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 神様の世界は完全に男の世界だ。

女人禁制だ。

男女同権では滅びる。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)は女神であるが、男神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
より先に言葉を発したので国生みは成らずやり直しをさせられた。

 

仏陀はそれを熟知していたはずだ。
瑜伽タントラという密教において知っていたはずなのだ。

だから女人禁制の比丘たちを率いていたが、
その比丘が比丘尼を受け入れるよう諫言した。
仏陀は独裁者としてふるまわず、無明の弟子の諫言を受け入れた。
そして法滅に至ると示した。
やり直しはきかず法滅に至ると見抜いていたのだ。
そして仏教は神の国で葬式仏教として法滅をさらしている。
(いささか毒舌効かせ過ぎか?でも本当のことだ) 

 

仏陀は梵天から灌頂を受けたが、その梵天界である神様の世界は
男の世界と知っていたのだ。
神道はそれをはっきり自覚している。その表れが神事である大相撲の土俵に
女人は上げてはならないというしきたりにはっきり見えている。
女人の力士など金輪際現れない。巷において力士として頭角を現す女子も
陽の目を見ることはないだろう。女子プロレスは有っても女大相撲は絶対にない。
なぜか。それは神様の世界が男の世界であり、そこを間違えると何も生まれず滅びる。
相撲は神事である。ヤコブに由来する神事なのだ。

 

聖書においてその事がカバラで示されている。

モーセの時にイスラエルの人口が数えられた時には戦に出ることのできる
成人男性しか数えられず、女性と子供は数えられなかった。

 

イエスがこの世に来て二度群衆に魚とパンを配り満腹にさせた時も
数えられたのは男の数だけなのだ。四千人も五千人も人がいて
女性と子供がその場にいなかったなどは考えられない。
しかし数えられたのは男の数だけだ。聖書を読めばそう書いてある。
そこに神様の世界は男の世界であるという事が暗にが示されているのだ。

 

この事を人はどう解釈すれば良いのか。

これは聖書や仏伝を私なりに解釈した時の私見であるとお断りしておく。

 

天地創造の神様は御父と御子という
男性神だからなのであり、御父である創造主が男の鏡であるからだ。
そこに聖霊という有り難くもあり、怖い神様も関わりを持っている。
この神様は時に虹として示され、神道では雷様、
ヒンズー教ではシバ神として知られている。

 

この御父と御子と聖霊という神様は三位一体という無明のキリスト教神学で
ローマ時代からひとくくりにされ縛り上げられてきた。
そこにすべての誤謬の根っこがある。
聖書を熟読すれば、何故そのような理解が成り立つのか、私の読解力では理解できない。

 

この御父と御子の在り方に似せ男女は創造された。

聖書から引用する

 

創世記第1

26節 神はまた言われた「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 27節 神は自分の形に人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。引用ここまで。

 

この御父と御子の在り方というのは神である御父が光あれという言葉を発し、
光の神である御子がなったという事に端を発する。そのように聖書に書いてある。

 

それは最初にアダムが創られ、その後にその助け手としてイブが創られた
という事と相似の関係なのだ。そしてこれは完全に主従の関係なのだ。
イブはアダムの助け手として作られ始めから主従の関係であった。
それは御父と御子の主従の関係の投影なのだ。私はこの関係性を創造の関係性と考えている。

 

そしてもう一つ見落としてはいけない関係性があるのだ。
それが御子と人間の関係性だ。メシアと人間の関係性なのだ。
神と人の関係性なのだ。

 

アダムとイブの関係は御父と御子の関係の反映のみでなく、
御子であるメシアと人間の関係をも反映しているのだ。
私はこの関係性を救済の関係性と考えている。
人間の創造には初めから創造と救済が反映されていたのだ。

 

いささか複雑ではあるが、御父である神がまず初めにあり、
光の神である御子が御父により生まれ、その後にその神の主従に似せ、
男と女が創られたという事実に、
創造と救済の関係性が秘められているのだ。
二重写しになっている。創造と救済が二重写しになっているのだ。

 

これは神の賜物であるイスラエルのカバラの本質に迫ると
言ってよいのではないかと私は思っている。

 

整理して言うと御父と御子という男性神の主従の関係が創造性と救済性という
二つの側面を持っているという事だ。創造主と救世主の主従があり、
救世主と人間の主従があり、その二つの主従がまとめて人間の男女に映されているのだ。

 

そのことが、人間が神の似姿に創られているということの奥深い
ことわりなのではないかと私は思う。それであるから神様の世界は
男が主でなければならないのだ。この主従を破ると創造と救済を破る
ということに繋がることになる。そこに人間の男女の何とも言えない
複雑な悲喜こもごもが発生してくるのだ。
伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生みのやり直しにそのことが示されてきたのだ。

 

だから神様の世界は男の世界なのだ。夫唱婦随の男の世界なのだ。
男尊女卑なのではない。主従の搾取ではなく、主従の慈悲の世界という
意味において男の世界なのだ。その男の世界において女と子供たちは
幸せに生きていけるのだ。それが神様の男社会なのだ。

 

男女同権の人権思想の社会は以上の理由で神仏を無視することにより法滅を招く。
それは男の美徳とは何か、女の美徳とは何かという事に思いの至らない、
間抜けな社会を形成する。今そのようになっているのだ。
核家族を超え、家庭の崩壊に至っているのだ。
私たちの古き良き日本はそのようではなかったはずだ。
いつからその様になったのか。それはキリスト教徒と称する無明の連中が
波状的にこの国に干渉し、最終的に開国させられたからなのではなかったか。

 

 日本人にもそれを受け入れる下地があったと言わざるを得ない。
古事記には御父と御子のことが倒語
(さかしまごと)をもってではあるが
はっきりと記述されていた、しかし日本人の先祖の不信仰がそれを悟らなかった
という事なのだ。先見者は全て見抜きながら、
それは人がとやかく言うべき事柄ではなく悟られるべき事柄であるとして
神道に秘めながら黙秘して来たのだ。

 

神道は奥が深すぎる。
聖書など知らない日本人の長い歴史は一体何だったのか。
そこに人間の理解を超えた神様の叡智があるのだろう。
私はその一端をかいま見てしまった気がしている。
そして畏敬の念をこえた畏怖というものを知った思いなのだ。
これらのことは、私の信仰により聖書と古事記から見出したことだ。


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