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聖書に書かれている聖霊の賜物とは恩頼(みたまのふゆ)の事でそれは、天の皇室から賜る金鵄の勲章の事だったのよ。

 

本当に途轍もないこと書くでしょこのブログ。でも後から気が付かされてみるとそうでしかないから仕方がないのよ。

 

この恩頼(みたまのふゆ)は神道では天照大御神の恩頼(みたまのふゆ)とされているのだけれども具体的に理解されていないでしょ。それは大御神より尊い神様がいらっしゃることが古事記で証しされているのにそれを悟れないからなの。

 

聖書の父と子と聖霊の三柱の神様は太陽系においては須佐之男命と天照大御神、そして月読命と古事記が証ししているでしょ。しかし太陽系外に至ると中心から外れるから天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神という原初の三神とされているでしょ。

 

何故そのようなことが可能かというと八咫鏡なのよ。この八咫鏡を高性能なレンズと思えばいいの。宇宙の果ての永遠から人間の体内の極微細な宇宙まで自由自在にズームイン、ズームアウト可能なレンズなの。

 

それが天照大御神の御霊である八咫鏡であり、それはメシアの御言葉により知れるの。その御言葉により三柱の神様のことははっきりと知らされているでしょ。そして信じる者には助け手を送るともはっきり書かれているの。そしてその助け手である聖霊によりすべて知らされるとも書かれているでしょ。

 

その賜物が八咫鏡なのよ。だからなのよ。それは日本の皇室において皇位継承のシンボルとしてお祀りされているけれども、太陽系では中心の太陽そのものなの。人体にズームインすると太陽神経叢にあるマニプーラのチャクラなの。

 

このチャクラはカバラの命の木では八宝珠の中心なの。メシアからこの鏡を賜るとこのチャクラで同期して、法輪というものを理解してしまうようになるのよ。

 

しかし初めの頃はそのようなことは理解できていないから、いきなり受けてしまうと適応障害のような症状に陥るの。

 

実は途轍もない、そのような事態を招来したのは、私にとってはメシアの御言葉だったのよ。そしてその信仰により徐々に、適応障害を解かれそれが実は途轍もないことであると知らされるの。

 

素戔嗚尊のお働きが太陽系では地球の公転となり、お正月の年神様として迎える神さまと理解しても、太陽系外にズームアウトするとそのお働きは見えなくなるでしょ。

 

しかし八咫鏡を通して見るとそのお働きは銀河系や太陽系、そして太陽を有らしめている神様だと理解できるのよ。

 

だから天照大御神より尊い神様がいて当たり前なのよ。そしてその太陽神天照大御神はその尊い神様によりこの地球にメシアとして遣わされて、御言葉でご自分をお遣わしになられた神様をご自身の父として証しされたでしょ。そのような途轍もないことだったのよ。

 

だから同期できないと理解できないの。しかしメシアは同期することを諭されているでしょ。私をお遣わしになった父の御旨を行う者が御国に入るのであると。そのような途轍もないことだったの。

 

だからそのことに同期できるような途轍もない信仰が必須なのよ。だから天から受ける金鵄の勲章と納采の儀なの。侮っていては決して受けることができないの。

 

途轍もなく難しいと思われるでしょ。しかしね、受けてしまえば当たり前のことと理解できる仕組みを神様により人はみな受けているわよ。それは仏性と言われることであり、もっとわかりやすく言えば分別を供えられているということなの。

 

この分別により、重んじたり軽んじたり、侮ったり崇めたりするわけでしょ。それは誰においても自由なの。その意味で人間は本来的に自由に生かされているのよ。

 

しかし人はその分別の正しい用い方を知らずに穴に堕ちようとしているから父の御旨によりメシアが遣わされたの。しかしそれで何かが強制されたわけではないでしょ。相変わらず人間は自由なの。

 

しかしね、救われたいと思う人はそのように途轍もない信仰をものにしなければならない定めなの。

 

そのことはアダムとイブが創られたその時に決められていたのよ。その時にズームインして見てみるとね、二人が神様から賜った皮の衣が金鵄の勲章と納采の儀に匹敵しているのよ。

 

門を通って都に入るために衣を浄くした者は幸いであるというメシアの御言葉がそれなの。その信仰が皮の衣であり、結納の品として賜る婚礼に必須の礼服なのよ。宴会に招かれた客が礼服をつけていなかったので追い出されるという譬えが聖書に書かれているでしょ。そういうことなのよ。

 

子羊の婚宴とはそのように理解されるべきことであり、市中で執り行われる婚宴に毛が生えたものくらいと思っていては無理なの。

 

だから日本の皇室が下賜する勲章や、納采の儀を凌駕しているという、途轍もない信仰が求められているということなの。

 

私なんかこれらの事はすべて後から知らされたからね。私がしていたことは、分別において迷いが生じた時はメシアの御言葉をそのまま定規として見極めていただけなの。そうして気が付いたらメシアの肉を食べ血を飲み干してしまっていたの。

 

今の市中には偶像にささげた肉を食べ、またそのようにそそのかすパリサイ人しかいないわよ。


20190405165420



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