このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)

私のこのブログどこまで書かされるのかしら。完全に浮世離れしているでしょ。でもメシアに本気で付き随ったらその人はもうこの世に属していないのと同じことになるのよ。そのように聖書には書かれているでしょ。

 

今の私から見たら宗教などというものは極めてこの世的な人の集まりにしか感じられなくなっているの。そのように感じさせられるまでに受け取っている祝福は包み隠さずすべてこのブログでシェアしてしまうつもりなの。だからすべて書いておくわよ。

 

八咫鏡のみならず神宮大麻というものまでわかってしまうとそれまで以上に世界が全く違って見えてしまうわよ。理屈として受けるのではなく瞑想の手引きとして読んでもらえればよいかもしれないわ。

 

イエスは勝利を得る者には隠されたマナを与えると御言葉しているの。この隠されたマナが神宮大麻であり八咫鏡でもあるのよ。失われたイスラエルに遣わされたイエスが、失われたイスラエルに隠したマナなのよ。

 

神宮大麻と八咫鏡の関係については今月に入ってからの記事を参照してもらうとして、この記事ではその一応の総括で、分かったことを書くつもりなの。

 

いくわよ。

 

神宮大麻とは天照大御神の御名が書き記されたお札であり、それはカバラの命の木で対応させると、壺に納められたマナであり、イスラエルの契約の箱に納められた十戒石板でもあるのよ。イスラエルの律法でもあり八尺瓊勾玉でもあるの。

 カバラの命の木自体がマナの壺であり、契約の聖櫃でもあり、それはアークと呼ばれ、ノアの箱舟をも意味しているの。十個のセフィロトが十戒の律法の聖櫃である事を暗示し、最初の人アダムから数えた十人目の預言者であるノアのアークである事も同時に暗示しているのよ。

 

そのノアのアークで救われた人の数が船という字が示す舟八口でノアの八人家族なの。そのアークである命の木の中心がイエスの御名の記された銘板であり、八個のセフィロトの八宝珠の宝輪の中心であり、岩戸の前の真榊の中枝にかけられた八咫鏡なの。

 

残る神器の一つアロンの杖はイエスの銘板の掲げられた十字架を意味していて、この国ではそれが天の叢雲の剣とか草薙剣と呼ばれそこにかけられたイエスの玉体を暗示しているのよ。

 

これがイエスの剣であり、古事記の伊弉諾尊や素戔嗚尊の剣は十束の剣と呼ばれ、十個のセフィロトの命の木それ自体が御父の十束の剣でもあることを暗示しているの。イエスの剣である草薙剣は十束の剣の剣先なのよ。少し複雑だけれども、瞑想によりそれらを自分の内に落とし込めればそこにとてつもない祝福が見えてくるの。

 

イエスから賜る隠されたマナが見えてくるの。見えてしまえばそれはもう賜ったのと同じことなのよ。命の木に与ることを許され衣を洗って白くしたものは幸いであるというイエスの御言葉がその人のうちに成就するの。

 

再度、いくわよ。

 

父神との契約による祝福の象徴が命の木であり、イスラエルの聖櫃と神器であり、真榊にかけられた三種の神器なのよ。だから真榊は父神の十束の剣でもあるの。これがモーセの書いた、神が人の前に置かれた祝福のあらましなのよ。

 

この祝福を受けるためにはイエスの肉を食べ、血を飲み、衣を白く清め命の木に与ることを許されなければならないの。

 

命の木の入り口は父神によりケルビムと回る炎の剣で守らせられているの。この入り口がイエスの銘板の八咫鏡で、ティファレトというセフィロトにあり、人体の太陽神経叢のチャクラに対応しているの。ここに八宝珠の宝輪が秘められていて、命の木への入り口であるのよ。

 

だから煩悩を滅却して、お釈迦様が回した宝輪を悟り、解脱し、入り口を通していただかなければならないの。そのためにお釈迦様はただ座れとお諭しになっているの。お釈迦様がしたような瞑想を通してでなければ宝輪は回転しないの。

 

それだからお釈迦様とイエス様のお二人の教誨師の御言葉を共に飲み込めなければならないのよ。それを促すのがこの国で頒布されている神宮大麻なの。それが謎の神宝十種なの。その絵図は命の木を分解した部品にしか見えないでしょ。

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祝福を受けなければそれと共に置かれている呪いを受けるしかなく、この世の終わりにその体を神様にお返しするときに、祝福ではなく受けた呪いを神様にお返しすることになるの。

 

自分の量るその秤で量り返されると書かれているでしょ。神様に呪いをお返ししたらその呪いを返されるということなの。だから祝福を受けようとする者は狭き門を見つけ解脱しなければ不可能なの。

 

この世の終わりに至らなくとも鬱憤がたまると神様はその呪いを返されるでしょ。何十年も平和な時代が続いたので前回からだいぶそのつけがたまっているわよ。

 

解脱ということだけれども男が剣を取る煩悩との戦だから女性はその戦とは無縁にしていたらいいのよ。お釈迦さまが女人は解脱できないとお説きになったのはそのためよ。女性が剣を取ることを神様は喜ばれないということ。

 

ただ主のはしためとしてお仕えできればいいのよ。男の戦である解脱の助け手でいいのよ。それが、神様が女性の前に置かれた美徳なの。大和撫子は手弱女で良いの。下手に同じ土俵ででしゃばると回りを巻き込み呪いを受けるわよ。古事記にそう書かれているでしょ。だから仏教は法滅に見舞われたのだから。

 

男も同じ立場ではあるけれども、メシアが剣を取られたように、終わりに至る世を救済するため、万軍の主に従い剣を取らなければ呪いを返されるの。聖書を読むとそのようなことがよくわかるように書かれているわよ。読まない人は危険だから命の木には近づかない方がいいの。オカルトにはまるわ。

 

短い記事でさらっと書いているけれども内容濃いでしょ。偽預言者とパリサイのパン種のつまらない説教に注意しないと、パリサイオカルトの呪いを返される羽目になるわよ。

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