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 先日ね、脳の心理的盲点という働きを改めて再認識させられたの。その日はねスポーツウォークマンに雅楽を仕込んで、それを聴きながら郵便局に支払いを済ませに行ったの。そして用を済ませて郵便局を出てから愕然としてしまったのよ。

 

局内で支払いやサインをしているときは音楽がまるで聞こえていなかったのよ。局を出てからいきなり音楽が聞こえだして、え? 何この感覚、さっきはまるで聞こえていなかったではないのと。もちろんその間スイッチやボリュームは一切いじっていなかったのよ。

 

人間の脳はね人の思いの重要局面において、その最重要事項を遂行するためには聞こえている音をシャットアウトしてまでも、その思いを快適に遂げさせようとするということを再認識させられたの。

 

そしてまたぞろ思い浮かんだのが玄倉川の水難者たちのことだったの。あの人たちのキャンプは、再三にわたる警告、そしてダム放流のサイレンの音までをも脳がシャットアウトしてしまうほど重要でかけがえのない楽しいものだったのよ。

 

しかし重要なことは人間の脳は、その思いを遂げさせるためには、死に対する警告までをも騒音としてシャットアウトしてしまうということなのよ。それが脳の心理的盲点による正常性の働かせ方なのよ。脳は人間の生命の安全を担保しないの。

 

だからこの世に来てグレーソーンで遊んでいるのが楽しい人たちの脳は、そのことの妨げになるような情報は聞こえていてもすべてシャットアウトしてしまうのよ。本人にはその耳に聞こえていても聞こえていないと同じ状態に置かれているの。私もグレーソーンで思い切り楽しんでいた経験があるから今ではよくわかるわ。

 

何度も書いているけれどもイエスはこの世は激甚災害の現場であると示唆しているわよ。そのように書かれている聖書が世界中においてベストセラーなの。この記事ではねくどくどとそのことを強調したいわけではないの。

 

脳がそのような働きをするのであれば、それを逆手にとってうまくコントロールしながら利用したらいいのではないの?という考えが浮かんできたのよ。

 

この世に来て神仏のお諭しがありながら何も悟らない自我をインドの哲学ではアートマンと呼んでいると私は理解しているの。

 

その自我が梵我を悟ることをブラフマンと呼ぶのではないのかしら。今の私はこのアートマンとブラフマンの差異とは人の思いとその脳の働きにより左右されているとはっきり自覚できるのよ。

 

アートマンとは煩悩を手ばなそうとしない阿修羅たちの自我で、その阿修羅が四苦八苦しながらも煩悩から解脱し自分を見つめた時に見えてくるのが梵我と言われるブラフマンなのよ。お釈迦様がその生涯によりそれをお示しになって仏伝として伝わっているでしょ。

 

このことはブラーフマナやブラフマ神すなわち梵天とも切っても切れない関係にあるけれども、そのことを取り上げると長い記事を一本書かなければならなくなるからここでは置いておくわ。

 

でもそれを悟るためにはどのように瞑想すれば理解しやすくなるのかはこのブログではもういくつも記事を書いているわよ。

 

ここではね脳の働きを逆手に取ることを考えたいの。アートマンの骨肉の自我から解脱してしまったら、最重要なのは霊肉の梵我に生き、その悟りを深めるということなのよ。そのために、不必要な騒音はシャットアウトするという脳の特性を十分理解しながら生きたらどうなるのというのがこの記事の主旨なの。

 

もとより解脱した阿修羅にとって骨肉の死などは問題の対象ではないのだから、脳がそのリスクを無視してくれていいのよ。というか脳はそのリスクは関知しないということは既に証明されているわよね。

 

そんなことしたら生きていけないのではないのと思うでしょ。

 

イエスは空飛ぶ鳥を見なさい。野に咲く花を見なさいと言っているわよ。その御言葉が飲み込めれば、死など問題外で花鳥風月を愛でながら明鏡止水の境地で遊べるの。

 

お釈迦さまは魔訶般若波羅蜜多として、偉大な悟りの智慧の完成ということをお説きになったでしょ。でもそれはあくまでも阿修羅に向けた訓戒であり、解脱した阿修羅にとっては完成などありえないと知れるはずなのよ。

 

梵天とは永遠に無限の実体でありその悟りの深さは永遠に達し得ないほど深いというのが真理なのではないの?その梵天の両脇に控えておられるのが如来と大自在天で、この三尊の阿吽の呼吸が無限の永遠性を秘めているのよ。如来の井戸から汲むものは渇くことがないの。しかもその井戸は底なしに深いの。梵我一如の真名井なの。ブラーフマナの井戸なの。

 

その汲む水のお諭しは虚空の中に蔵されているの。だから、常にその虚空蔵の井戸から命の水を汲むことを今世の重大事としてしまえば、脳はそれを正常性と判断し、そのことのために超スーパーコンピューターとしての実力を遺憾なく発揮してくれるはずでしょ。それが結界を超えた後に梵天界にデビューさせていただくための大切なお支度なのではないの?というのが直近における理解なの。

 

そのような意味において、この世に息がある限りは解脱が完成ではないわよ。解脱は単なる登竜門なの。その登竜門をくぐった先においてはじめて一大事のお支度が始まるのよ。

 

協同組合にいる人はそこでの同調圧力に屈し、最重要事項を見極めることを怠っていると、脳もそのようにしか働かないわよ。その見極めの尺度はわかるわよね。誤った判断により神仏以外のことをその尺度とするからお陀仏となるの。あなたが誤れば、あなたの脳はそれに追随するわよ。


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