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「後のものが先になり、先のものが後になるという」聖句が聖書に書かれているのよ。もうどこの何章何節などということはどうでもいいでしょ。聖書を読めばそう書いてあるのだから。この「後のものが先になり、先のものが後になる」という聖句を「先のものが後になり、後のものが先になる」と逆さまに記憶していたとしても何の問題もないわよ。

 

神学を学ぶ教会キリスト教では×だとしてもね。要はどのように読解しているかということ。この聖句はね神様の農場で働いた人は先に来て働いていた人も、一日の終わり近くに来て働いた人も、後から雇われた人から順に、同じく3万円支払ってもらえるということなの。聖書では1デナリオンとなっていたとしてもその金額すら問題にならないわ。

 

要は、支払いは同額なのだと読解できればいいの。聖書の聖句はね、その解釈が教会キリスト教徒の独壇場でしょ。日本人の教会キリスト教徒の比率は約百人に一人なの。それほど日本人に嫌われているということなの。逆に教会キリスト教徒にすれば百人に一人という枠の中で救われていると思うのでしょうけれどね。教会の空中携挙なんか金輪際ないわよ。そのようなことは聖書中に一字一句も見いだせないの。ローマ人がイスラエルの神の道を自分たちの好みに合わせ宗教化して編み出した、自分たち教会は救われる論なの。だから日本人から嫌われるの。そのことが日本人を聖書理解から遠ざけるという猛毒をはらんでいるのよ。だから日本人教会クリスチャンに同情する気はさらさらないのよ私は。

 

でもね、聖句はね天照大御神の真言なの。「後のものが先になり、先のものが後になるという」真言を日本人はどう読解するべきかというとね、大御神の僕としてこの世で働きに出た者は、古代の先見者であろうと、ダビデやソロモンという王であろうと現代の市井の凡夫であろうと、人種に関わらず、分け隔てなく同じ報酬をいただけるということなの。

 

奴隷船から下船し、この世で神様の農場で働く働き人となった人は菩薩とされ、後の世でみな等しく如来とされ、先見者も、預言者も凡夫も分け隔てのない報酬に浴するとお釈迦さまはお示しになっていたの。それが命の木から取って食べることを許され、永遠の命に与ることを許されるという天照大御神の真言なの。

 

逆もまた真なりでその賜物に隔てはないの。どちらを賜るとしても神様の賜物だから有難く、お愛でたいの。それが日本人のお正月のお屠蘇の盃なの。

 

次のターゲットは葬式仏教徒かしら。今の日本人は9割がたがこの教徒。お呼びがかかれば否応なく黒ずくめでしょ。私もそのしきたりには従うけれども日本人の弔いは仏教でなくても何の問題もないわよ。仏さんの生前の遺志と喪主さん次第ね。


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