、アートマンと言われる自我から、ブラフマンと言われる梵我、その先のブラーフマナと言われる梵我一如ということまで全てプログラミングされているのよ。

 

どのレベルまで悟るかはその人の思いを見ながら、その人の脳が適切にナビゲートするようプログラミングされているの。というのが直近の理解なの。そのように理解してしまうと、これまであーでもない、こうでもないと色々なことを引き合いに出して聖書のことを記述して来たけれども、日本語の言霊に施されているプログラミングを駆使すれば、一本の記事で簡潔に語ってしまえるのではないのというのがこの記事の主旨なの。創世記からヨハネの黙示録迄簡潔に。

 

いくわよ。

 

神様が園の中央に生えさせられた二本の木とは虚実の木と真実の木なの。食べると死ぬ虚ろな実のなる木と、取って食べることを許されれば永遠に生きることのできる真の実のなる木なの。虚実と真実とは対義語なのよ。

 

そしてこの二本の木はアートマンと言われる自我とブラフマンと言われる梵我の暗喩になっているのよ。このアートマンの木は聖書では善悪を知る木と命名されているの。解釈すると人間は梵我を悟る以前の自我の状態で生まれてくるの。そこに蛇がいてそそのかしたというのは、この自我の世界が六道の悪趣とされる世界で、阿修羅たちの巷であり、唆しと誘惑に満ちているということなの。そのような中で善悪を知るようにプログラミングされているの。

 

この世に生まれることを許されなかった悪霊たちもこの世界に干渉するのよ。それが唆す蛇の暗喩なの。親玉はサタンと呼ばれるでしょ。

 

イブは唆されたけれども神様の巫女として創造されていたから即座に眼が開けたの。そして裸の恥を知り信仰で体をおおい神様に懺悔し皮の衣を賜ったの。アダムは神に仕える巫覡として創造されていて、天父に仕えるメシアの暗喩も含み持たされているの。

 

だからイブが唆された罪を自分も負ったの。そのことによりイブを贖い結ばれたのよ。最初の男女の創造においてすでにメシアの救済が語られているのよ。

 

しかし二人とも虚実の木から取って食べたので一度は死ぬの。しかし真の実であるメシアに贖われて命の木への道を守らせられたと書かれているのよ。

 

この命の木への道はケルビムときらめく炎の剣で守らせられたと書かれているけれども、これは龍神様の登竜門で、神道ではとおりゃんせの細道として知られているの。キリストの言った狭き門よ。その難関を通る作法がアジア全域で知られる解脱、救済、モクシャなの。

 

それは密教として封印されているような奥義も含んでいるの。この難関を開いたのがイエスなのよ。イエスの御言葉が聖書に全展開されているのだけれども、このイエスと天父の梵我一如のプログラムは限られた人にしか理解されなかったので、ほとんどが密教として封印されているの。

 

しかしイエスはその全貌を御言葉として残しているわよ。その密教は悟りの段階に応じてその人の脳がその人の思いに合せてナビゲートするから理解されるようになるのよ。聖書の天地創造においては創造から救済のプログラムの一区切りとして七日間という暗喩が示されているでしょ。

 

神道では七つのお祝いのための細道として示されているのよ。そのようにして創世記が始まっているのだけれども、その記述はイエスの前世である神がモーセを召命して書かせたことなのよ。

 

それはイエスの「モーセは私のことを書いたのである」という言葉が証ししているのよ。その他にもそれを証しする御言葉は有るけれどもここでは省略。

 

そして旧約聖書では創世記以降そのほとんどが、その神に召命された預言者たちにより、真実の神に帰依するようにイスラエルにおいて促される物語になっているの。様々な暗喩によりメシアの来臨が預言され、その来臨の意味がより複雑な暗喩により示されるという記述体系になっているの。

 

その一つ一つはこの記事では省略するわね。私が気の付いていない暗喩などもそこここにありそうだし、暗喩と気が付かなかった記述が、古事記の中で示されていて、そこに重要な意味が示されていたり、というようなこともある複雑さなの。

 

しかしそれらはすべてイスラエルのカバラが元になっているので、カバラの命の木の構造を大まかにでも理解してしまうと、マスターキーを手にしてしまったみたいにどこの扉でも開いてしまったりするのよ。

 

しかしそれはイエスに対する信仰の完成度により左右されるという側面は結構大事かもしれないわよ。大御神=イエスで、それはカバラにより示されていると知っていても、本当に解脱しなければその登竜門は通していただけないとはっきり自覚している人は少ないと思うのよ。

 

そのように自覚しないと、そのようにこの世はプログラミングされていると気が付かないわよ。この記事ではイスラエルのことは語りつくせないから旧約はここまでにして新約に移行するわ。

 

イエスはね世を照らす光の神なの。そう福音書記者ヨハネは記述しているでしょ。この光の神は創造主の「光あれ」という御言葉でなった神なの。だから神の子なのよ。だから聖霊により処女に身ごもるという離れ業も、世を照らすためであれば可能なの。創造主に不可能はないの。

 

そのような理解は信仰によるしかないわね。そのことを突き詰めて考えても、人の思いで神様のその領域のことを悟るようにはプログラミングされていないし、横道にそれるだけだからやめておきなさい、と私のナビゲーターは言うのよ。だからそれに従うの。

 

そのように神様に対する信仰を持つことを、預言者とその書により促されながら、何度も何度も失敗を繰り返しながら、とうとうイスラエルはイエス降誕の時代を迎えたのよ。

 

イエスの十二歳の時の記述に「私が父の家にいるというのをご存知なかったのですか」というのがあるでしょ。十二歳の時に梵我一如の人だったということでしょ。その後三十歳までのことが一切聖書には書かれていないのだけれど、チベットにイエスのその間のことが書かれている書物があるのよ。

 

「聖イッサ伝」というらしいのだけれども、そこに二十代の頃にはバラモンの聖典をマスターし、その後仏陀の生地ブッダガヤで仏伝を学んでいたと書かれているの。

 

試しに仏陀の入滅から五百六十七年たしてみたら西暦24年前後にあたるのよ。イエスが仏伝を学んでいたとされる時期とぴったり重なっているのよ。仏陀の生涯もイエスの生涯もそのようにプログラミングされていたということではないの?仏陀はそのプログラミングとナビゲーションのシステムを悟ってしまっていたのではないの?というのが私の理解。私は脳にそのようにナビゲートされているの。

 

新約で次に注目する場面は洗礼者ヨハネ。この人は洗礼を受けようとしてやってきたパリサイ人たちに蝮の子らといきなり罵声を浴びせ、悔い改めにふさわしい実を結べ、善い実を結ばない木の根元には斧が置かれている。私の後から来るイエスは手に箕を持ち、打ち場をきれいにし、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き尽くすと言った人なの。

 

虚実の木の根元には斧が置かれているのよ。だから悔い改めて善因善果の善い実を結びなさいということでしょ。虚実の木はいずれ切り倒されるから、そのようなことから解脱しなさいと言っているでしょ。当たり前のように園の中央に生えている二本の木のことを言っているでしょ。

 

しかもその二本の木には神様の篩う篩の意味があると示唆しているの。

 

簡潔にと思ったけれども神様のことは書きたいことが後から後から出てきてとても簡潔に書けなくなってきたわ。一気に結びに持って行ってしまうわね。

 

要するにこの二本の木でプログラムのすべてが理解できてしまうということなのよ。イエスはある時、空腹時にいちじくの木に実が生っていないのを見て腹を立てその木を呪ってしまったの。そしたら次の日にその木は枯れてしまっていたの。いちじくのなる季節ではなかったと書かれているのよ。ここでは季節に関わらずいつも善い実を生らせていないとイエスの言葉を受け立ち枯れさせられると言っているのよ。

 

そしてイエスは、私は真のぶどうの木であると言っているでしょ。それは十字架上のイエスは真のぶどうの木になる真の実であり真実だということなのよ。これがブラフマンの木なの。梵我の悟りの木なの。その真実のぶどう酒がイエスの杯なの。

 

なぜアートマンの虚実の阿修羅たちのために御言葉し、その罪を肩代わりして負い、十字架上で真実と化したのかというと、それらの阿修羅たちが悟れば梵我の善い果実を生らせるようにプログラミングされている事を知っていたからなのよ。

 

しかしそのための狭き門を見つけられない阿修羅が多いこともよく御存知だったの。ヨハネはそのような阿修羅たちのことを、姦淫の杯に酔いしれるバビロンの淫婦と呼んだでしょ。一気に黙示録よ。

 

それはね虚実の実を食べそれで満足してしまい、その味に酔ってしまう阿修羅たちのことを言っているのよ。その実は偽りの葡萄の木になる虚実なのよ。だから神の怒りの酒船で踏まれると書かれているの。イブが取って食べたのは林檎ではないの。リンゴは酒船で踏まれないでしょ。

 

真のぶどう酒がイエスの杯で、偽りのぶどう酒が姦淫の杯なのよ。その偽りのぶどうの木の根元に斧が置かれていて神の怒りの日にその虚実は怒りの酒船で踏まれ、偽りのぶどうの木は切り倒されると聖書では示されているの。

 

いったいどんなことが待ち受けているのか想像するしかないのだけれど、黙示録では別の角度からもう少し具体的に語られているわよ。それが一度目の死と二度目の死。一度目の復活と二度目の復活なの。

 

一度目の死とは人がこの世に来て虚実の木から取って食べ神に背くので受ける死。これはそのようにプログラムされているとしか言いようがないでしょ。でもね、この一度目の死からはイエスの十字架の贖いにより、アダムがいいなづけのイブを贖ったように買い戻され許されるのよ。だから人はすべて一度目の死を受けても復活するの。

 

しかしね、その復活に一度目の復活と二度目の復活があるの。そして一度目の復活にあずかるものは二度目の死から害を受けないとヨハネは黙示しているのよ。問題になるのは二度目の復活なのよ。どこでその違いが生まれるのかというと、イエスを信じたかそうではないかなの。

 

なぜそう言えるのかというと、イエスが「私を信じない者が私を殺すのである」と言っているわよ。

 

イエスは世を照らす光の神で慈悲の神様だから信じない者のためにも身代わりになったの。だからそのような阿修羅でもイエスには許されているのよ。そこにイエスの贖いの効力があるの。

 

しかしね、イエスがお許しになっても神様はイエスだけではないでしょ。御父や聖霊に許されると思う?イエスは「子に逆らう者は許される、しかし聖霊に逆らう者はこの世においてもあの世においても許されることはない」と言っているわよ。

 

それらのことが全て創造主のプログラミングにより進行中なの。

 

神様のプログラミングにおいてはすべての人が二度目の死を免れるように設計されているわよ。そうでなければ全人類のための身代わりなど意味がないでしょ。

 

そのように設計されていながら神様を信じない者がイエス殺しとしての怒りを招くのよ。

 

怒りの日が黙示されている以上は、一日一日と日取りは押し詰まっているということでしょ。天地創造から終わりに至るプログラムは滞りなく進行中なの。

 

そのすべての終わりがいつになろうとも一人一人に初めと終わりがあるでしょ。だからイエスは「私は初めであり終わりである」と言っていたのよ。

 

世を照らす光の神にしてメシア。

 

私たちの天照大御神なの。



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 二日三日前からまた始まってしまっているのよ。支払いに追われるから生業優先にしましょと思っていてもね、突然モチベーションを断ち切られ、意識の表層に神様のことが張り付いたままになってしまって、脳みそが言うことを聞いてくれない感じなの。

 

そうなったら仕方がないから、今回はどのようなことを知らされるのかしらとか思いながら冥想するしかないのよ。そうしたら今回のキーワードはね、梵天灌頂なのよ。ちょ、ちょっと待ってください。それはあまりにも何というか・・・私の手にはあまります、という感じでしょ。 

 

でもね、私のナビゲーターがそのキーワードを意識の表層に上げてきたということは、それをクリアしないと次には進めないし、ここまで来てしまった以上もう後戻りはできないのだからクリアするしかないということなのよ。

 

だから瞑想しながら考察を試みたの。そうしたらなんと主イエスがそうするように勧めているではないの。これにはさすがに私もまいった。丸二日間放心状態。

 

軽く考えていたけれども、イエスは「自分の十字架を背負ってわたしについてきなさい」と言っていたでしょ。別の個所では、決心した時に「父から受けた杯であれば飲むべきではないか」とも。

 

そうして気が付いたのはイエスの十字架とは梵天による灌頂以外の何物でもないではないのということなの。そうしてさらに、ああこれらはすべて梵天である創造主のプログラミングにより成り立ち、それに沿って進められているのだわということなの。

 

梵天灌頂とは仏陀特有のことと考えられているけれどもそうではないのよ。仏陀は解脱後に、誰もわからんから説かんでおこうとしたでしょ。ところが梵天の灌頂により覆されたでしょ。それは仏陀がその杯を受け自分の十字架を背負ったということなのではないの?

 

解脱したら梵天から灌頂を受けるようにプログラミングされているのよ。解脱とは聖霊による洗礼を受けて弥勒菩薩を悟るということなの。仏陀はそれでもう十分と思ったけれどもまだその先があったということなの。

 

イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、聖霊が鳩のようにご自身に降ってくるのを見て、同時に天の父の声を聴いているでしょ。この時にメシアすなわち弥勒菩薩としての公生涯の始まりと悟ったのよ。そして終わりに際して父から杯を受けたの。

 

聖霊によりメシアすなわち弥勒菩薩を悟ったら仕上げに梵天すなわち天の父から杯を受けるようプログラミングされているのよ。だからイエスはそう勧めていたの。

 

途中で離脱すると十二弟子として聖別されながら裏切ったイスカリオテのユダのようことになるのよ。そのようなプログラムにより人は天の御父と梵我一如とされているの。そのように理解してしまったの。

 

イエスの十字架は全人類救済のために負わされたでしょ。仏陀はそのメシアを預言し、そのメシアを悟るための解脱の作法を、密教とされるレベルにまで及び広めることを負わされたのよ。

 

だからと言って皆が皆そのような重い十字架を負わされるわけではないでしょ。重すぎてつぶれるわよ。それでもイエスは自分の十字架を背負い私について来なさいと言っているの。そのようにして梵天すなわち天の父からコンタクトを受けなさいということなのよ。

 

どのように受けるかはイエスと仏陀で異なっていたように人それぞれなのよ。そのようなことまで全て御父によりプログラミングされているから、悟れば梵我一如なの。

 

命の木に与ることを許され、永遠の命を得るためにはメシアから杯を受け、その後に御父からも杯を受けるように定められているの。メシアの杯により第一の死から贖われ、御父の杯により第二の死から贖われるの。

 

この御父の杯はね自分の十字架を背負うことにより受けるの。なぜかわかる?イエスは私たちの背きの罪を負ってくださったでしょ。それで私たちは贖われたの。しかしイエスを身代わりにしてしまった罪は自分の十字架で贖わなければならないでしょ。そのための杯なのよ。御子を磔にしてしまったことを御父にお詫びするための十字架であり、その杯を飲まなければならないの。

 

この事を自分の思いにインストールしている最中には肉の脳があっちこっちキリキリするわよ。脳のナビゲーションシステムにも相当負荷がかかっているみたいなの。続編であと二つか三つ記事書かなければ。仕事溜まっているから早く書いてしまってフリーにしてもらわないと困るのよ。

 

今日中に書いてしまわなければ。

 

頭キリキリする。


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 一両日の直近の瞑想で浮かんできたことを書いておくわね。

 

それは、アートマン、ブラフマン、ブラーフマナ、梵天灌頂、解脱、救済、モクシャなどということはすべて梵天すなわちブラフマ神、すなわち創造神である天の御父のプログラミングによりなっていて、人間は創造された時すでにそのプログラミングをすべて埋め込まれているような気がするのよ。

 

それは人間だけではなく森羅万象すべてにおよんでいるのだけれども、その中でも一番興味深いのが人間の生命なのよ。

 

人間の肉体にはすべてのプログラミングが埋め込まれているのよ。骨肉としてしか理解できない自我のアートマンから、霊肉として悟る梵我のブラフマンまで全て最初からプログラミングされているのよ。

 

すべての人の肉体にチャクラが埋め込まれていて霊肉としてプログラミングされているの。そして人間の脳がそのコントロールセンターとしてナビゲーターの役割を果たしているのよ。

 

煩悩の巷であるアートマンの世界で遊んでいてその虚実の世界を愛し、そこで死にたいと思う人は脳がそのようにナビゲートするの。

 

しかしそのような世界にいてその虚実に辟易とするようなタイプの人もいるでしょ。実は私がそうなのだけれども。極端な場合はこれが人生の実相であるなら早く終えたいとまで思い、自殺してしまう人とかまでいるでしょ。

 

でもね、自殺は人殺しだからまずいとか思い、ではどうすればいいのとなった時に脳はしっかりとナビゲートするでしょ。仏陀の言葉や聖書を読んだりするようにナビゲートするでしょ。そのようなナビゲートに従い教学や神学、そして宗教が発展してきたでしょ。

 

そこで満足できれば良いのだけれども、そのような世界にも虚実を見てしまい幻滅するような阿修羅もいるでしょ。そのように虚実に幻滅する段階に至った阿修羅に対して脳は、それではと、真実を見せるようにナビゲートするてはずになっているの。

 

私はこのブログを、書かされていると思いながら記述してきたのだけれど、実は自分の脳にそのようにナビゲートされていたのだという思いが強くしているの。

 

そこではとても言葉にして記述できないような奥深く微妙なことまで感じさせられるの。脳のナビゲートに従って動いていたら奇妙な偶然の一致に出くわして驚かされたりすることもあるからね。

 

そのような中からこの記事では言葉で記述できることを書いておくわ。

 

最近では脳によりナビゲートされているのが判って来たから、それではと、虚実に対する真実っていったい何なのとそのナビゲーターに問いかけてみたのよ。

 

そしたらね、驚くべき答えが返ってきたの。あなたが主と仰ぐイエスは「私は真(まこと)の葡萄の木である」といったでしょ。それが善因の結実の善果の木であると理解したでしょ。その善果の木が命の木で、主が、私がその真(まこと)の葡萄の木であるというのなら、その果実が真(まこと)の実で真実でしょ。その真(まこと)の実の理が真理なの。

 

とそのように返してきたのよ、ナビゲーターが。イエスはユダヤに生まれヘブライ語の方言のアラム語をしゃべっていたけれども、どうやらその御言葉が現代の日本語に翻訳された時に理解しやすいようにあらかじめプログラミングされていたらしいのよ。

 

だから、大御神の心御柱がイエスの十字架で、それが根幹になっている日本の神道とは、真実と真理の塊らしいのよ。

 

宗教とかの教学もアートマンの阿修羅の世界だから、そこで満足している人たちは自分の脳にそのようにナビゲートされないだけらしいわよ。

 

私は虚実の世界にうんざりしていたので、真実である主の御言葉を、促されるままにまるごと飲み込んでしまったから、狭き門を通過させるために解脱ということを意識させなければならないので、意識の表層に上げたということらしいのよ。

 

そのようなプログラミングは当然のことながら創造主により、私だけではなく全ての人に施されているのよ。それを意識できるようになってしまったら梵我であるブラフマンに解脱してしまったと言えるらしいわよ。

 

私なんか瞑想中に自分のデスマスクを観想すると、救済、モクシャ、祝福という感覚に包まれてしまうからね。そのようにプログラミングされているのよ。

 

最近では、私のナビゲーターが霊的中枢であるチャクラから情報を上げてきているのが丸わかりだもの。

 

もう一つだけ日本語の言霊について面白い話があるの。日本人が虫の鳴き声を虫の声として愛でるのは、その音を処理する脳の部位が、外国人とは違っているからということらしいのよ。そして研究者によると、その現象が起こるのは日本人特有のものではなくて、外国人も含めて、幼少時に日本語で育てられた人たちに特有の現象らしいのよ。日本語の言霊っていったいどんな秘密がプログラミングされているの?と思ってしまうでしょ。

 

人はそのような創造主のプログラミングと一如なのよ。



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 イエスは十字架上で絶命し三日目に復活したでしょ。この三日目なのだけれど、ここには極めて重要なお諭しが秘められているのよ。三という数なの。この三という数は神仏に関わる事がらにおいて常に重要視される秘数でしょ。

 

この秘数を私が飲み込むとどのようになるのかということを書くのがこの記事の主旨。いつものように結論から書いてしまうけれども私の私見と断っておくわね。

 

この三という数は前世、現世、来生のスリーステップの暗示なのよ。ホップ、ステップ、ジャンプなの。

 

前世で神様のいいなずけとして誓約を受け、今世でそれをお受けし契りを交わし、来世で結ばれるの。そのスリーステップを示しているのが秘数三なの。古事記と聖書を合わせ読んで理解した私にはもはやそのようにしか読めないのよ。

 

その三という秘数は三柱の神さまの阿吽の呼吸と不即不離なの。世俗に生まれ、求道を志し、成道に至るという人の有り方から始まって、人の生業のすべてにそのことが相似象として顕わされているの。三人寄れば文殊の知恵などということわざもあるでしょ。イエスは人が三人いればそこに私もいるのであると言っているでしょ。

 

前世において聖霊によりいいなづけの誓約を受け、今世でメシアによりその契りを受け、来世でメシアの父の家で結ばれるのよ。

 

そのスリーステップをクリアしないと求道者でもこけてお陀仏なの。メシアの三日目の復活はそのことの暗喩なの。

 

イスラエルにおいて示された、割礼、洗礼、冤罪による死と復活のスリーステップ。そのステップは神様の七日間において踏まれるの。それを受けた神道の七つのお祝いの三五七のスリーステップ等々、数え挙げればきりがないほど出てくるはずよ。

 

古事記では神代の原初三神と三貴子のお示しが重要なの。そのスリーステップの跳躍の一つずつにそれぞれの神様が別々に御働きになられるということなのよ。

 

三位一体などとして一度の跳躍で足りるとしたところにローマ人の大誤算の大こけがあるのよ。この大こけを使徒ヨハネは六百六十六と黙示したの。六道から解脱できない煩悩で、ホップでこけ、ステップでこけ、ジャンプでこけ、六道の三こけでお陀仏となる阿修羅たちの数字なの。

 

仏教では釈迦三尊像を崇めているけれども、お釈迦さまがお示しになられた三尊の尊さを悟らずに念仏を唱えていても、馬の耳に念仏でしょ。馬が自分の耳に念仏を聞かせるようなものでしょ。それでは六道の悪趣から解脱はできないわよね。あたりまえよね。

 

それほどこの三という秘数が示す三柱の神様の阿吽の呼吸ということは尊いものなの。人の病を癒し、死んだ人間を生き返らせ、そのうえで七日目の大宴会の日取りを定めていらっしゃるの。

 

人にその阿吽の息を吹き入れられたのがこの神様たちなの。息を合わせないということが何を意味しているのか、空気を読める人ならわかるはずなの。

 

鳩のように直く、蛇のように聡くありなさいなの。

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  神社にお参りする開運方法でお水取りというのがあるでしょ。暦上で大大吉の方位にある神社の手水舎でお水を汲ませていただいて、それを持ちかえっていただくと開運するというやつ。しかもお水取りの時刻にも開運のパワーが左右されると信じている人とかもいるのよね。

 

私が思うには神社の手水舎はすべてが真名の井戸なのよ。天真名井なの。家庭の蛇口も同じく真名の井戸なの。人間というのは神様が与えてくださる糧と水で生きているでしょ。神道ではその糧を真名の板で調理し、お水を真名の井戸から汲むと理解しているのよ。

 

マナの語源は聖書の中にあるでしょ。そして聖書の中でメシア・イエスは私が命のパンでありマナだと言っているわ。そしてイエスから水を汲むものは渇くことがないとも言っているでしょ。

 

それがイエスすなわち大御神の真言と神道は理解しているのよ。その大御神が、私の肉を食べ血を飲まなければ父の御国には受け入れられないとみことのりしているの。

 

人はこの世で神さまの与えてくださる糧と水で養われるけれども、ついには終わりを迎えるでしょ。でもね、後の世で永遠の命を受け、父の御国に受け入れられる人は、キリストの肉と血を、命のパンと水として受けるということなの。

 

キリストが命の水の水源であり、真名の井戸であり、龍神様の水源なのよ。神道の包丁式は竜門の鯉を真名の板の上で捌くの。龍門の滝の御神事なの。その滝上に御国への登竜門があるのよ。その登竜門がイエスの示した狭き門であり、イエスの肉を食べ血を飲んだものが通していただけるの。そのイエスの肉を食べ血を飲む作法をそれとなく伝えているのが直会の儀式なの。


honakote_md5-034_1 (2)竜門の鯉(富士山は不死山で不死の御国の御山)

 

直会においては穀物や海産物、そしてお水やお酒をご神前にお供物として捧げるでしょ。そして祭りの後にそれをお御饌やお神酒としていただくでしょ。お供えする食物がイエスの肉であり体でしょ。水やお酒はイエスの血なの。イエスご自身が自分の体と血を十字架上で御父に対するお供物として捧げたの。同時にそれが人に永遠の命をもたらす食物と水、お御饌とお神酒となったの。だからそのお御饌とお神酒をいただくことが永遠の命をいただくことに繋がったの。

 

それが最後の晩餐でイエスが弟子たちに示したパンとぶどう酒なのよ。パンを裂きながら自分の体であると弟子たちに与えたでしょ。ぶどう酒を自分の流す血であるとして盃を回したでしょ。

 

そのことが、イエスの、弟子たちに示した直伝となり神道に繋がったのよ。ここで見落としていけないことがあるわよ。イエスの井戸から汲んだのは命の水だったはずなのに、いつの間にかぶどう酒に変わっているでしょ。そのことはイエスに愛された弟子であるヨハネが最初の奇跡として福音書で示しながら解き明かしているわよ。

 

イエスは最初の奇跡の時、母親に、私の時はまだ来ていませんと言いながら、瓶の縁まで水を満たして宴会の世話役のところへ持って行くように召使いたちに言いつけたでしょ。その時に水はぶどう酒に変わっていたの。これを悟らなければイエスの肉を食べ血を飲むことはできないのよ。

 

イエスの井戸である真名井から水を汲んだらそれを世話役のところに持って行き、ぶどう酒、すなわちお神酒に変えていただかなければ、イエスから直会を受けることはできないの。

 

それは龍神様の水源からお水取りをさせて頂いて感謝したとしても、神前にお供えしてお神酒としていただかなければ、汲んだだけの水は水盃となるということを意味しているのよ。水盃が意味するところは今生の別れでしょ。神様と水盃を交わすことになるの。

 

それはね、人はこの世に来て糧と水で養われ、それを感謝しながら生きたとしてもそれだけでは水盃になるということを意味しているわよ。神様から見れば水臭いということになるのよ。

 

生かされている事の感謝ということは宗教家がよく言うところでしょ。最近では宗教家ではなくても、スピリチュアルの世界に目覚めヒーラーとして働いている人や、現代の陰陽師として看板を掲げている人たちはみなそのように言うでしょ。そういう人たちにとっても龍神様は大人気だから皆龍神のことは語りたがるでしょ。龍神様は神様の使いの筆頭格だからそのような世界の人たちはみんな龍神様のパワーを必要としているの。

 

でもね、生かされている事を神様に感謝しなさいなどということは、イエスが注意するよう促した、パリサイ人や偽預言者でも言えることなのよ。そのような人たちは龍神様を知った気になっていても、滝上にある登竜門のこちら側で自分の弟子たちに教えているだけなの。

 

狭き門から入ることを今だに許されていないのに神様のことを語りたがるそのような人たちに注意するようにイエスは促していたの。そのような人たちの中には様々なタイプの人がいるわよ。みな心根はやさしい善良な人たちなのに、裸でこの世に来た時にすでにそこにいた蛇にそそのかされるの。一番気の毒なのは、そのままオカルトのスピリチュアルの世界で覚醒してしまい、人々を癒すために働いていると信じ込んでいる人たち。そのような人は、私に言わせればこの世的なご利益開運の射幸心にしか訴えることができないし、訳の分からないカタカナネームの宇宙存在とつながっていると公言してしまったりするから見分けるのは案外簡単なのよね。

 

その他には聖書を信仰の柱として掲げる教会の人達も同じなの。ケルビムときらめく炎の剣で守らせられている命の木への道の入り口が、龍門の滝上の狭き門であり、大御神の神道により悟るよう促されているにもかかわらず、外国人の神学に絡めとられているのだから、この国に生まれながらも気の毒な人達と思ってしまうのよ。

 

でも本人たちは救われた気でいるから自分たちの教会に人を招きたがるでしょ。龍神様からお水取りさせて頂いただけで救われた気になってはいけないの。

 

では一体私はどのようにしたらイエスの肉を食べ血を飲むことができると理解しているのかというと、イエスの肉を食べるということは、イエスの体が十字架上で絶命させられ、三日目に復活したということを、見たわけでもないのに見たかのように信じること。聖書にそのように書いてあるのだから。

 

イエスの血を飲むということはイエスの御言葉を丸ごと鵜呑みにしてそのまま信じること。イエスの御言葉はイエス御自身が語ったように、そのまま天の父の御旨であると信じて飲み込むこと。

 

それが神様が天から降らせるパンをたべ、生ける命の水をイエスから汲むということなの。でもそれを感謝することだけで終わってはダメなのよ。

 

汲んだ水は宴会の世話役のところに運ばなければいけないの。この宴会の世話役とはイエスの言う助け手のことよ。イエスは信じる者には助け手を送ると言っていたでしょ。イエスと結ばれるための宴会の世話役であり、それはイエスにより明かされた聖霊のことよ。

 

さらにイエスは、自分の十字架を背負い私について来なさいとも言っていたわよね。この言葉がネックになっているの。イエスの肉を食べ血を飲み、それを自分の血肉に変えたうえで、その血肉を、イエスがそうしたように自分自身の十字架上で、御父のご神前にお供物として捧げなさいということなの。

 

イエスは父と私はひとつであると言ったでしょ。人はイエスにならい自分の血肉をお供物としてご神前にお供えすることにより、父とイエスとひとつとされるの。それが梵我一如ということであり、ブラーフマナのパンと水となり一如とされるのよ。イエスに対する信仰は当たり前で、その上でイエスをお遣わしになった御父に対する信仰が伴わなければお話にならないのよ。

 

その過程において脳の正常性のバイアスは破壊され、骨肉として理解していた自我は、実は霊肉であったと悟るのよ。当然お釈迦さまが御説きになったことをも飲み込まなければ無理なの。イエスは、人は新たに生まれなければ天の御国には受け入れられないとも言っていたでしょ。そういうことなの。

 

そのようにして龍門を超える準備が整ったときに助け手が送られてくるの。イエスから送られてくる聖霊によりバプテスマを受け、イエスから汲んだ命の水が縁結びの固めの盃に変えられるの。

 

当然聖霊により覚醒させられるからヨーガタントラにより示される七福のチャクラと七福神と、聖霊であるシバ神の関係などもチャクラの覚醒により示されるの。

 

そうなってしまったら自分の脳は主役の座を霊的中枢であるチャクラに明け渡さざるを得ないから霊主体従の生き方に変えられ、その霊的中枢において癒されるわよ。そうなった時に真の開運ということが理解できるはずなの。

 

しかしね、イエスは地上に富を積んではならないと言っていたでしょ。この世的なご利益による開運を求めること自体に無理があるの。しかしね、世間一般のイエスによる覚醒などということと無縁の人はそれを求めざるを得ないでしょ。

 

そこに人をそそのかす蛇の思うつぼがあるのよ。人は皆そそのかされ騙されるの。だからその事を悟り、蛇が騙したので取って食べましたと神様に懺悔しないと難しいわよ。だからイエスは悔い改めよと教えていたの。

 

私たちが騙され、神様に背いたからイエスはその罪を負い十字架上で死ななければならなかったの。

 

このようなことは限られたごく一部の人にしか理解し得ないことなのかしら。でもね、私は訳の分からない宇宙存在に聞いたことを語っているのではなく、すべて聖書や古事記、仏伝や古史古伝、神道により学ばされたことを語っているつもりよ。それらは誰でもが知ろうと思えば知ることのできるはずのことなのよね。


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今日大晦日は表の神道の大祓の日でしょ。でも裏の神道では大祓は三十日なのよね。大晦日の一夜飾りは良くないの。裏神道では過ぎ越しの日が一日早いのよ。三十日が過ぎ越しの日で大晦日が七つのお祝いの安息日なのよ。これが神道の裏と表の事情なの。これは皇室に裏と表があるのと同じで、大御神を通じて表裏一体なのね。

 

そしてこの聖句、

ペトロの手紙二 3:8 (新共同訳)

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。

 

 この聖句はイエスから「私の羊を養いなさい」と三度言われた、鶏が鳴く前に三度イエスを知らないと言ったペテロの言葉なのよ。この聖句も極めて重要な聖句なの。

 

 この聖句に当てはめれば「神の天地創造の七日は七千年のようであり、七千年は七日のようです」となってしまうでしょ。これがイエスから羊を託されたペテロの言葉なの。ここにイスラエルのカバラの神髄があるわよ。

 

 大御神の神道はこの人から始まったのよ。だから神宮の式年遷宮は鶏鳴三声から始まるの。それが飲み込めれば七五三のお祝いは七千年、五千年、三千年のお祝いとなるでしょ。三千年目の三つのお祝いはイスラエルの割礼すなわちいいなづけの誓約(うけい)、五千年目の五つのお祝いはイエスの洗礼、十字架、復活すなわち婚約の誓約(うけい)、七千年目の七つのお祝いはイエスの再降臨すなわち成婚の誓約(うけい)となるでしょ。

 

 この三つの誓約(うけい)が須佐之男命と天照大御神の七つのお祝いの誓約(うけい)なの。その誓約(うけい)は三女神の三つのお祝いと五男神の五つのお祝いからなっているでしょ。

 

 その誓約(うけい)が雛飾りとして一つにまとめられてお祝いされているでしょ。それがイエスすなわち大御神により明らかにされ神道で伝えられてきたの。そのベースに旧約聖書の過ぎ越しの物語があるのよ。

 

 表の神道では君が代の千代と八千代は明かされないけれども、裏の神道に当てはめれば一目瞭然なの。神様が六日目のお仕事を終えて過ぎ越された七日目の千年が千代で、八日目が八千代でしょ。

 

 使徒ヨハネは黙示録で千年の大宴会と示しているけれども、この大宴会は大御神とその子羊の成婚の大宴会なの。明けの翌日は晴れて八千代の夫婦の暁でしょ。これが千代に八千代の君が代の心なの。

 

 イエスは「羊は羊飼いの声を聞き分ける」と言っているでしょ。羊飼いの声を聞き分けるには裏事情通になれなければ聞き分けられないでしょ。それがイスラエルのカバラであり、瑜伽タントラであり、虚空蔵求聞持の密教であり、大御神の倒語(さかしまごと)なの。神仏に国境などありはしないでしょ。

 

 神様は人のことは髪の毛一筋に至るまでよくご存じだから聞き分けた羊にはそれと同時に助け手が送られて来るわよ。「信じる者には助け手を送る」という大御神の真言の通りにね。

 

 この助け手が送られてくると、はっきりと、有無を言わさず、そう悟らされるわよ。神様の御言葉にもそのお働きにも仕損じなどありえないのだと悟るの。だから神変と感じざるを得ないの。そのようにしてイスラエルの過ぎ越し、すなわち大御神の過ぎ越しである大祓を受けることができるの。

 

 それを受けてしまったうえで、聖書や古事記を読み直すとなるほどそういうことだったのねとすんなりと理解でき、まだこれからの人が理解しやすいように文章として書き記せるようになってしまうのよ。それがこのブログなの。

 

 そうしてブログ記事を書いているとそれが完全に自分のものとなり、さらに聖典に書かれていないような裏事情を知らされてしまうという摩訶不思議な世界に身を置かれるのよ。使徒ヨハネはそのような人をもうこの世の人ではないと言っていたはずよ。

 

 イエスは「父と私はひとつである」と言ったでしょ。これは梵天である父とひとつということで、お釈迦さまが伝えた「梵我一如」ということなの。空境涅槃の梵我一如の世界に遊ぶからこの世の人ではなくされるの。

 

 古事記では岩戸開きの際に天宇受売命が天照大御神に、「あなた様より尊い神様がいます故、喜び笑らき、遊んでいるのです」と語っているでしょ。表の神道は理解しなくても裏事情に精通している羊たちはみな尊い神様と梵我一如で遊んでいるのよ。

 

 これで今年の大祓はすべて済んでしまったから、来年からはオカルト阿修羅は放っておいて、そのような世界の遊びのことを書ければいいわね。

 

 生まれて半年間の幼いブログなのだけれども、読みに来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。

 

 来年が皆さまにとってより良き一年となることをお祈りいたします。

 

 どうぞよいお歳をお迎えください。そして来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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関東のお伊勢様 伊勢山皇大神宮

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横須賀市 走水神社

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横浜市金沢区 瀬戸神社の茅の輪


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創世記

第2章

1天地万物は完成された。 2第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 3この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

 

古事記

次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神

 

おかげ参りの瞑想

ついに七日目を迎えたの。この日は万物の完成された日。この七日間にすべてが含まれているの。過去、現在、未来、人間にとっての前世と来生まですべて包含しているわよ。神様のお仕事だから当たり前でしょ。そして七日目の安息の日なの。

 

古事記では夫婦神の最中心二神がお生まれになっているの。万物の完成からさらに一日目が始まるのよ。そして七七七七七七・・・・・と神様の安息日が繰り返されてゆくの。そのことはこの伊弉諾尊と伊弉冉尊から始まる夫婦神の物語において、大御神の大祓を暗示しながら、古事記において倒語(さかしまごと)ですべて語られているの。

 

須佐之男命と天照大御神、倭建命と弟橘姫の物語がクライマックスと言えるはずよ。私はその辺から読み込んでいったからね。このブログに全部書いておいたわよ。

 

この神世七代で見過ごしてはいけないのが、一人神二柱の二代と、夫婦神五組の五代なの。これはねイエスの言った、二匹の魚と五つのパンなの。合わせると十二柱でしょ。ここに創造の七日間とイスラエルの神の僕十二柱の関係性が示され、しかもそれを示したのが大御神の五千年目のことだったということなの。

 

満腹したのは五千人の男たちだったでしょ。それが飲み込めれば、別の時に七つのパンで四千人が満腹したのは何の暗喩なのかも飲み込めるはずなの。大御神の時が五千年目ならば四千年目に大きなお働きをしたのは仏陀釈迦牟尼しかいないでしょうに。

 

それがこの国における神仏なの。そのようにこの国は完成されているの。完成されていないのは悟らない男女なの。六日目までに悟らないと安息の七日目はやってこないわよ。オカルトの詐欺にだまされていると七殺の反安息日となるの。

 

ペトロの手紙二 3:8 (新共同訳)

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。

七日 (2)



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 今年の六月にお伊勢様におかげ参りした時に、最初に寄った二見興玉神社で茅の輪くぐりしてそれが今年の夏越の祓になっていたの。でもね、神宮のおかげ参りにばかり意識が集中していたから夏越の祓はあまり気にしていなかったの。

 

しかしこのブログ書き進めるうちに今年の年越しの祓を意識しだし、そして気が付いたのが、神宮参拝自体が夏越の祓で、このブログは七月から年越しの祓のために書かされているわ。一年の大祓、大御神の大祓のために書かされているじゃないのということなの。まるで想定外だったの。

 

しかも記事を書いていく中で虚空蔵求聞持法とか知らされ、それにより細部がより鮮明に映し出されるのでその都度記事にしてきたの。昨日知らなかったことを、昨日書いた記事で、今日知らされみたいなことの数珠繋ぎになってきているのよ。それで今日はブログを書き始める前から知っていたことと、書き始めてから知らされたこと、そして今日新たに知らされたことをまとめて大祓の意味で書いておくことにするわ。

 

年越しの祓は十二月三十一日として知られているけれども私は夏越の祓と同じく晦日、三十日までじゃないといけないと思っているの。大晦日の一夜飾りは良くないとされているでしょ。この意味神道でもきちんと説明してくれないでしょ。

 

それはねこの日が神様の七日目の安息日に対応しているからなの。このブログのお馴染みさんはもう飲み込めているはずと思うのよ。聖書とリンクさせて読まないと古事記も神道も読み解けない倒語(さかしまごと)により組み立てられているの。それがイスラエルのカバラだったでしょ。

 

それは虚空蔵菩薩の求聞持法と言い換えることもできるの。それによって今日知らされたのは、幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)の連関なの。大御神の一年の大祓は六か月ごとのお祓いに凝縮され、さらに七五三で示されるように七日目を迎えるための六日間のお祓いに凝縮されているでしょ。

 

大御神は幽世(かくりよ)にお隠れになっているの。その幽世(かくりよ)から顕世(うつしよ)に大祓が映され、凝縮あるいは拡散しながら顕されているの。これ瞑想しながら飲み込む必要があるかも知れないわね。

 

この幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)の連関において現代のこの世に示されている結構な大事があるのよ。クリスマスの木が何の木かは少し前の記事で書いたでしょ。近親相姦の母子が子を設け、その子が夫の復活であり、母がその復活の子を抱くのが聖母像だというお話。クリスマスやお誕生日のプレゼントもそこから始まったオカルトのお祭りということだったでしょ。

 

完全に聖書に敵対しながら、聖書のお祭りと強弁するオカルトだったでしょ。それはイエスの言ったパリサイ人のパン種と偽預言者という一言で説明がつくでしょ。それを悟っている古事記ではイエスすなわち天照大御神を一言主の神と呼ぶの。聖書の中にはパリサイ人から預言者になった人までいる始末でしょ。

 

そのオカルトの木すなわち死の木の正体が徐々にこの大御神の国で顕にされ、年末の七日間のクリスマスの木とお正月を迎えるためのお榊や門松が、実は古事記の岩戸開きの時の根付きの真榊という物の正体が明らかにされた姿だと書いておいたでしょ。

 

そのこと自体が大御神の大祓を映し、現代の日本に顕されているということでしょ。ここに幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)の一つの連関を見ることができるの。ところが顕世(うつしよ)はこの国だけでなりたっているわけではないわよね。よく目を凝らしてみれば、オカルトに対する大御神の大祓が世界規模で特大スクリーンに大写しに映されているの。それがくっきりはっきり見えてしまうのよ。

 

いくわよ。

 

昭和の時に原爆二発で大敗北を喫し死んだかと思われたこの国が、同じ昭和の時に高度経済成長で世界第二位の経済大国にまでなり復活してしまったでしょ。これは大御神の死と復活を顕しているの。そして気が付くとちょうど同じその時期に聖書の国と強弁する国が復活しているでしょ。

 

大昔には大御神すなわちイエスが復活して天に上ったその直後、復活したイエスに直会していないパリサイ人が預言者であると強弁したでしょ。その教義により成り立った宗教があの母親の、夫の復活であるとする聖母子像につながったでしょ。

 

この二つの強弁勢力がユダヤ・キリスト教文明として現代社会で強力な覇権を維持しているのよ。そしてその強弁聖書の国が復活したらその地域は火薬庫と呼ばれるようになってしまったでしょ。中東の火薬庫の国と極東の大祓の国が園の中央の二本の木のようにどちらも復活して顕されているでしょ。

 

しかもそのユダヤ・キリスト教文明の雄がまるでポン引きと娼婦のように手を組み大祓の国に核の傘をさしかけてくれているでしょ。

 

そのような文明開化の毒を食わされた日本人の中には「永遠の嘘をついてくれ、永遠に種明かしをしないでくれ」と言いながら「町の教会で結婚しようよ」などと歌う人も出てくる始末でしょ。これ御本人には気の毒だけれども日本人にとってわかりやすいので、ここのところよく使わせていただいているの。

 

なぜ「永遠の嘘をついてくれ、永遠に種明かしをしないでくれ」と歌うかわかる?種明かしをされてしまったら商売あがったりだからなの。この人達の言う「君よ」とはその商売の許可印をくれる君なの。だからこの印が無ければ売り買いできないのよ。だから種明かしをしてその印を取り上げないでくれと歌っているのよ。だまし続けてほしいのよ。使徒ヨハネはその印のことを読者は悟れと促していたでしょ。

 強弁国のことについては以前私がまだ迂闊だったころ、実名でブログに記事書いたことがあったの。即日削除されていたわよ。プロバイダーさんも売り買い印取り上げられ商売できなくされたら困るのよね。だから種明かしはしてはいけないの。これだけたとえを用いて回りくどく書いておけば多分大丈夫なの。

 

とここまでは既にこのブログでも書いてきたことだからお馴染みの読者さんには目新しいことではないはずなの。ここから今日の本題に入っていくの。ここまでは前振りなの。なんとなく幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)の仕組みは掴めたかしら。この記事ではあまり深く触れないけれども、現皇室の納采の儀が滞っているなどということは、かなりゆゆしき事態だと感じるでしょ。仕組みの要の部分に生まれているからね、皇室の人たちは。

 

さて本題。なぜイエスの十字架の時にそこにパリサイ人のパン種と偽預言者の死の木が生えてこなければいけなかったの?なぜ大御神の大祓で瑞穂の国が復活し神様の約束が成就した時に、頭に致命傷を受けた獣の国が復活してこなければならなかったの?キリストを悟らないオカルト国なのにという問題。

 

そこに神様のお植えになられた二本の木、すなわち日本の木である根付きの真榊の奥に隠された神様の玄理があるの。この玄理は幽世(かくりよ)から顕世(うつしよ)に映されているの。だから瑜伽タントラの求聞持法で第三の眼を開かれると見えてしまうの。イエスから目薬を買ってしまったとも言えるのよ。

 

再度、いくわよ。

 

イエスはね十字架上の一度の死と復活で全人類を贖ったでしょ。ということは、神様は全人類をイエスの犠牲により買い戻そうとされたということでしょ。だから一度は娼館の主に盗られ死ぬけれども将来全員復活するの。しかしねこの世で娼館を気にいってしまい、神様に買い戻されることを望まない人たちの右の手か額にはあのオカルト印が付けられているでしょ。その人たちはそのオカルト印をつけたまま復活するのよ。

 

これを別のたとえで言うと、この世で悔い改め菩薩とされた人達は賜わった衣装で正装して神様の前に出るのだけれども、阿修羅たちはどんな格好でご神前に出るつもりなの?まさか六百六十六の年末商戦のサンタクロースの格好で出るつもりではないでしょうね。ということなの。

 

その違いを使徒ヨハネは一度目の復活と二度目の復活として識別しているでしょ。その復活の違いにより二度目の死がある事もね。お釈迦さまも菩薩は一本目の矢を受けても二本目の矢は受けないと言ったでしょ。これもう何度も書いているわよね。

 

そのような神様の幽世(かくりよ)における御計画の玄理が大御神の大祓に伴う復活と不即不離の、強弁オカルト阿修羅のしつこい復活としてこの世に展開し顕されてきたの。いずれ切り倒されるための斧が根元に置かれているのだけれども、この世にあるうちに悔い改めることができればまだ間に合うという大御神の御慈悲の顕れでしょ。

 

それが現代の世界情勢にも如実に顕されているでしょ。見えてしまうと相当極まっているように見えるのよね。皇室の納采の儀もそうだけれども、この年末になって大晦日の除夜の鐘の音を嫌う人たちの苦情で中止するお寺のことが報道されているでしょ。去年まであったのかしら?

 

この除夜の鐘はね七日目の終わりと八日目の曙を告げる時の鐘でしょ。お屠蘇の神様の屠りと蘇りを告げる時の鐘なの。屠られる阿修羅たちが聞いたとしたら嫌って当たり前なのよ。それはそれで優れた直観力でしょ。幽世(かくりよ)と顕世(うつしよ)が近接しだしたということかしら。

 

そのような視点を獲得して自分の日常茶飯を見つめると、見えていなかったことが見えるようになり、最終的にはなぜ生まれて来たのかまではっきり顕されている事に気が付けるはずなのよね。

 

大晦日の一夜飾りはだめよ。大祓とお正月のお飾りは今日中に。そして皆様よいお年をお迎えください。今年最後の御挨拶は多分また明日書く記事でね。明日何書くのかしら?大晦日の安息日だし。何か書くと思うのだけれど予測不能なの。

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創世記

1

  24神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 25神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。 26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 31神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

 

古事記

次に淤母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神

 

おかげ参りの瞑想

 終に第六の日。この日に神様はすべての命あるものを造り終えられたの。神様のお仕事のの最後の日なの。この神様のお仕事は天地の創世でしょ。それが六日間っていったい何の暗喩なの?いったい何のカバラなの?と、思考を停止させずに、信仰を張り巡らして悟ろうとしないとこの日で終わってしまうの。この日が最後のチャンス。

 

神様は信仰に対してしか悟りを賜らないからこの日までに神様のお仕事の意味を悟らないと一巻の終わりなの。古事記ではひたすら男神と女神がお生まれになるだけなの。でもこの最後の日に男女が神様に似せ創造されたというのが最大のネックなのよね。

 

お釈迦さまは六日目の意味悟っていたわよ。だから五六七で示したの。五六七の三日で死と復活がなされると。これはお釈迦様から見たら未来のことだったのだけれど、私たちから見たら過去のことでしょ。しかし私たちの命にとって将来起こることも暗示しているのよ。しかも前世、現世、来世の三日も示しているわよ。そのことを虚空蔵の求聞持法で六日目までに悟るのが男女に課された召使いとしてのお勤めなの。それがこの国の大御神の大祓の日なの。一年の大祓と六日間の大祓が重なっているのが十二月三十日という日なの。


第六日


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