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 毎日朝起きると神様の世界のことを日一日と想起させられる。

昨日のブログで「神様の世界は男の慈悲の世界」という記事を書いた。

自分の思いを文章にしてつづり、書きあげてみると頭の中が整理され、

今まで見えていなかったことが見えてくる。

 

政治の世界における右派と左派とは一体何なのか、見えてしまった気がする。

保守と革新とはいったい何を意味しているのかだ。

何を保守し、何を革新するのかだ。

日本の保守の結束のシンボルのようになっているのが靖国神社だろう。

神道政治連盟などという組織もある。

それらを左派は大嫌いなはずだ。日の丸、君が代、皇室も然り。

 

一体この対立の争点は何なのかだ。

それは近代において、唯物史観と共産主義という思想があらわれたことが

根本にあるはずだ。

それをふまえて考えればこの日本においては神道なのか、唯物史観なのかという

思想、信仰の問題なのだ。

 

人間の抱える問題の根にあるのはやはりすべて思想であり、

この思想を形作る信仰という事が大きな問題を生むのだ。

そしてそれは有神論か無神論かに収斂されるはずだ。

 

そのようなことは今さら言わないでもすでに常識と思われるだろう。

しかしその先にある事について言うのだ。

一体どのような思想が両者の違いを生み出すのか。

 

それは主従の関係性なのだ。

昨日の「神様の世界は男の慈悲の世界」という記事の中で創造主と救世主の

主従という事を書いたが、これを左派の人たちは絶対に

受け入れられないのではないだろうか。

ましてやその創造主と救世主が天皇陛下と皇太子殿下に

顕されているのが神道だ、などという論は、絶対に

受け入れられないはずなのだ。それは単に私の言論なのではなく、

私の信仰なので論争など全くするつもりはない。

 

その上で思ったのは左派と右派の違いは主従の関係という事に対する
思想の違いなのではないかという事だ。
左派の思想というのはこの主従の関係という事に対する挑戦なのだ。

 

であるから男女同権の人権思想は絶対にゆずれないし、
極端なまでの平等思想なのだ。

天皇陛下の臣民だなどとは思ってもみないはずだ。

そして国歌斉唱と起立を拒むのである。

 

右派はこの主従という関係性の中にある美徳という事を見ているはずだ。

そしてその美徳とは日本という国の伝統にしっかり根ざしていると思う。

そう思う私は以前政治に興味を持ち始めた頃、その思想において

完全に右翼だったことがある。いきなり愛国心に目覚め靖国神社に

参拝したことなどもあった。

 

私がそのような愛国心に目覚めたのはキリスト・イエスによるのだが、

そのような思想遍歴とはとても不思議なことだと自身でも常々思っている。

 

それはさておき主従の関係性に対する感覚の違いが思想、信条、

信仰の違いを生み、それが右か左かの対立の争点なのだと考えた時、

ああ、なるほどと腑に落ちてしまったのだ。

 何が腑に落ちたのかというと、最近の自分が政治に対する興味を

全く失っていることがなるほどと思えたのだ。

それは今の私が完全に信仰の中にあり信仰しか見ていない

という事も大いに関係がある。

 

その信仰の枠の中で私に見えたことは、日本の保守派は見ていないだろうと思う。
とここまでを結論として書き始めた記事だったが、
書いているうちに新たな結論に結びついてしまった。

それを書いておこうと思う。

 

日本の保守派は皇室の臣下でありその主従の関係性の美徳を重んじ、

そのようにふるまっているが、実は同盟国の臣下なのだ。

現政権がその旗振り役なのだ。もっと言えばそのような旗を振らなければ

この国では政権を与えられないのだ。そのような主従の関係性を

保守派は完全に受け入れていたという事なのだ。

 

しかしそのことは日本の伝統を完全にぶち壊すことになると私は思う。

日本人は何が見えていないのか。それは主従の関係性における美徳である。

その美徳の文化をを文明開化により完全に失ったのだ。

 

なぜか。主従の関係性においては搾取するのが当たり前であるという
民族の文明を、文明開化として受け入れたからなのだ。

 

そして慈悲の施し合いによる主従の関係性という美徳により、
この国を有らしめた神仏に対する信仰を、完全に失ってしまったのだ。

 

聖書から、神の国イスラエルが信仰を失い異邦人の風習に染まった結果が、
どうであったか読み取れば、古事記をいただく神国日本の行方も危惧されざるを得ない。


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