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チャクラなのだけれど七つあると言われているでしょ。この時点で、七つながりでイスラエルを連想していいの。なぜ七がラッキーナンバーなのかと言えば神様の七日間が祝福に繋がっているからなのよ。その他にこの七という数がラッキーナンバーである根拠って見合たらないはずなのよ。タロットやカードゲームで世界中に広がったのよね。子供の頃トランプの七並べよくやったわよ。最近の子はトランプゲームとかしないのかしら。ちなみに私はファミコンとかテレビゲーム、大の音痴なの。それは置いておいて。

 

聖書の中にはいろいろな数の示しがあり私もいまだに?な記述とかはあるのよ。でもこの七は特別に強力な数で、賭け事の遊技台などでもこの数でなければ始まらないでしょ。

 

この国でも「この子の七つのお祝いに・・・」という歌があるでしょ。聖書の申命記にモーセの言葉として「神は人の前に呪いと祝福を置かれた」という記述があるの。この祝福の数と思って間違いないの。それをこの国の神道は百も承知なのよ。

 

聖書においては神様の七日目はお仕事を終えて休まれる日で、イスラエルの律法ではこの日を安息日として心に留め大切にせよと記されているの。古い時代にはイスラエルの暦は七年ごとに数えられ、それを一週として七週目の四十九年目にはヨベルの年として、第何ヨベルの第何週の第何年と数えられていたらしいのよ。暦のことは深く知らないけれども私たちの一週は七日でしょ。まるでイスラエルの安息日の暦かのようでしょ。

 

そこにはとんでもない祝福が隠されているの。けれどもその祝福から漏れると、とんでもない呪いが待ち受けているのよ。この国はそのことを知っているの。古い言い伝えで七殺の祟りというのがあって方位の神様に障ると受ける祟りと説明されているの。

 

この祟りは、一家七人皆殺しで、家族に七人いなければその周りの人がその代わりに祟りを受けるという恐ろしいものなのよ。神道は七つのお祝いのおかげを落とすと七殺の祟りだと知っているのよ。

 

そのことがチャクラを通した冥想からはっきり浮かび上がってくるのよ。あまり長い記事を書く余裕はないから要点だけをさくさく切り出していくわよ。ついてきてね。

 

七つのチャクラはそれぞれに色を持っているの。それが虹の七色なのよ。聖書において虹は神様の永遠の契約の印なの。ノアの洪水の後に空に虹をおいて、肉なる命との永遠の契約の印とされているのよ。これも人によりどのようにでも解釈できる記述なのよ。聖書はそのような記述のオンパレード。だから深く掘り下げて、言わんとすることを探り当てないといけないの。

 

神様との契約の意味を取り違えると七殺の祟りなのよ。だから普通の人はあまり解釈したがらないの。七がなぜ幸運を呼ぶ数なのか知られずに広まっているの。

 

私ね、聖書の最後の最後まで理解してしまい、そのおかげの印まで受けてしまっているので、枝葉の事はのぞいてその骨子はすべて見せられてしまったの。

 

それをこの記事で実証できるかどうかは受け取り方次第なのでわからないけれども、聖書における最後の審判と七つのチャクラはがっちりとリンクしているわよ。

 

その足掛かりが、神様がノアの洪水の後にたてた契約の虹なの。その経緯は聖書のノアの洪水のところを読んでね。要約すると人を創ったことを後悔した神様がノアという人とその家族を合わせた八人を救い、その他すべてを洪水で滅ぼしてしまったの。その後、もう二度と肉なるものを洪水で滅ぼすことはしないと約束しその契約として空に虹をかけたという物語なの。

 

契約の虹というからには、契約の書である聖書においては何か奥深い意味がありそうと思わなければいけないの。

 

虹というものは空に光があり虹となるでしょ。空に光が無ければ色は映って見えないでしょ。この空と光と色の関係って、いきなりだけれども、色即是空、空即是色ということではないの?とあるとき思ったのよ。誰もそんなこと言った人いないでしょ。

 

でも私は、考察を進めた結果、なるほどそういうことなのね、魔訶般若の偉大な悟りの智慧の完成は解脱に繋がり、それはモクシャと言われる救済のことで、さらに神様の虹の契約による救済が始まりなのねとサクッと理解してしまったの。

 

その様な解釈に至るためには、この光は何故始まったのかということを考えなければならないの。

 

聖書によるとそれは、神様の「光あれ」という言葉により始まっているのよ。それまでは闇しかなく色は映らない真っ暗闇の世界だったの。そのことを考えると、神様と光と色の関係性が浮かび上がってくるでしょ。

 

この関係性はお釈迦様の魔訶般若やヒンズー教のタントラのチャクラなどよりはるかに古く、人間の創世に先立っているの。人間が創られる前の話なの。

 

ノアの洪水の時の虹の始まりも魔訶般若やタントラよりはるかに古いの。この洪水のノアという人からから世界中に人類が広がっていったからね。

 

やはり光の始まりは聖書のイスラエルだわとなってしまうのよ。その聖書の創世記を書いたのはモーセという預言者なの。ではそのモーセにそれを書かせた神様とは一体だれ?となった時に。それはイエスなのよ。

 

イエスの、モーセは私のことを書いたのであるという御言葉がネックなの。この御言葉に世界中がつまずいているのよ。イエスは自分がモーセに創世記を書かせたアブラハムの神であると証ししてしまったから、盲人たちの逆鱗に触れたの。それで石で打ち殺されそうになったことが聖書に書いてあるの。イエスの前世であった神がモーセを導いたの。ユダヤ教徒がつまずいたように、教会キリスト教もそのように解釈できないのよ。だから三位一体とか言いながら高を括っているの。

 

それは置くとしても、とにかくイエスが世に来た光の神なのよ。その光の神のいう父なる神が空なる神であり、その空なる神が「光あれ」と御言葉し、光が生まれ神の子となり、その光のプリズムで七色の虹となり、それが光の神の助け手の聖霊となったとつながるでしょ。

 

そして時至り光の神がこの世にイエスとして来て証ししたのが父なる神、子なる神、聖霊なる神でしょ。そこまで理解が進めば、父と子と聖霊が、虹の、空と光と色の関係であり、闇の中に光が生まれたその始まりに起こったこととわかるでしょ。

 

この時に闇の呪いと光の祝福が分けられ、その後に初めの人アダムとイヴが創られているの。そして神は園の中央に二本の木を生えさせられたと続くのよ。そしてモーセはその後、申命記に神は人の前に祝福と呪いをおかれたと書いているの。

 

アダムとイヴの子孫は増えたけれども堕落したのでノアの一家以外は洪水で滅ぼされたの。その時に神様の永遠の契約として虹が空に置かれたの。その後のことなのよ、新たに人が全地に増え始めたのは。

 

そういうことであれば人が全地に広がりその後におこったヒンズー教の三神が、その父と子と聖霊の暗喩でなければなにも始まらないでしょと思うわけなの。私にとっては聖書とイエスが至上だから定規であり秤なのよ。その尺度で量らないと真理からそれ、迷宮にはまり苦い思いをすると経験上知っているの。

 

だからその秤でヒンズーの三神を量って見たら、聖書に示されている三神と同一神と認めて良いとなったのよ。そしてもっと立体的に古事記の二連の三柱の神様と照らして検証してみても、まず間違いないでしょとなったの。

 

そしてヨーガタントラのチャクラはそのヒンズーの聖典から出ているのよ。お釈迦様もそのヒンズー教の地から教えているでしょ。であればチャクラと聖書も繋がっていなければならないのよ。

 

そしてそのつながりを調べると出てくるわ、出てくるわ、魔訶般若のオンパレードなの。ヒンズーの聖典なんか読んだこともないしこの先も読む気はないのだけれども、尾ひれのつけられた七難しい哲学など無視してその骨子だけから理解しても十分すぎるくらいなの。仏伝も一緒。肝心なのは熾烈に燃える煩悩の炎をどのように吹き消すかだけ。哲学として学んだ坊さんたちの禅問答や説教など〇〇の役にも立たないわよ・・・・・・いけないいけない悪い癖が出た。

 

まあとにかく、そのようにして理解を進めていくと驚くことに、それにより救済が働いてしまうのよ。そのような摩訶不思議なことに関わる時にはイエスの御言葉に照らして進まないと危ないわよ。本当に危ないわよ。

 

チャクラとは人体にある霊的中枢とされているでしょ。その中枢を通して霊的な救済が働き、骨肉に巣くう病が癒されてしまうのよ。そして性癖やその他の逸脱も霊的なレベルから矯正されてしまい、命の木への道を、イエスのいる所を目指して進むチャクラの救済が働き始めるの。

 

私はそれを経験していることは前編の記事に書いたでしょ。この記事はその魔訶般若のオンパレードをすべて陳列してしまいましょうという趣旨で書いているの。これ経済合理性を考えれば完全に有料級よ。市販の書籍で書かれていることなど何の役にも立たないことを私は経験しているからね。

 

しかし私の主イエスは神と富とに兼ね仕えることはできない、必ずどちらかを崇めどちらかを疎んじると御言葉しているから、主なる神イエスとその天の父なる神と聖霊を崇めている私にとって経済合理性などは後の後の後なの。(これでもなるべく説教臭くならないように書いているつもりよ)

 

実はこのブログ書き始める前から既にある到達感を感じていたので、そのおかげ参りでお伊勢様にお参りしてから出版を目指しましょうと安易に思っていたのよ。ところがお伊勢様参りの最後に倭姫様の風に吹かれて以降、風向きが完全に変わってしまい、神様のことについては、その経済合理性の優先順位は最後尾の最低順位でなければならないとなってしまい、このブログを書かされているのよ。

 

そのようにして富を疎んじる(度外視する)ようになったら、記事を書くごとに以前にもまして賜物がジャンジャン降ってきてしまい、きりきり舞い。そうこうしているうちに気が付いたらとりあえずここが終着駅ですとなったわけ。とりあえず終着駅だと思うのよ。下車した後の徒歩の旅は終わりまで続くでしょうけれどもね。閑話休題。

 

オンパレードだった。チャクラと聖書のつながりだったわね。まずはイスラエルのカバラの命の木なの。この命の木の象徴図形は三柱に十個のセフィロトが配置され二十二本のパスと言われるものでつながっているの。この命の木を見る限りでは七個のチャクラに相当するものは簡単に見つけ出せないのよ。

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隠されているの。どこに隠されているかというとね、上中下の三つの三角形に隠されているのよ。この命の木は人体に見立てる時はアダム・カドモンという人の体としてみられるの。そして描かれるときは必ず後ろ向きがお約束なの。細かく書くとそれだけで終わってしまうから飛ばすわよ。なぜ後ろ向きかというと、鏡像の前後透過なの。この鏡はお榊にかけられた鏡として古事記に示されているわよ。このこともだいぶ以前に記事にしてあったでしょ。

 

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ここではチャクラ。命の木の上中下の三角形はね人体の上丹田、中丹田、下丹田に対応しているのよ。上丹田が頭頂と眉間、中丹田が胸とみぞおち、下丹田が下腹部と尾てい骨の各チャクラで各三角に二個ずつのチャクラが隠され二×三で六個、残る一つは命の木においても隠されることがあるダアトというセフィロト。このダアトはね上の三角と真ん中の三角の間、上丹田と中丹田の間の喉のチャクラに対応しているのよ。

 

これで七個のチャクラが揃ったでしょ。奥義として隠しまくりなのよ。そしてチャクラを引っ張り出したらお次は蛇。命の木の図象には蛇が絡みつき描かれるものがあるのだけれどもその絡みは蛇のとぐろの三回転半がお約束なの。

 

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翻ってチャクラを見ると一番下のベースチャクラのムーラダーラに蛇がとぐろを巻いていて、各チャクラが覚醒するとこの蛇が三回転半の上昇をして、その蛇のクンダリニーという火が頭頂のサハスラーラのチャクラに至り、人間は完全に覚醒し解脱に至るという物なの。しかもそのチャクラの人体には三本の管が通っていて中心の管のまわりに二本の管が螺旋を描いてつながっていて、その管を上昇するの。命の木の三柱と構造がまるで一緒でしょ。


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命の木とチャクラは三回転半の蛇のとぐろで同じことを示していることは明白でしょ。

そのつながりは古くから指摘されていたのよ。でもね、だれも決定打を打てないからそれが定説になるに至っていないの。

 

命の木のカバラのシンボルは世界中で知られていて色々な機関がそのシンボルを紀章にしていたりするでしょ。杖にとぐろを巻いた蛇とかね。それが一番大好きなのがフリーメイソンという組合。この組合はカバラのシンボルが大好きな有神論の組合なのだけれども陰謀の秘密結社などと言われるでしょ。

 

私に言わせればこの組合は陰謀を企てるほどの結社ではないわよ。カバラのシンボルをこれ見よがしにチラつかせ尊大ぶりたいだけの同好会なのよ。それを陰謀結社と信じ、書きたてる人達にもあきれてものが言えないくらいなの。

 

すべては蛇の三回転半の奥義を理解できるかどうかにかかっているわよ。現代ではユダヤ教もキリスト教もヒンズー教も瑜伽タントラの密教も理解できていないと私は見ているわ。日本の神道は古くからここをきっちりとおさえているわよ。神道だけなの。それはねこの三回転半が七つのお祝いの象徴だということなの。

 

この蛇は蛇神様なの。そして上昇を続け頭頂に至ると龍神様に変化するの。頭頂のチャクラが登竜門であり、以下の六つのチャクラは竜門の滝なのよ。命の木も人体のチャクラも竜門の滝なのよ。クンダリニーの蛇神様はこの龍門の滝を上り、この登竜門で龍に変化してから天に昇っていったの。神道の竜門の鯉の包丁式が何を意味しているかこれで明らかでしょ。

 

命の木で隠されている喉元のチャクラで羊飼いの声を、虚空蔵求聞持法で聞き分けた羊が、龍神様にならい鯉として滝を上り、登竜門を経て天に挙げられた時が七つのお祝いの時なの。それを黙示録のヨハネは神の子羊の婚宴と示していたの。

 

なぜ三回転半かよね。これが大問題なのよ。誰も気が付いていないけれども、ここにすべてが隠されているの。そして神道はそれを隠し持っているの。その鍵穴にマスターキーを差し込むとカチャと開いてしまうのよ。

 

いくわよ。

 

 その鍵穴はどこにあるかというとやはり七五三なの。日本人なら誰でもが知る七五三のお祝いに隠されているの。三つのお祝いが二回転目、五つのお祝いが三回転目、七つのお祝いが残りの半回転なのよ。奥深い所に隠しすぎと思えるでしょ。

 そして一回転目は?となるでしょ。これを理解するにはね七という数字の根源に戻らなければいけないの。その根源は神様の七日間だったでしょ。これは天地創造の七日間なのだけれども・・・・・・ちょっと待って。

 頭フル回転させながら書いているのだけれども、書いているそばから新たな扉がパタ、パタと開いてね、頭の回転止められてしまうの。いつもは長い記事でも三時間くらいあれば書き上げるのだれどもこの記事は昨日から書き始めていて、また止まってしまった。

 メシアの数がなぜ八なのかもう一つ見えてしまった。頭の回転急停止させられたからしばし休憩するわ。

(数時間後)

 

 再開します。メシアの八はこの記事で書くと、まとめるのが大変だから次の機会ね。弟橘姫の八八八の入水と関係があるわよ。

 

天地創造の七日間なのだけれども、神様は天地を創造し、六日目に人間をつくり、その日にすべての業を終えられたのよ。そして七日目はお休みになったの。それが神様の一週なのよ。この神様の一週は実は七千年を暗示しているという預言があるの。

 

ペテロ第二の手紙 38

愛する者たちよ。この事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

 

この聖句が元なの。この手紙を書いたペテロという人は復活のイエスから私の羊を養いなさいと三度言われた人なの。私はそのようにイエスから仰せつかったこの人が、神道の創始者とにらんでいるの。鶏鳴で有名になったペテロという人と、毎回鶏鳴三声で始まる伊勢神宮の式年遷宮が、この期に及んで関係ないわけがないでしょ。その人の言葉なのよ。それで聖書を解釈しなおすと天地創造から現代まで六千年が過ぎようとしているという考え方なの。

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 神様の六千年即ち六日が過ぎたら七日目には安息日で、それが黙示録で示されているキリストの安息の千年王国という考え方なのよ。私もそれには異論がないのだけれども、ここにね、ユダヤ教徒やキリスト教徒が見落としている、カバラの三回転半が仕込まれているの。

 

日本人も気が付いていないわよね。メシアを受け入れなかったから国を失ったユダヤ人がわかっていないように、天照大御神をメシアとして受け入れないとだれにもわからないの。

 

上の年表をよく見ると天地創造から二千年目のノアの時の虹の契約と、四千年目のイエスの十字架の契約で六千年が三分割されているでしょ。クリックすると少し大きくなるからね。

 

この三分割を私が解釈すると堕落した時代、イスラエルの時代、失われたイスラエルの時代の三分割なの。

 

イエスは失われたイスラエルにしか遣わされていないわよ。それはイエス自身の御言葉として聖書にはっきり書いてあるでしょ。そのイエスの十字架が伊勢神宮で天照大御神の心御柱として祀られている事が、六日も終わり近くになって明らかにされてしまったのよ。

 

天地創造から二日目の虹の契約、四日目の十字架の契約を経て、最後に六日が終わるとしたら、十字架から二日目にあたる2000年後の2033年に終わってしまうでしょ。しかもその年は次の式年遷宮の年で平成十五年なの。十五という数もカバラの秘数で、三++七なのよ。もうね、何が起こっても不思議ではないと思うのよ。

 

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この魔法陣はどの列もたすと十五になるの。奇数列を見ると十字架でしょ。神道では奇数が陽数とされているでしょ。結婚式のご祝儀は奇数でないと嫌われるでしょ。

 

私に言わせればキリストの十字架はイエスの契約の申し入れで、それはいいなずけ親の神様との契約に基づいているわよ。虹の契約と等しいの。

 

そのような時期だからチャクラの瞑想が最重要なの。コロナ危機よりももっと危ないわよ。だからこの記事書いているの。

 

虹の契約は洪水で滅ぼさないという契約だったけれども、それは、神さまとは、堕落した人間を亡ぼす神さまで、その手立ては洪水だけではないと示しているのよ。聖書はそのように読まないといけないの。教会キリスト教徒もそのように聖書を読まないでしょ。だから空中携挙などという突飛なことを信じるようになるの。

 

堕落の時代、聖書のイスラエルの時代、古事記の失われたイスラエルの時代の三回転と至福千年の半回転なのよ。天照大御神を認められるかにかかっているでしょ。それが認められないとイエスを認めなかったユダヤと同じ轍を踏むの。

 

各回転の始まりは一日目、三日目、五日目、七日目に相当するでしょ。それが人類の歴史の三回転半だと預言しているの。

 

これが三回転半で七日すなわち七千年目の、安息の至福千年の七つのお祝いに至るクンダリニーの火の蛇の回転なのよ。主の至福千年なの。主という漢字は三回転半を暗示しているように見えるでしょ。

 

その時に至り祝福を受けるための七つのチャクラの瞑想がチャクラのクンダリニーの瞑想なの。その瞑想においては空即是色の三柱の神様を悟らなければならないの。それには主イエスの肉を食べ血を飲むことから入らないと何も始まらないの。始まったとしても横道にそれるの。横道にそれたが最後、三行半の離縁状につながるのよ。

 

私が具体的にどのようなことを考え冥想を実践したかも近いうちに書く予定だから乞うご期待。

 

この記事書いている最中に二つの扉がパタパタ開いたわ。記事ネタ溜まる一方で追いついていけない。イエスは私から汲む者は渇くことがないと御言葉されたけれども私飲みすぎかもしれない。すでにお腹いっぱいなの。

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