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前編の記事で茅の輪くぐりと大祓について書いておいたでしょ。そのことを思いついたときにこの国はこんなことで良いのかしら、という思いも同時に浮かんできたの。

 

神道では茅の輪くぐりや大祓についてその由来を、古事記の神代などに遡って説明していて、それはまちがいではないのだけれど、どれも的を射ていないでしょ。そのことを思っているときにイエスのふるった縄のむちを思い出してしまったのよ。

 

ここからが本日のハイライトなの。イエスがエルサレムの神殿に入った時に、そこで生贄の動物を商う商人たちや両替商の台をひっくり返し縄のむちで動物を追いはらい、こんなものはすべてここから運び出せと激昂する物語が聖書に書かれているでしょ。

 

この物語の深層について気がついてしまったの。神殿の商人たちは生贄をささげることは聖書の律法で規定されている事だし、有り難い神事に携わっているつもりだったはずなの。

 

しかし神の人イエスは激怒したのよ。これなぜだかわかるかしら。イエスの目にはそこでの商いが六百六十六の商いとして映っていたのよ。聖書で神さまが、動物を身代わりの生贄として捧げ、その罪を動物に肩代わりさせて、罪の許しを贖うということを示しているのに、それが何を意味するか、当時のイスラエルでは悟られていなかったということなの。

 

そのような有り様で神殿での商いにより生計を立てる商人たちをイエスはお許しにならなかったの。

 

ここまで理解が進めば、そのことに由来するこの国の神道も神事の意味を全く理解できていないでしょ。天照大御神のお祓いが罪の贖いのためのお祓いで、人形に罪穢れを肩代わりしていただくということの意味を日本人はまったく理解していないでしょ。

 

罪の贖いとは、大御神のお祓いなのよ。そのお祓いにより罪を許され贖われるの。罪の中にありサタンの娼館に売り飛ばされていた娼婦たちが、大御神のお祓いにより罪を贖われ、神様に買い戻されるということなの。

 

そこにはその罪に対する悔い改めが伴わなければ買い戻していただけないということは大人ならば理解できるはずよね。しかしユダヤの神殿商人も、大祓を受ける日本人もそのことを理解していないでしょ。

 

だからお祓いを受けながらも平然と六百六十六の商いを続けているでしょ。そのことにイエスのむちが飛んだの。

 

そのように思い、ああそうなのねと理解できたときに、最近の御朱印ブームのことが頭に浮かんできたの。そして即座に、ああ神様からいただく御朱印とは、虚空蔵求聞持法により大自在天からもたらされる納采の儀のお印だわ。それがイエスのお遣わしになる助け手からのお印で、イエスから賜る明けの明星でもあるのよ。

 

黙示録のヨハネが「この世の初めから神の命の書に名前の記されている者の額に、神の御使いが印をつけてしまうまで…」と記述しているそのお印が、天照大御神から賜る御朱印でなくてなんなの?

 

私は御朱印集めしないわよ。真正の御朱印をすでに大御神からお受けし、六百六十六の売り買いからは完全に足を洗っていただいたからね。イエス様に足を洗っていただいたの。

 

そのようなことを知らずに有名神社で御朱印を受けるための行列に並んでも、イエス様から足を洗っていただくことができると思う?

 

大御神の十字架上での罪の贖いによる、犠牲の死と復活の意味を悟り、その上でその死を招いたことに対する悔い改めがないまま、足を洗っていただくのは不可能だと、大人ならわかるはずでしょ。

 

神道によりご利益を受けると信じている日本人でも、悔い改めずに、そのまま六百六十六の売り買いを続けていれば、その売り買いが功を奏して、反ご利益の負債となり、結界を超えて神殿に踏み込んだ時に、大御神の縄のむちが飛ぶのではないのかしら。そしてその場所から追い払われるの。

 

もはや聖書は私にとって、別名、虚空蔵求聞持書とか、大祓の書ともいえる書物なの。


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