このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

とってもためになるページ
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1183708.html (三柱の神の宇宙)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1152017.html (聖書において命の木のカバラの示すこと)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)

このところ記事書いていないから何か書いてみようかしら。テーマの決まっていないアドリブで、瞑想しながら。

 

ここ最近の記事で解脱とその後の梵天灌頂を意識させられたうえで記事を書かされるというメカニズムについて書いたのよ。それは私の理解では、神のプログラミングは命の息を与えられこの世に来た人間すべてに施されているということなの。

 

それにもかかわらず現代の日本はそのような事とはまるで無縁のような社会になっていて、それは私が生まれ落ちた時代からその様だったのよ。なぜそうなのかということが最近手に取るように理解できてしまっているの。

 

それはね日本人に関わらず人間はこの世に来るとこの世しか見えなくなるのよ。それは何を意味しているかというと、この世という短期的な利益の虜になっていて、釈迦やキリストのお諭しがまるで理解できていないということなの。

 

釈迦やキリストはこの世の煩悩に対する執着を捨て去り、解脱することをお諭しになっているでしょ。それはねこの世限りの短期的利益ではなく、中今からあの世に至るまでの長期的利益を視野に入れて生きなさいということなのよ。

 

そしてそのような視点を確保するためには神仏に対する信仰が無ければ不可能なの。そのような視点を確保した、イエスに直会した弟子たちの書簡が聖書におさめられているでしょ。その弟子たちの書簡を読むと、この世をはっきり悪と見定めなさい、この世のことはどのようなことも愛していけませんと書かれているのよ。

 

イエスは「あなたがたはこの世に富を積んではならない」「神と富とに兼ね仕えることはできない」と御言葉しているでしょ。素直に読解すると、この世の短期的な富に執着し仕える者は、神をおろそかにし、この世の富に仕えることで神を疎んじているというようにしか私には読めないの。

 

でも信仰のない人たちはこの世に仕えるすべしか知らないでしょ。だから身の回りで虚実や嘘がまかり通っているのを見ても、それをことさらにあげつらったりしたら不利益を被り、最悪の場合はこの世で不遇をかこつことになりかねないと判断し、その虚実を忖度し、自ら虚実に身を投じるの。

 

自ら虚実という神に敵対する悪に身を投じておきながら、それをそのようにはっきり悟ることをしないグレーソーンがそのような人たちの生きている世界なのよ。

 

そのように理解して、ああなるほどと思ってしまったら、そのような短期的利益に固執して、悪の片棒をかつぎ、怒りを招き滅びるのはまっぴら御免だわとなるわよ。

 

そのためにどこに尺度を求めるかと言ったら神仏しかないの。その尺度を持たず、この世にしか目のない盲人たちの金銭欲や虚栄や支配欲、利己心、その他諸々の悪などを忖度し調子を合わせていたら、完全に道に迷い、長期的に見れば完全に利益を失することになると神仏はお諭しになっているわよね。

 

自分の量るその秤で、量り返されると示されているでしょ。その秤の誤りを正すための行いの登竜門が解脱だと、梵天の灌頂により仏陀がお示しになったの。

 

自身の信仰のなさをよしとするということは、神を知らない自分をよしとすることで、それは神を侮り敵対するということであると、不信心な人は気が付かないの。

 

このブログ、解脱させられてしまったから書き始めたのだけれども、書き溜めるうちに、解脱後の大事なことまで手ほどきを受けてしまって、完全に浮世離れしてしまっているでしょ。

 

仕方がないのよ。まな板の上の鯉、竜門の滝の鯉で、包丁を握るのはイエスの父だから。

 

尺度の見極め方はイエスの御言葉として新約聖書にすべて書かれているわよ。

tenbin
 天秤って天の秤なのよね。梵天の秤よ。やっぱり日本語ってすごいでしょ。



聖書・聖句ランキング
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 神道へ
にほんブログ村

神道ランキング