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神さまの怒りの日が来てしまっているでしょ。私は今年の大祓でそうはっきり自覚させられてしまったのでその怒りが何に向けられているのかくっきりはっきり見えてしまったの。

 

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神宮の式年遷宮

この二つが同じことを示していると言われたら日本人はどう思うかしら。即座になるほどと思う人はまれのような気がするのよね。シバリンガが男神と女神の結合のシンボルなどと言われると抵抗というか、違和感を持つ日本人がほとんどでしょ。

 

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このレベルになるともう開き直ってしまっているでしょ。どうして開き直れるかというと安産と子宝のシンボルとして受け入れられるからでしょ。日本人の感性ではそこに御利益というものが感じられると受け入れることができるのよ。

 

シバリンガと男根のシンボルを見ればそこにはエクスタシーが発生している事が分かるでしょ。お伊勢様の鳥居とご神木も同じでしょ。

 

問題はこのエクスタシーの受け止め方にあるの。神社の境内が女神の子宮と産道と御陰をもとにデザインされている事も同じなのよ。

 

このエクスタシーを梵我で見るか自我で見るかの違いなの。ブラフマンで見るかアートマンで見るかということなの。

 

梵我で見るには梵我一如のブラーフマナの世界に溶け入っていなければ不可能なの。自我で見ると、現世利益に結びつくことは受け入れることができるけれども、そうでないと???となるでしょ。

 

それは自我の世界ではエクスタシーが不浄に結びつくことがあるからでしょ。それは性の問題に限らないのだけれども、モーセの十戒には姦淫するなという戒めがあるでしょ。

 

イエスは右の目が罪を犯すなら抉り出して捨てろと御言葉しているでしょ。

 

イエスの、父と私とはひとつであるという御言葉は梵我一如の宣言なの。お釈迦様はその入り口の見つけ方をお説きになられたの。お釈迦様がその梵我の世界で見つけた弥勒菩薩が暦どおりに来られ、その道に至る狭き門から入れと御言葉されたの。

 

ノアの長子のセムの天幕である、中東から極東に至るアジアの広い地域すべてにその梵我一如をお祝いするお祭りが広がっているでしょ。この地域ではそれをお祝いできなければお祭りではないの。それはメシアと太古からの先見者たちが梵我一如の世界から発した言葉が元になっているのよ。

 

ところが暦の進展により欧米化、文明開化、近代化などで真逆にリードされ、梵我一如を悟らない自我の世界で悪いことばかりしているでしょ世界は。

 

神さまは神仏の御言葉を受け入れ梵我を悟った者にしか納采の儀は出せないのよ。お使者は送れないの。その納采の儀に滞りが生じているというサイレンなの。

 時を同じくして、大御神によりなる皇室と天の皇室は梵我一如とお印が出ているでしょ。

 

去年の大祓を受けこのブログを書き始めたのは、そのようなことを悟り、狭き門の入り口に至るための近道が示せればと思ってのことなの。

 

そうしたらサイレンがけたたましく鳴り始めてしまったのよ。

 

古事記に発する、日本のお祭りをもとにブラフマンとアートマン、梵我と自我を瞑想するのが近道なの。身の回りのあらゆるところに近道の→が出ているわよ。

 大御神の心御柱がメシアの十字架と知らされ二十年もたっているわよ。

 

道標は聖書のメシアの御言葉よ。盲人にミスリードされている場合ではないでしょ。






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