天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

カテゴリ: キリスト・イエス

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全く知らなかったのだけれどもインドボダイジュとはクワ科のイチジク属の植物の一種らしいのよ。お釈迦様はいちじく属の木の下で悟りを開いていたのよ。

 

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マタイによる福音書 21

18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 

19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

 

ヨハネによる福音書 1

47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 

49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 

51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

御子イエスはお釈迦様がいちじく属の木の下で悟りを開いたことは御存知だったはずなの。ヒンドゥーの聖典にあるビシュヌがご自分の事で、お釈迦様が預言した弥勒菩薩がその化身だとはっきり知っていたはずなのよ。

 

何しろ天の御父と梵我一如の神様だったのだから当然なのよ。イエスの御業により、いちじくの木の下で悟られたことより偉大なことを見せられるという御言葉なのよ。私は仏陀の足跡よりも偉大な龍宮の足跡を見せられているの。その様に瞑想するのよね。

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単純に考えればいいのよ。この世に来て惑わされ、生贄として屠られかけている羊を救うために神の子羊が遣わされ、身代わりの贖いという対価により、神により買い戻されたのよ。

 

その贖いを信じずに反キリストとなれば買い戻され得ないでしょ。そのような信仰は神に依り求め、目を開かれることでしか得られないのよ。

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マタイによる福音書 1

1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 

2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 

3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。

 

単なる心霊体験と神秘体験の見分け方が示されているの。その違いをはっきりと認識するから偽預言者が識別されるのよ。本物の神秘体験は生命御守護の福音の原則によってしかもたらされないのよ。イエスの御名により創造主から聖霊を送られなければ何も始まらないのよ。

 

霊的なことに関心を持つと初めは心霊体験と神秘体験の区別がつかないから戸惑うのよ。その段階で宇宙や神と繋がったと惑わされる輩が唆しの罠にはめられ偽預言者の一丁上がりとなるのよ。

 

イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていないのよ。それがイエスの使徒の御言葉なの。霊的な事柄に関して語りながらイエスのことを公に言い表さない霊があやかしなのよ。

 

イエスのことについて語りながらも、その説教が福音の原則によりなされているかどうかも重要な視点なのよ。その視点は単なる心霊体験と、福音の原則による神秘体験とを、はっきりと自身の体験により見極めることでしか得られないのよ。

 

私の経験によれば心霊体験と神秘体験の同時発生なども起こりうるのよ。そのようなところでも生命御守護のための神様のふるい分けが行われているのよ。

 

イエスのことを公に言い表そうとしないスピリチュアルが横行しているでしょ。唆された裏切者が反キリストの霊として神により屠られる生贄となるのよ。生贄が多いほどお祭りが盛大に盛り上がるの。そのお祭りに出仕するための祭司が神様のふるいにより募られているの。そう冥想するのよね。


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大相撲の土俵に女性は上がってはいけないことになっているでしょ。これは女性だけに対する戒めではなく、高天原の神様に対する人の思い上がりに対する戒めなのよ。

 

男と女には高天原の神様と人の序列の影が落とされているの。土俵の上の屋根には五本の鰹木と一組の千木が配置されているでしょ。神宮の御屋根には十本の鰹木と一組の千木が配置されているのよ。どちらも御子イエスの御言葉の、二匹の魚と五つのパンの寓意で、神代七代のお祭りであることを示しているのよ。

 

高天原での誓約において四股を踏み、清めの塩をまき散らされたのは天照大御神なのよ。その所作が古事記にはっきりと記述されているのに、現代に至るまでまるで理解されていないことが不思議なくらいなのよ。龍宮における盲点となっているのよ。

 その様だから男女同権思想などというものは、神と人との序列を思わないだけではなく、創造主と救世主の序列をもまるで視野に入れようとしない、人間の思い上がりもいい所なのよ。

 

お釈迦様はそれが視野にあったから女性の出家をお許しにならなかったの。女性は変性男子として生まれなければ解脱できないとし、同じ土俵に昇ることを禁止されたのよ。その様に瞑想するのよね。

 

龍宮でその変性男子として生まれたのが邪馬台国の卑弥呼だったのよ。弥勒菩薩である天照大御神のみならず卑弥呼の出現まで預言されていたのよ。その卑弥呼が百襲媛であったならば古事記の神観における二人のハツクニシラススメラミコトの一人は、変性男子としての卑弥呼だったのよ。

 

伊弉諾尊の禊に関することは世界史としてすべて示されているのよ。お釈迦様の梵天灌頂もその内なのよ。そうであるならばもう一人のハツクニシラススメラミコトは卑弥呼より古い時代の秦の始皇帝に派遣された徐福で、それが物部氏の祖である饒速日命なのよ。この饒速日命と卑弥呼が物部神道において天照大御神と月読命としてお祀りされていたの。

 

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お釈迦様の預言は弟子たちにまるで理解されなかったけれども、御子イエスの使徒たちによりすべて掌握されていたのよ。御子イエスの復活のなせる業だったの。それが秦氏の巴蛇神道で、物部神道を上書きして、神武天皇と崇神天皇という二人のハツクニシラススメラミコトの御代から、応神天皇の御代に至ったのよ。それが国譲りの真相と瞑想するのよね。

 

その様な神道において人の思い上がりははっきりと戒められているのよ。素戔嗚尊と天照大御神の誓約にお答えし、伊弉諾尊による禊をお受けしないでは高天原のお祭りに出仕できるものではないと。


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聖書には御子の御言葉で、聖霊に逆らう者はこの世においてもあの世においでも赦されることはないと書かれているでしょ。それとは裏腹に御子の御言葉が全てを丸く収めてしまうのよ。この世のこともあの世のこともすべて丸く収まってしまうのよ。

 

それが生命御守護の八握剣なの。六道の悪趣から七越しの涅槃へと渡す八握剣なのよ。それが御子の御言葉なの。見たわけでもないのに見たのと同じく信じる人が、助け手を送られ、その神剣を賜わってしまうのよ。だから誰でもがお受けする素戔嗚尊の十握剣が振るわれた時に、体内からその神剣が草薙剣として取り出され、天照大御神に献上されるの。それが十死越の大祓なのよ。

 

その剣を賜わっていなければ退治されて終わってしまうでしょ。それを防ぐのが生命御守護の十種神宝なの。その様だから御言葉によりその剣を御神宝として受けると、目に見えなくともその霊験によりはっきりと知らされるのよ。七越の涅槃に渡されるから、魔訶般若波羅蜜多や三巻の蛇神様が意識されて当然なのよ。

 

御子は三日目に復活されているでしょ。人の五日目に来て七日目に再降臨する弥勒菩薩と預言されていたのよ。神様の十日目に来て十二日目に再降臨すると預言されていたの。だからその時にイスラエルの十支族と二支族を含む十二支族が回復されるのよ。すべて聖書の預言の通りなのよ。

 

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本当にご先祖供養をしたいと思うのであれば、その時にその場所にいれば、それですべてが丸く収まってしまうと思うのよね。人がこの世に来て解脱したとすればそれはご先祖様の蒔いた種でしょ。良い実を生らせない木の根元には斧が置かれている、というのが聖書の約束事なの。しかし蒔いた種は必ず刈り取ることになるのよ。

 

解脱者に返報があるとすればそのご先祖様にも当然返報があるはずと瞑想するのよね。婚宴には本人とその親族も招かれるでしょ。天照大御神はお慈悲の神様なのよ。イスラエルが回復された時には、そこに144000人いると書かれているのよ。その他にイスラエル以外の大群衆がその場にいると書かれているの。解脱者のアダムとイブ以来のご先祖がすべて招かれれば大群衆になるはずよね。

 

聖書と古事記と龍宮のお祭りを通してそう冥想するのよね。

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神様が影を落とす753の数霊と共に降ってきたインスピレーションで一つ前の記事を書いたら、本当に怖いものがなくなってしまったみたいなの。退治される鬼は存分に葬式仏教で退治されればいいのよと平気で書けてしまうのよ。

 

お地蔵様に対する畏敬の念は忘れていないわよ。それでも日本人にとっての最後の大祓は神葬祭でなければならないのよ。夏越の大祓に相当する、影武者天照大御神の大祓をお受けしなければ、そのことは王であろうが祭司であろうが気が付けないのよ。

 

その為にはお地蔵様の魔訶般若波羅蜜多の教えを飲み込めなければ無理なのよ。それを飲み込めるようになって初めて、影武者天照大御神として影を落とす、御本尊の御言葉を飲み込めるようになるのよ。それが聖書の御子の御言葉なのよ。

 

その御言葉により肇まった大和において、その御子の皇太子としての婚宴と、天皇としての即位の儀をお祝いする言祝ぎが、君が代として謳われて来ていたの。

 

何故、私のもっと若い時代に誰か他の人がそのことを教えてくれなかったの?というほどのことなのよ。しかしそのことを七五三の神様が数霊でその影を落とし、教えてくださったのだから、今が私にとってのそのタイミングだったという事なのよね。

 

このブログ七五三の神様が影を落とす、本物のスピリチャル系のブログとして成長しているでしょ。今月は夏越の大祓の月よ。

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今日は暦上の天赦日と一粒萬倍日が重なる最高に縁起の良い日らしいの。六月十五夜なのよ。満月ではないけどね。その様な日にどこまで書いていいのと戸惑っているの。しかし読みに来る人は縁があって来ているのだからすべて書けと神様が背中を押されるのよ。だから書くの。

 

この日の丸龍宮が鬼ヶ島の失楽園でもあるのよ。地球という龍宮星の奥宮なのよ。その失楽園にケルビムと煌めく炎の剣が置かれ命の木への道を守らせられているのよ。だから有無を言わさずに神道のお祭りが続いてきたの。

 そこに命の木への道の入り口があるということは、傍らにもう片方の木への入り口もぽっかりと口を開けているという事なのよ。その入り口が鬼退治の風穴なのよ。

 

マタイによる福音書 7

13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 

14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 

風穴の方が、間口が広くその内部も広々としていて、そこから入る人の方が多いと御言葉されているのよ。命の木への道を守らせられている日の丸龍宮においても、その道を見出す人の方が少ないと御言葉されているの。

 

この世に来た人は何を差し置いても、まず全身全霊の注意力を注ぎその狭き門を見出さないと、鬼退治により滅びると御言葉されているのよ。それが大御神の御言葉なの。分かり易すぎて怖くなるでしょ。私などは気が付いた時にはお地蔵さまに背中を押され、目を白黒させながら狭い方の門を通されてしまっていたの。

 

すべては世界中に知られている天照大御神の言霊による恩頼なのよ。その様だから通されてしまうとそれが大御神による霊験だと有無を言わせずにはっきりと知らされるのよ。それが天神の子である饒速日命が賜った生命御守護の十種神宝だと。その霊験により書かれているのが古事記なの。だから神代を記述できるのよ。

 

そのようにして知らされたことを初めからこのブログに書いているの。そして書けば書くほど次を知らされてしまうのよ。多分、狭い門から入る人の数がまだまだ足りていないからなのよ。

 

その数が定員に達してしまったら何が起こるかは、ヨハネが黙示録に書いているのよ。そう冥想するのよね。

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解脱とかの記事をブログで書いている私っていったい何者なのという思いが初めからあったのよ。しかし聖書の御子の御言葉に従っているうちにある日自然にインスピレーションが降ってきてそれをクリアしないと先に進めないと直感してしまったの。

 

解脱と言えばお釈迦さまでそれは瞑想によったでしょ。だから以降瞑想に取り組んだのよ。そうしたら扉がパパタパタと開いてしまい気が付いたら関所越えしてしまっていたのよ。それは覚醒の嵐の連続で気が付いた時は白髪のお爺さんになっていたという感覚なの。

 

それで関所越えをさせて頂いたおかげ参りに皇大神宮に参拝したら最後に倭姫命から風によるご挨拶を受けてしまいそれでさらなる覚醒、参拝直後は二か月間ほど何も手につかずただひたすらブログに大御神のことをつづることしかできない毎日だったの。私っていったい何者だからこんな記事書いているのと思いながらね。一般読者の人が読んだらどう思われるのかしらとかね。

 

しかし直感を霊感として受けてしまって、確信しているからにはどうしてもそれを書かずにいられないという思いで書かされていたのよ。そして記事を重ねるごとに新たな扉がパタパタと開けさらに覚醒させられながら今日にいたるのよ。

 

今年に入ってふとしたことから自分の両手の親指に仏眼というかなりレアな手相がある事に気が付いたのよ。それは手相占いの世界では鋭い直感や霊感の持ち主で、第三の眼が開いている人もあるなどという鑑定が一般的にされている手相なの。だいぶ以前に四柱推命で手相を見た時には左の五本の手指の指紋のパターンが高僧に多いパターンだなどということもあったの。だからなのかしら、宗教家などになる気はさらさらなかったけれども聖書に対する関心だけは日増しに強くなるというタイプだったのよ。

 

そしてとうとう今月に入って意識しだしたのがクンダリニー覚醒でしょ。命の木にチャクラが配されているのは以前からわかっていたから瞑想時にはチャクラの瞑想をしていたのよ。しかしいくら何でもクンダリニー覚醒は目指そうと思わなかったのよ。昔軽い気持ちで瞑想による覚醒を覚えてしまい危ない目に遭ったことがあったからということもあるのよ。

 

そんな事もあったから頭頂のチャクラと眉間のチャクラだけは覚醒していてその部位は常に意識できる状態にあったけれども、クンダリニー覚醒は死後のために使われるエネルギーでこの世的な感覚でいたずらに覚醒させない方がいいのではという思いを抱いていたの。

 

しかしね、どうやらそれを視野に入れなければならないようなのよ。解脱のみならずクンダリニー覚醒までなのよ。現代のスピリチャルや顕教や密教の世界では解脱したと言ってはいけないらしいのよ。それを言ってしまうと慢心に走り修行が止まってしまうからという理由らしいのよね。

 

しかし私はしたらしたと言わなければいけないと思うのよ。そのように宣言するからその先の修行が始まると思うの。解脱やクンダリニー覚醒はしたらしたと言わなければいけないのよ。何故私のような後から気が付いて冥想したような半端な求道者がそのようなことを唱えるのかという事を考えさせられて気が付いたことがあるの。

 

そのハードルは越えても越えたと言ってはいけないと言われているほど高いものでしょ。確かにそのハードルは古代からやたらと高かったのは事実なのよ。それでインドでは肉体修行のヨーガによる体位や呼吸法が編み出されてきたわけでしょ。それは厳しい修行で覚醒を試みようとして失敗したら再起不能とか死の危険を伴うものなのよ。

 

お釈迦様はそれに挑戦した挙句、苦行では悟れないと捨ててしまい瞑想により覚醒し解脱したでしょ。ご自分が解脱したことははっきりと示しそのことにより法輪を回したわけなのよ。この時に一段ハードルが下げられたのよ。苦行ではなしに瞑想で悟れると。

 

しかしお釈迦さまはその感受性により未来仏の降臨まで悟ってしまうほどの超人だから常人が瞑想の真似事をしてもなかなか解脱できるものではなかったのよ。しかしその教えは吾人にとって極めて重要なものだったわけでしょ。

 

そうこうするうちにお釈迦様の預言していた未来仏が降臨し、そのハードルを吾人でも越えやすいところまで一気に下げてしまったのよ。それが弥勒菩薩であり、マイトレーヤであり、メシアでありキリストと言われる救世主の渾身の御働きだったの。出家による瞑想などしなくても家にいながら聖書に書かれているその御子の御言葉を、その肉を食べ血を飲むように味わい、その死と復活を見たわけでもないのに見たかのように信じることにより御言葉のままに御霊を送られ下げられたハードルを越えさせられてしまうのよ。

 

使徒言行録 2

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 

2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 

4 すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

この時に御霊を受けた人達は復活したイエスをその目で見て、その御言葉に従っていた人たちなのよ。目で見たからには信じざるを得ないでしょ。いやでも覚醒させられるでしょ。苦行や冥想によるなどとは聖書には一言も書かれていないのよ。一人一人の上にとどまった炎のような舌とは蛇神様の火なのよ。覚醒により開いた蓮の花なの。御霊を送られクンダリニーの覚醒をしてしまったのよ。

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 聖書に書かれている御言葉とその死と復活を信じれば、御子により御霊が送られるまでにそのハードルは下げられているの。二千年近く前にね。しかし現代にいたるまでスピリチャルや密教や顕教の世界では五十六億七千万年後に降る弥勒菩薩を待ち続け、転生輪廻という迷信が蔓延り、教師たちが解脱せずメシアが低めたハードルを高くしながらその地位に安住し吾人が越えることを妨げているのよ。まるで御子に敵対したパリサイ人の様でしょ。その子孫も今に至るまで同じことをしているでしょ。そういう事なのよ。

 

使徒ヨハネが、顕教の転生輪廻という誤謬を暴き、一度目の死と最初の復活と二度目の死による裁きという密教を黙示録において明かにしてしまったのよ。そして御子の御真影をヨハネと同じく仰ぎ解脱して御霊により覚醒した使徒たちが、その後高い所からの力を受け、身を隠しながら御子を大御神としてこの国でお祀りし続けて来たの。

 

だから吾人でも御子を信じ古事記と聖書を合わせ読むと、御子が低めてくださったハードルをひょいと超えてしまうことができるようになったのよ。そして解脱により蛇神様のクンダリニー覚醒をしてしまったとはっきり自覚することにより、修行の新たな局面の展開に至るのよ。そう自覚した神領民の、入内のための修業の段階に入っていくの。そう冥想するのよね。

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あまり人は死について考えたり普段の生活で語ったりしないものでしょ。そのような話題を持ち出すと目くじら立てて忌避されるのが普通なのよ。しかし私に言わせるとこの問題は普通に言っても考えておかないといけない問題のはずなのよ。

 

それは私が若いうちから聖書を読んでいたことが影響していると思うのだけれども、普通に生きていたのでは人は天国には行けそうもないなという直感が早くから働いていたからなの。天国や地獄って行って帰った人の話をきいたことがないのだけれども、御子イエスは天国のことをはっきりと語っているでしょ。

 

それでも人は想像するしかないのだけれども、この世の生活にも報酬系と罰系の時間があるでしょ。楽しく好ましい時間である報酬系と、つらく苦しく好ましくないのだけれども報酬にありつくために我慢しながら過ごす罰系の時間があるでしょ。

 

私の想像では天国というところは報酬系の時間が永遠に続く場所で地獄とはその逆に罰系の時間が永遠に続くところなのよ。私はつらく好ましくない時の中で永遠に過ごさなければならないような場所には金輪際近づきたくないの。楽していきたいタイプなのよ。

 

それでも死後の世界があるのかないのかという事は科学で証明できないし、御子の御言葉があったとしても、はっきり言ってふたを開けて見なければ判らないことなのよ。私のような人間は科学者の言うことより聖書の預言や御言葉の方を信用するタイプだし、心霊体験など実際にさせられているので死後の世界がないわけがないとする確信に至っているけれどもね。

 

もしそうでなかったとしても死については考えておかなければいけない理由があるのよ。生きている以上は考えたくなくてもいつかはその谷を超える時が来るでしょ。死後の世界があるとの確証がなかったとしても、人にとって死後という時間は必ず来るのよ。家族の死に直面すればだれもが見ている光景でしょ。

 

その時に死後の世界というものがなく、それですべてが終わりであれば何の問題もないのよ。問題なのは死後の世界があって生前より好ましくない状態に置かれることなの。悪いことを考えずに普通に生きていればそれだけで生前より好ましい状態に置かれるのであればそれも問題ないわよね。しかし神様の世界はそれほど甘くはないわよ。メシアである御子は慈悲の神様で、お釈迦様の説法もお慈悲による獅子吼だったのよ。しかし三柱の神様の内の一柱は峻厳をもって鳴らす神様だからね。侮ると怖いわよ。

 

それはさておき当初私の考えたのは死後の世界があり好ましくない状態に置かれるリスクは絶対に回避しなければならないという事だったの。そのように突き詰めて考えれば話は結果に付随するリスクを回避するための安全性の確保という問題になってくるのよ。

 

死について考えるのを忌避するということはそのようなリスク管理を放棄しながら生きるという事なのよ。そしてそれが世間一般の普通の生き方なのよ。私の目には神仏の啓示によりそのようなことに対する警鐘が古代から乱打されているにもかかわらず、油断しながらグレーゾーンで遊び惚けている人ばかりの世としか映らないの。

 

そのようなことを思うといつも1999年の夏の玄倉川の映像が思い起こされるのよ。神仏による彼岸への避難勧告を無視していながら、そのような因果で助かるものではないと瞑想するのよね。

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仏教の先生の動画をユーチューブで一本だけ見たのよ。普段はあまり見ないのだけれどももう書きたいことはほとんど書いてしまってネタ切れ気味なので退屈しのぎに見てみたの。それは動画を配信するほどの先生だからそつなくまとめているのよ。まともな人ほど孤独になるのはなぜかというテーマなのよね。

 

クラスで起きるいじめには強い先導者がいてその先導者の嫌うターゲットが周りの同調者による忖度によりいじめを受け、それに異を唱える勇気のある人はなかなかいないということから始まり、この国の政治状況に話が移り、首相とそれを忖度する大臣や官僚のネットワークにも同じことが言え、忖度せずに異を唱えると出世できないという事につながり、この国の政治状況もクラスのいじめと同程度の、低次元だけれども当たり前のことが起こっていると進展し、ビジネスの現場でも同じことが起こっていると説いておられたの。

 

さらにこの先生はディープステイトが支配するこの世界にまで話を広げ、その権力に忖度せずに異を唱えると命がないということにまで論を進め、すべてにおいて同調圧力に異を唱えることの出来る人はめったにいるものではないと説いておられるの。

 

ディープステイトの謀略が仏教の先生の口から出てくる時代になっているという事なのよ。そして同調圧力に屈せず異を唱える孤高の一人ぼっちのまともな人はめったにいるものではないということから、お釈迦様のことに話が移り、話は死を見つめるという方向に進展していくのよ。

 

この世の常識は死という暗いテーマを取り上げることを拒むけれども、その問題に直面し、命がけで真理を悟ったお釈迦さまが同道の修行仲間から誤解を受け見放されたことを話されているの。死について真理を悟ったその教えがお釈迦様の孤高の教えで、その道に学ぶまともな人は他人に忖度せずに孤独の道を歩くことになるという、孤独に対する肯定論なのよ。

 

ディープステイトの謀略まで視野に入れながら語るこの先生は世の中の裏まで見通せる見識の持ち主であり、そうでなければインターネット上で教師になり得ないというところまで時代が進んでいるという事が私にとっては新発見だったのよ。

 

そのように見たのだけれども私はその後に強いストレスを感じてしまうのよ。お釈迦様のお説きになったことを孤高の獅子吼としながらなぜ仏教の先生たちは解脱を説こうとしないのという事なのよ。

 

お釈迦様の獅子吼は彼岸に渡りおおせてしまったお釈迦様の手招きのはずでしょ。お釈迦様の獅子吼で解脱に至り、それが衆生の済度につながるのよ。ところが仏教の常識では解脱はお釈迦様にしか達成できない孤高の真理とされており、そのことに異を唱える僧侶は異端とみなされるような土壌が定着してしまっているように、外から見ている私の目には映るのよ。だからこの世における処世訓になってしまうのよ。

 

仏教僧はその獅子吼を何と心得ているのという話なのよ。彼岸から手招きするお釈迦様の教えを獅子吼と教えながら此岸にとどまったまま渡ろうとしない仏教者は、孤高を説きながらも此岸の同調圧力に屈しているというように見えてしまうの。

 

解脱できない上位者に忖度して自身もこの世を終える気なのかしら。そうであれば終わっているわねという話なのよ。仏教を説いている人の話を聴くと常にそのような印象にたどり着いてしまうのよ。

 

そして頭に浮かぶのが、人々にモーセの律法を説く律法学者たちが、説くだけで行おうとしないことに対して激しい糾弾を加えられた御子イエスのことなの。洗礼者ヨハネはパリサイの律法学者が洗礼を受けようとしてやって来た時に蝮の裔と罵倒しているし、御子は盲人のことをはっきり偽善者と呼んでいるでしょ。

 

説くだけで行おうとしないのが御子の警告されたパリサイ人のパン種なのよ。御子はお釈迦様が数百年前に解脱をお説きになられていたことは百も承知だったはずなの。パリサイ人のパン種を見切っていた御子であれば、当時すでに数百年経ていた仏教がどの様な状況であったかもはっきり御存知だったはずなのよ。

 インドでバラモンの聖典と仏説を学びそれをお説きになっていたという、聖イッサ伝という文書が発見されているからね。お釈迦さまが弥勒菩薩として降臨する御子のことを語った預言者であったとはっきりと認識していたのよ。

 

マタイによる福音書 16

 6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 

7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。

8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。

9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。 

10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。

11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 

12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 

五つのパンと二匹の魚を五千人が食べ、余ったパンくずが十二籠だったの。このことは二柱の一人神と五組の夫婦神十柱で合計十二柱の神代七代として古事記に暗示されているのよ。ユダヤの二支族と失われた十支族に起こることの複合預言になっているのよ。

 

別の時には七つのパンを四千人が食べ残りが七籠だったのよ。私は以前からこの二度のパンの奇跡で四千年紀と五千年紀が暗示されていると見ているの。四千年紀のお釈迦さまにより五千年紀に降臨される弥勒菩薩のことが預言されていたことの暗示との思いがますます強くなるのよ。

 

そこにパリサイ人のパン種である教えに対する警告の意味が含まれていて、仏教も同じ轍を踏んでいるとなるともうそのように確信してよいのではないかと思えてくるのよ。

 

解脱とは人の目に映らないから他人には見えないでしょ。でも自身が解脱しているかどうかの確認方法はあるわよ。瞑想しながら自分が死の谷を渡るときのことを思い浮かべ、そこで解脱、救済、モクシャ、洗礼、禊、涅槃、梵我一如などのキーワードと共に御霊により祝福されている気持ちが湧いてくるのであればその人はすでに解脱しているはずなのよ。自分のデスマスクを思い浮かべてどの様に感じるかという事なのよ。ビッパサナーとかマインドフル瞑想のお師匠さんたちはどうなのかしら。

 

御子や仏陀の手招きに応じ彼岸へ渡りおおせてしまい、そこで瞑想すると出てくるドーパミンの質は人の此岸で煩悩にまみれながらも出てくるドーパミンとは異質なのよ。空境の涅槃においては自我を捨ててすべてをお預けしそれに依存してしまっても、依存による弊害はないどころかそれが神仏からの救済につながるという理解なの。三柱の神様の三昧の世界なのよ。

ume-min阿吽



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