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解脱って一般的ではないわよね。奇異な事と理解されているでしょ。私なんかそれを意識せざるを得なくなり、当時同じ仕事をしていた人が私の発言に疑問を感じ問いかけて来たのではっきりと、解脱なのよと言ったらすごく驚かれた経験があるのよ。

 

それから何年か経つのだけれども今では解脱には梵天灌頂は付き物で切っても切れないことなのねとサクッと理解してしまっているの。人には理解されないわよね。

 

でもね、聖書のイエスの御言葉が飛び込んでくるとそうならざるを得ないわよ。地上にいくら富を蓄えても天に富を積んでおかなければ破滅だわと真剣に思えるからね。

 

それは信仰の問題なのだけれども宗教とは別物よ。お釈迦様は良い友を求めよ、求めて得られなければサイの角のようにただ一人歩めとお諭しになったの。党派心で徒党を組んでも百害あって一利もないわよ。

 

何故お釈迦様が女人は解脱できないとお諭しになったのか腑に堕ちなければ無理よ。この世とは太古から男性社会でしょ。男が主、女が従なの。それは神様が主、人間は従ということを反映しているの。この部分の信仰は私にとってかなり重要なウエイトを占めているの。

 

神様の似姿に創造されている人間の社会も神様の理を反映しているのよ。その社会の中で男たちは父であったり夫であったりしながら主人として振舞ってきたわけでしょ。

 

しかしその主人である男たちが創造の主である神様を悟らず、ないがしろにしてきたことは、古代から現代にいたるまでの世の紊乱した風俗を見れば明らかでしょ。

 

お釈迦様のお説きになった解脱とはその男性社会の矯正に資するためだったのよ。しかし弟子たちがそれを理解しなかったの。だから仕方なく窮余の策で比丘尼を誕生させたでしょ。そして正法、像法、末法、法滅を預言されたの。

 

それは弟子たちに男女の主従が神様由来であると教えることはお釈迦さまでも手に余る事だったのよ。それは当時の時代背景とその地域における信仰と宗教ということがお釈迦様の足枷になっていたからなの。

 

しかしその問題はやがて来られる五六七の弥勒菩薩が全て解決すると預言されていたでしょ。お釈迦様の梵天による灌頂はそのための露払いだったのよ。お釈迦様は救世主ではないし、宗教も世を救えない、ただ救世主だけがそのためにやって来られるということを、お遣わしになる梵天がお釈迦様を通してあらかじめ示されていた事象だったのよ。

 

それらを全て御存知だったお釈迦様が女人は解脱できないとお諭しになっていたの。

 

同じことは古事記の中で男神と女神の国生みの時に女神が先に言葉を発して国生みに失敗したことで示されているわよ。この世においては女性が男性と同じ土俵で勝負しようとするとどちらも滅ぶということなの。神様の男性社会が壊れるでしょ。それでなくても紊乱した破滅しやすい社会なのだから。

 

それとも女性は救世主たり得るかしら。無理よね。救世主が創造主を差し置いて何かできると思うことに無理があるでしょ。それはキリスト・イエスが天の御父を差し置いて侮るということと同じでしょ。そのようなことはあり得ないでしょ。でも人間社会ではそれが常態化しているの。

 

この星が大地母神ガイアだったとしてもその畑に種を蒔く父神に対する信仰が無ければ同じことに陥るの。そのことを百も承知の神道は神事の土俵に女の人が立つことを絶対に許さないの。国が亡びるわよ。

 

男尊女卑ではないわよ。男女同権はアダムズアップルたちが御神田にまき散らす毒麦の種とはっきり見定めて、お祓いをしながら神様をお祀りしているのよ。

 

それがお釈迦様の頃の時代背景と弥勒菩薩が降臨して二千年近く経た現代との時代背景の違いなの。

 

はっきり見定めた先見者、解脱者でなければ神様をお祀りすることはできないの。神様から賜物を受け、お祀りすることはできないの。それはお釈迦様がその生き方でお示しになられた喜捨とお布施の乞食の関係なの。

 

解脱とは真鯉の滝登りのことなの。緋鯉は真鯉に夫唱婦随で付き随うからその緋が映え、輝くように神様がお創りになっているのよ。だから解脱しようとしない真鯉は緋鯉と子供たちを巻き込んでお陀仏になるの。そのような神様の理の社会で自分の有り様を理解しない緋鯉のうろこは、くすんで、ぼろけてしまうのよ。滝を上れず法滅に至るでしょ。それが一般の社会で起こっている事なの。

 

それが神様仏様の定めなのよ。だから滅びに至る門は広く大きいの。

 

イエスは、立ってはいけないものが、立ってはいけないところに立つのを見たら山に逃げろとお諭しになっているでしょ。私にはそれがくっきりとはっきりと見えてしまったから山に逃げたわよ。

 

山とはイスラエルのカバラが示す命の木よ。三本の柱で示されるお山の形をしているでしょ。何故そのようなことになるかというと、イエスは、私は失われたイスラエルにしか遣わされてないと御言葉していたでしょ。だから失われたイスラエルは社会が紊乱していても、上からの力が働いてその文化、文明の中に神様のことを悟るための言霊の鍵がそこここに置かれるように創られているからなのよ。

 

このお山に逃れるための防災の備えを、先見者たちが梵天の灌頂によりあの手この手でこの世に残してきたの。それが避難誘導路となり、最終的に、失われたイスラエルに遣わされた天照大御神の神道として定められ大成しているの。

 

だから今の私にとって神道とはお山に逃れる避難のための誘導路なのよ。その誘導路の入り口をお釈迦様がお示しになっていたの。モーセの五書がトーラーと呼ばれ、それを虎の巻とする言霊の書にもその入り口のことははっきりと書かれているの。

 

その入り口を探してそこから入るようにイエスは促しておられたの。その入り口から入れていただく人は道に迷わないように、コンパクトにまとめられた防災リュックを賜るのよ。

 

すべてその中に詰め込まれていてそれにより難を逃れることができるの。私にとってそのリュックとはカバラの命の木であり、根付きの真榊であり、契約の聖櫃であり、マナの壺であり、真名井なの。

 

そのリュックの中にイスラエルの三種の神器、イエスの三種の神器、神道の三種の神器がすべて詰め込まれているの。

 

それらを適切に用いることによりお釈迦様が御説きになった宝輪が目に映り、メシアの八正道を悟るのよ。そして六百六十六から解脱して八百八十八を理解するの。

 

そうすると八釼の宝輪がメシアをお遣わしになられた尊い神様の、上からの力によりゆっくりと回転し始めるのよ。


20190405165420


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