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自分の書いた記事なのだけれども客観的に見たらだれも信じられないかもしれないとあらためて思うのよ。特に今月に入ってからの記事はね。読者にどう思われているか心配する気持ちは有るのよ。

 

でも長年の聖書読書の未にイエスの御言葉が飛び込んできてしまうという経験をしてからは完全に神様ファーストなの。イエスの戒めに本気で随うのなら地上か天かと言ったら天しかないのよ。

 

下手に曲げて哲学的な思考などできないの。イエスは哲学者ではなかったからね。お釈迦様も哲学者ではなかったでしょ。その線で思考を進めていくとやがて訪れる最後の時など肯定的に受け止めるのが当たり前になるのよ。それが神様の定めたことであるならば否定的に考えることの方がおかしいという思考に慣らされてしまうの。

 

そしてさらにはアブラハムという人が神様から息子のイサクを生贄として供えよと言われてそのようにしたのは当たり前で自分でもそうするわとなってしまうの。そうするとね、イエスの御言葉などゴクゴクと飲み込めてしまうようになってしまうのよ。

 

聖書や古事記はそのようになってしまった人たちが書き残したものだから何を言わんとしているのか面白いように読み解けてしまうのよ。お釈迦様の言葉も同じなの。

 

先見者たちが神様から預かった言葉は哲学ではないのよ。魔訶般若波羅蜜多なの。理解できない人たちが哲学的な思考をひねり出し満足しようとしているだけなの。それでは的はずれになるだけで、もっと言えば神様に呪いを返すようなことになってしまうの。

 

わからなければわからないとはっきり認めて知ったかぶりはやめておくに越したことはないの。何故無理に知ったかぶりして神様に敵対しなければいけないのか理解に苦しむのよ。雷様におへそ取られてしまって、おへその曲がった人達ばかりの世になってしまったのね、となるのよ。

 

でもね、神さまだってご自分の田や畑を好き勝手に荒らされていつまでも笑って見ているようなお人よしな御方ではないわよ。ノアという人の時には全滅させられたでしょ。それは地上での話だったけれども、神様にとっては天が主戦場だからね。天における全滅を免れさせるための警告だったと何故人は気が付かないのかしら。

 

私がそれに気がついた時は本当に怖い思いをしたわよ。そして思い知るの、神様は人が死に対して感じる恐怖などよりもはるかに恐ろしい御方だと。人の死に対する恐怖などは自分一人の問題でしょ。神様は敵対する者は全滅させる御方なの。

 

すべての人が一度死んだ後に、聞き分けなかった者たちを全滅させると決めておられるの。それを悟り本当の畏怖ということを人は知るのよ。恐れ畏むということを知るの。

 

イエスやお釈迦様やその他の預言者がオブラートに包んで言っていたのは、いくら天の国が近づいたと言ってもまだ二千年も先の事だったからなの。その御言葉がオブラートに包まれていたのをいいことに皆が皆油断しているのよ。もう目の前というところまで来てその事に気が付いてしまったらはっきりと言わずにいられないでしょ。また私がそのような性分を持たされているからなおさらなのよ。何と言ってよいかわからないわよ。

 

メシアの贖いに気が付いて悔い改めるのならこの世に息があるうちよ。これ私一生書いていそうだわよ。周りの人にこんなこといくら言っても理解できなそうだから、文章読みに来る求道者のために書いておくの。

 

おへそ取られて六百六十六の印付けられたら終わりよ。自分の家族よりメシアを愛しなさいと、メシアご自身が言っておられるでしょ。甘くはないわよ。


20190405165420


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