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思うに、預言者の御言葉って必ず含みがあるでしょ。例えばお釈迦様の、一本目の矢を受けても二本目の矢は受けないという言葉は、一度目の死で免れる者は、二度目の死を受けないということで、聖書の預言者のヨハネの黙示と一致しているのよ。

 

それで聖書と古事記と仏伝をまとめて読み込んで、それらで語られている含みっていったい何なのと考えてみるの。

 

そうすると見えてくるのは、人がこの世に来るときは父神から盃を受けるという契約で来ているのねと思えるのよ。それは、善悪を悟り履行されるかどうかという試しの契約なの。それが悟られるべきこととして伏せられているのを良いことに、そそのかす蛇が不履行に持ち込もうとするのよ。

 

たいがいの人はその罠にはまり受けるべき盃をお返ししてしまうのよ。メシアは父から盃を受け、ご自分の羊たちにも盃を受けるよう促されたでしょ。

 

ところがユダヤ人はその盃を受けようとせず、姦淫の杯に酔いしれたの。ヨハネがそう黙示していたの。

 

それはユダヤ人に限ったことではなくてほとんどすべての羊が父神とメシアの盃を受けることを拒み、結果として神様から受ける盃を水臭い水盃としてお返しし、神さまとのご縁が今生の別れとなり、二度目の死を選び取ることに繋がるのよ。

 

聖書も古事記もお釈迦様の言葉もその様な含みで語られているのねと思ってみると、なるほどそうかと合点できてしまうのよ。

 

メシアから送られる助け手との阿吽の呼吸で水がワインに変えられるという、そのような魔訶般若の盃事なのよ。

 

極道の盃事など真似事の学芸会かしらと思えるのよ。

 

盃事は盃事でも、その盃が違うのよ。

 

人の目には映らないから型通りでは済まないの。


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