このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
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皆様新年あけましておめでとうございます。どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

 

今年の記事初めは何を書くかまだ決まっていません。たまに試みるのですがアドリブで書き進めてみたいと思います。去年の暮れにいきなり弾みがつき十二月は何かに引きずられるように記事を書かくはめになり、私の印象では神様に書かされているとしか言いようのない事態に遭遇していたことはその都度の記事でも記述していたことですが、全くその通りなのです。

 

とここまで自然に書きつらね、ふと、去年までのおかげ参りのキャラとまったく文体が違っていることに気が付きました。書き始めるまで全く意識していなかったのですが、今年はこのキャラで行くことになるのでしょうか?今のところ何とも言えません。

 

が、このまま書き進めます。このブログなのですが去年の暮で一区切りついてしまったように思っているのです。七月から書き始めて十二月末までの記事を振り返ると、年越しの大祓に向けて書かされていたとしか思えないのです。

 

そして古事記と聖書をもとに読み込んだ大御神の倒語(さかしまごと)はやはり、一言で表現したら大御神の大祓の一言で表現できてしまうように思います。そしてその根幹は去年の内にすべて書ききってしまったという感が強いのです。

 

このブログで私が表現したかったのは、大御神の大祓は、毎年二回、年ごとに夏越しと年越しで二度めぐってきますが、それは幽世からこの顕世に映された型であり、本当の大祓は一人一人にとり一世一代の大事なのです。

 

そして、あなたはこの大祓の時に大御神のもとに参集するのですか、しないのですかということなのです。参集しないと決めている人の右の手か額には例外もなく使徒ヨハネが示した印がつけられているということなのです。

 

このような主張は完全に世の中との調和を欠いているということは重々承知で書いています。しかし私に言わせれば、今の世の中は神仏のメッセージを完全に無視することで正常性を保っています。その正常性にはとんでもないバイアスがかかっていると私は見ているのです。現代社会は正常性の偏見により成り立っているのです。それが何を意味するかは去年までの記事ですべて書ききってしまいました。あとは同じことを繰り返しながら、その末節を細かく書いていくことになるのでしょうか。

 

年頭につきここで少し自分のことを書いておきたいと思うのです。このように世間と調和を欠く私とはいったい何者なのか、それは昔から私の胸に去来していた思いでもあるのです。それは今から三十年も前に私の思いの中に入り込んでいました。

 

当時私はそれが気になったので書店で四柱推命について書かれた本を買い込み読み漁りました。その本に書かれている方法で自分の命式を作成し読み取っていくと奇天烈なことが書かれていたのです。

 

私の命式というのは極端な偏りを示すものだったのです。命式の偏り具合を示すためにその著者は二つの例を挙げていました。一つは独裁を暗示するムッソリーニという人、それよりも激烈な暴力志向で偏っているもう一人は、少しオカルトっぽいのですが、ある女預言者が預言した反キリストの命式なのです。そしてその激烈な暴力志向を示す反キリストの命式よりも私の命式は一段と偏っていたのです。

 

そしてこのブログを書いてゆく中で一記事書きあげる度に、私とはいったい何者なのかという思いが二たび、三たび思い起こされ、その本を取り上げもう一度確認してみました。

 

四柱推命という物がどこまで、またその著者の読み込みがどこまで正確に人の運勢を反映しているのかは定かではないのですが、その本で示しされている私の運勢を読み込むと運気が強く行き過ぎていて、吉と出るか凶と出るかわからない極端な運気、性格になりやすいのだそうです。

 

したがって社会の枠組み、調和から外れるため異常な成功を遂げる場合もあれば、社会から拒絶される場合もあるそうなのです。そのように書かれているのを改めて読み直してみると今の私そのものなのです。これが私の運勢であるのなら、自分とはいったい何者なのかの答えになっているのです。

 

私にとって成功とは一体何なのか、つきたい職業もなく、世の中に対する肯定的な視点ということなど長年にわたって欠いていた私にとって、わかるはずもなかったのです。良縁と子宝に恵まれ家運隆昌、そして名誉と富貴を得て人生を飾るなどということは私にとっては何の成功とも意識できなかったのです。

 

しかし気が付いたら自分にとっての一世一代の大事業に成功してしまっていて、それは全く思いもよらないことで、しかも世の中の常識から完全に外れていて、調和を欠いていることだったのです。

 

自分で自分のことがよく理解できずになんとかなってしまうというのが私の運勢だったようなのです。そのための人との出会いや物、本やレコードなどその他の事物の引き寄せすべてが想定外の成功に結び付いてしまったように感じているのです。

 

そのような運勢の持ち主でないと羊飼いの声を聞き分けることはできないのでしょうか。周りの人たちを見ているとそうなのかもしれません。しかし鎖につながれながら辟易していてなんとか自由になりたいと願う羊たちで、羊飼いの声を聞き分けなければならない人たちはいるはずだと思うのです。

 

大祓のため大御神のもとに参集せずにはこの世を終われない羊たちは絶対にいるはずなのです。私のような世間との調和を欠く異端者がブログを書くのは、そのような羊たちが羊飼いの声を聞き分けるための手引きが他に見当たらない中で、私が自分の経験に基づき書き記すことは何らかの役に立つはずだと思うからなのです。

 

それが大御神の大祓にその召使いとして助力することにつながり、功を奏せば新奇な賜物が下されることにつながるのです。それも修行なのです。神様からの喜捨とお布施と賜物と、お供物の関係性なのです。だからもう私の中には何の気負いも衒いも皆無なのですが、これからも多分書き続けることになるのだと思っているのです。

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