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今日は私の誕生日なのよ。誕生日祝いなどというのはバチカンのあのお祭りから派生した異邦人のお祝いだから祝う気持ちなどないの。それでもこの日付は私にとって摩訶不思議な重みを伴って迫ってくるのよ。

 

長い前置きは嫌いだからいつも結論から先に書いてしまうのだけれども、このことは結構な紆余曲折を伴うのよ。意識し始めたのは198888888秒の八ヶ岳においてだったの。

 

その山にキャンプインしたのが奇しくも自分の誕生日だったの。私にとってのその時はキャンプインから8日後の8の9並びの時だったのよ。

 

2年前のチェルノブイリの原発事故を受け放射能の脅威でご飯も美味しく食べられなくなっている人たちのキャンプだったの。数千人はいたはずなの。その時を経て何かが変わってしまいもう後戻りできないと感じていたの。

 

結果としては放射能禍を肌身で感じることなどなかったのだけれども、その後社会は大きく様変わりし企業が環境への取り組みをうたわなければやっていけない時代に入ったでしょ。

 

しかしエコロジーに看板を掛け変えただけで、原子力発電は温存され、企業活動も活発に行われるのを横目で見ながら、やはりこの世はお金にしか目がないのね、何かが間違っているけれどももうだめだわと環境問題に対する関心も薄れていったのよ。

 

しかしあの88の事象だけは心に残りその後も一体あれはなんだったの?なにがかわってしまったの?本当に元に戻れなくなってしまっているじゃないと思いながらも社会に溶けこむ努力で過ごしてきたのよ。

 

その間はどのように受け取ったらよいのか理解に苦しむ、神変なの?としか思えないようことをたくさん経験させられたの。

 

その様なことだったから、チェルノブイリの事故でヨハネの黙示録を意識していたことなども手伝って、関心が環境問題から神様の事に移ってしまっていたのよ。

 

888という数字がカバラではメシアの数とされているということなどを思い切り意識しながら、私にとって毎年めぐってくる88日は誕生日からの8日目で、それは生まれて8日目のイスラエルの割礼に対応しているではない、何か関係あるの?とか思いながら過ごしていたの。

 

そうこうするうちに2012年にキリスト教のカルトにはまったの。そして2014年の誕生日に通過儀礼を受ける予定が、ひょんなことから88日に延期されてしまったのよ。その時はまた来た、メシアの88また来たと有頂天だったのよ。

 

しかしその後がよくなかったの。原因不明のうつに取り憑かれ八方ふさがりの状態に陥ったの。結果としてある日、だめだこの教会、完全にカルトだわと悟り、その日のうちに脱会を決意し資料その他すべて処分して部屋に戻った時にうつが一気に晴れ、それまでに経験したことのあるどのような異変をもしのぐ青天の霹靂のような神気にうたれてしまったの。

 

そしてその時にこれってもしかして解脱と関係あるの?と不意に思ってしまったのよ。その時に積読状態にあった仏陀について書かれた本をぱらぱらとめくったら、人の心で熾烈に燃えている煩悩の炎を吹き消さなければ涅槃に至れないという仏陀の教えが飛び込んできて、これが命の木への入り口だ、ケルビムと回る炎で守らせられている命の木への入り口だと確信してしまったのよ。

 

それで昔少しかじったことのある瞑想をするようになり、一気にいろいろな扉がパタパタと開き、古事記が自分なりにわかるようになり今に至るのよ。

 

そうして気が付いたら今年になっていきなり原発事故などよりはるかにヤバい事象の時代に入ってしまったの。相当に深刻だわよ。

 

環境問題は産業革命以来もう後戻りできないごとが確定していたのよ。今年の7月は台風が来なかったけれども豪雨被害が多発しているでしょ。そのように後戻りできないことに手を染めなければ生きていけない人間の迂闊さにメシアの縄の鞭が当てられ始めているとしかもう思えないの。

 

そして生活様式は有無を言わさず変えさせられ、マスクをしなければ買い物に出られないような社会になってしまったのではないの?

 

お釈迦様は古布を充てて繕ったものを着ておきなさいと教えていたでしょ。メシアは鳥や花から生き方を学びなさいと教えていたの。

 

しかし迂闊な社会は、疫病が終息し、自慢の愛車を駆って着飾りながら楽しむ観光を以前のように満喫したいものだとしか考えていないでしょ。後戻りできることに越したことはないわよ。私だって観光地には行きたいと思うからね。

 

しかし人間の迂闊さにも程があると神様がお考えになる時期に入ってしまっているとすればもう後戻りはできないわよ。この問題は国際社会も国家も地方自治体も地域社会も家族も対処不能なの。

 

しかし個人がそのことに対処するための方法は太古から示されてきているわよ。迂闊さから回避してしまうとそれはそれでもう後戻り不可能なの。この世に籍を置きながらもこの世ならぬ空境の涅槃に避難させられるの。

 

そこにも老死は有るけれども病は癒されるわよ。そして気が付くの。この世の不具合はすべて迂闊な人間のメシアに対する不信仰が招来していると。

 

神様によりメシアの星が創られその周りをお月様に守られながら回転させられているのだから当たり前でしょ。

 

企業がこの問題に対処しながら企業活動を続ける世の中って想像できないでしょ。人間の迂闊さが文明の推進力なの。私も20代の頃は70’とか80‘の時代だったけれども自家用車を保有して遊び惚けていたわよ。

 

しかしね、何の役にも立っていないの。ただ迂闊だっただけ。しかしそのような経験があればこそ気が付けるというのも本当なのよね。最悪なのは迂闊さに気が付かずに終わる事とわかるでしょ。六百六十六よ。


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