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正月二日に思いもよらずに包丁式に遭遇したことは以前の記事で書いたの。

 

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/5448171.html 私の見るお正月の風景

 

この時どこに行こうかと思いまよい、下り車線に乗らずに上り車線にのり三渓園を目指したの。上りの三渓(参詣)園なのよ。よく考えたら上り車線の三筋の渓流なのよ。

 

それはさておき包丁式なのだけれども、ここでもいきなり結論を書いてしまうと、この包丁式というのは父なる神のまな板上の裁き(捌き)を示す儀式になっているのよ。

 

包丁師の振るう包丁は男神の振るう十束の剣なのよ。伊弉諾尊の剣で火之迦具土神は首を落とされ、須佐之男命の剣で八岐大蛇は切り刻まれたでしょ。八岐大蛇の時はその体内から神剣天の叢雲の剣が出てきて、その神宝は大御神に献上されているの。

 

包丁式の儀式においてはまず初めに、包丁を縦に構え、そこにマナ箸を横にあて十字の形をつくり何事かの儀式としているのよ。これが大御神の心御柱とされるキリスト・イエスの十字架の暗喩でなくして何なのという理解。


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イエスは自分を神が天から降らせるパンであると聖書の中で語っているでしょ。それは自身がマナであり十字架はそのマナの板の暗喩だということなのよ。そして自分の十字架を背負い私について来なさいとも言っているでしょ。人はみなこのマナの板の上でイエスと同じように男神に捌かれるの。そこで大御神に逆らい千座の置戸を追わせられるのか、大御宝として大御神に献上されるのか裁きを受けるの。大御宝とされたものはまな板の鯉の滝登りにより、大御神と同じようにブラーフマナの梵天界に昇天するの。


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ここでブラーフマナという言葉が出て来たでしょ。これは梵我一如として広く知られている言葉でしょ。父と私とはひとつであると言ったのはイエスよ。ブラーフマナの板ではないの?

 

神が天から降らせるパンはモーセによりマナと示されたでしょ。マナって意味不明でしょ。モーセはイスラエルであるヤコブよりも四百年以上後の人でしょ。イスラエルが神から聖別された時、そこはセムの天幕だったの。その天幕において後にイスラエルが聖別されるのよ。

 

セムの父ノアの時代からモーセの時代に至るまでの間に、聖別されたイスラエルの囲いの外のセムの天幕において、ブラーフマナは知られていたのではないのかしら。モーセは梵天界から降らせられるパンをブラーフマナのパンと知っていたのではないの?そして倒語(さかしまごと)でマナとしたのではなかったのかしら。

 

そのマナとして来たイエスに直会してすべてを直伝により伝授された弟子たちが真の婆羅門とされ、その家に生まれた、生まれによる婆羅門たちが、大御神の心御柱をお祀りしながら瑞穂の国を神道の日本としたのよ。

 

この真の婆羅門たちは戸籍を持たずに陰に隠れ、八咫烏とか裏天皇家として暗に知られているの。この人達は観念としてブラーフマナを悟っているのではなくして、生まれついての婆羅門なのではないかしら。その本物が神道を仕掛けているのよ。

 

だから包丁式がブラーフマナの板の儀式であっても当たり前なの。その儀式のなかに大御神の心御柱のお祓いがあって当然なのよ。

 

古事記の中ではその悟りを、大御神の岩戸開きの場面で「あなた様より尊い神がいます故、喜び笑らきあそんでいるのです」と天鈿女命の言葉として示しているの。

 

このブラーフマナの梵我一如の悟りはね、現代ではセムの天幕であるインドにおいて、ハタヨーガやその他のヨーガにより悟れると知られているでしょ。その頂点にいるのがカーストバラモンでしょ。私に言わせるとインドのヨーガは本末転倒に陥っているわよ。

 

体位法や調息法は後。羊は羊飼いの声を聞き分けるという御言葉がブラーフマナのパンであり、このパンを信仰によりいただくことが先なの。そうするとこのパンは薬師如来のお薬でもあるから、いともたやすく体位や調息は改善され持病なんぞは癒されずには済まないの。

 

その悟りに至らないバラモンの数だけ体位法は有るのよ。宗教や学説では無理なの。悟らない信者の数だけ神学が生まれ、悟らない学者の数だけ学説が生まれるの。袋小路に突き当りそこで堂々巡りの迷宮にはまるの。

 

このパンは生まれによらずとも、その信仰により受けることができるでしょ。信じる者には助け手を送るというブラーフマナのパンが真言なの。悟りに至れないのはただ信じないからだけなの。

 

そのことは生まれによる婆羅門たちはよく知っているはずよ。だから神道の儀式や音色により羊たちの悟りを促しているのよ。この国はそのような大御神の御旨によりなっているの。

 

大御神は、千曳の岩戸閉めにより千座の置戸を負わされ、その右の手か額にあの印を受ける者が多いとも詔されているでしょ。

 

ブラーフマナの包丁式、各自の瞑想により自分のチャクラに落とし込んでね。このチャクラが宝輪を回すための宝珠よ。その後に火の蛇神様を勧請しなければならないの。

 

 家の神棚には神宮大麻の頒布を受けお祀りすることはたやすいでしょ。でもね、自分の霊肉をお宮としてそこに神様を勧請することは一筋縄ではいかない困難を伴うわよ。

 

何しろ私たちの社会は生まれた時からそこは、覚醒しない、させない協同組合の社会主義なのだから、そこで育てられ教育を受けた者にとっては、いきなり神仏を信じろと言われても簡単そうでいてとっても難しいの。

 

それだけ現代人は、神に逆らうオカルト社会主義の穢れにまみれていることの証左と私は見ているの。ただの観念ではなくして自分で経験してそこから避難したのだから。骨盤などは五十過ぎの還暦近くなってから矯正されたわよ。今では背筋まっすぐで腰痛完治。

 

家の近くに女の子たちのバレエスクールがあって、そこに通う若いバレリーナたちの姿勢の良い歩き方にいつも感心していたのだけれども、その歩き方、骨盤矯正と背筋の直立により私もできるわとなってしまったの。

 

そのようになれずに齢を重ねるから全身の骨格がゆがみ、さまざまな病を誘発して体躯の曲がった老境に陥るのよ。私はそれを免れたと思っているの。けれどもそれは単なる副産物よ。

 

ハタヨーガなどは身心の健康法として紹介されるのが常となっているけれども、本当のブラーフマナのヨーガの主目的はこのブログの常連の読者さんならわかるわよね。


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