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この世の奴隷船とはね下り車線なの。当然上り車線もあるわよ。この下りの車線と上りの車線が、神様が園の中央に生えさせられた日本の木なの。まちがえた。二本の木なの。下りの車線が善悪を知る木。人はこの世に来てまだ裸でも恥ずかしいと思わない頃に、サタンの唆しを受けこの下り車線を走行し始めるのよ。物心ついたときにはそれが当たり前になっていて、その行為自体が神により、死ぬから取って食べるなと戒められているなどとは思ってもみないの。だからこの世に来たら人は神の言葉の通りに一度死ぬの。

 

でもそこには神様の奥義があり死は二度ある事がイエスの弟子により明らかにされているでしょ。最初に取って食べたのはアダムの助け手として創られたイブだったけれども、アダムもイブから手渡され食べたでしょ。そうしたら裸である事に気が付きいちじくの葉で体を隠したでしょ。そして神に呼ばれたときに「サタンがだましたので取って食べました」と懺悔して、神様から皮衣を賜ったの。

 

そして神様はもう一方の命の木からも取って食べ神のように永遠に生きるかもしれないとして、エデンの園の東にケルビムときらめく炎の剣をおいて命の木への道を守らせられたの。

 

このアダムとイブの物語はメシアとその助け手の僕の暗喩なの。その僕たちの罪を身代わりになり肩代わりしたメシアが僕たちと結ばれ、命の木への道を守らせられているの。創世記の冒頭から神様の救済方法が暗示されていたのよ。

 

人はみなこの下り車線を走行しながら奴隷船の中で暮らしているの。その奴隷船に仏陀やキリストが遣わされ救済をお説きになったの。しかし奴隷たちは馬耳東風。しかしね、その奴隷船の中には、そこでの常識が手かせ、足かせになり重荷に感じ、なんとか自由に生きられないものかと模索する奴隷たちもたまにいるのよ。そのように救われることを望む奴隷がメシアである羊飼いの声を徐々に聞き分けるの。そして奴隷船から脱出し川面に飛び込み遡上を始めるの。

 

これは何のための遡上かというと下りの車線から上りの車線に乗り換えるための遡上でもあるの。下り車線の出口から降り、上り車線の入り口を見つけるまで右往左往するのよ。この上り車線の入り口がケルビムときらめく炎の剣で守らせられていると創世記に示唆されているの。御用のないもの通しやせぬ、と守らせられているでしょ。

 

この入り口を見出すのがイエスの御言葉の「狭き門から入れ」ということでしょ。「求めなさい、そうすれば与えられる。叩きなさい、そうすれば開けてもらえる」とも御言葉にあるでしょ。

 

この入り口を見出し通してもらうにはイエスから助け手を送られなければ無理なの。大自在天という助け手の虚空蔵求聞持法によらなければ見いだせないし、扉は開かれないの。そこで示されているのが神仏による解脱、悔い改め、禊の作法なの。この作法を正しく修することにより、命の木に与ることを許され衣を洗い清めるということなの。聖霊の洗礼を受けなければ聖しとされないのよ。

 

でもそれに成功するとね、入り口を示されETCカードを賜物として受けるから、手前にまで達すれば入り口のバーはすっと上がりスルスルと入っていけるの。実際その渦中にあるとすべてが神変と感じるはずだけれども。ケルビムときらめく炎の剣の入り口を通らされるからね。

 

遡上を始めてから竜門の滝を上らされるという一連の流れは、この上下線の乗り換えの譬えでは下り車線の出口から降り上り車線の入り口を通過するまでのことなの。神の禁じた善悪を知る木から取って食べ、善悪を知り神様に懺悔し、悔い改めの禊を通して命の木に与ることを許されるということなの。

 

さらっと書いているけれどもその渦中では動揺しっぱなしだったわ。上りの車線を走行させられて、最初のPAで相当長い時間振り返りのための休憩取ったからね。そしてね、そうさせていただいたおかげ参りとしてお伊勢様に参拝したの。そこで不思議な風にあおられたことはだいぶ前の記事に書いておいたわ。そして帰ってきたらこのブログを立ち上げさせられたのよ。別のこと考えていたのだけれど。

 

今ではね毎朝起きると天の真名井の龍神様の井戸から生ける命の水がこんこんと湧いて出でて、死にかけている残りの者を強めなさいとお諭しを受けているの。生き死ににかかわる問題なのよ。死にかけている人を見たら、見ない振りできないでしょ。それはメシアに諭される以前の問題でしょ。そんなことを考えながら、菩薩とか如来とか虚空蔵とか考えていたら神道の本物の恐ろしさ見せられてしまったわよ。

 

やはりね、最後は天照大御神の神の道なの。下り車線と上り車線が表裏一体の日本の木なのよ。また間違えた。二本の木。それは神道でどのように示されているかというと、お正月のお屠蘇の盃なの。屠りの木と蘇りの木なの。下り車線は行きつくところまで行っても、大晦日に切り倒される屠りの木なの。善い実を結ばない木の根元には斧が置かれているのよ。

 

羊飼いの声を聞き分け上り車線に乗り換えた羊は大晦日に如来として復活させられそこでメシアと三々九度の固めの盃を交わすの。菩薩ヨハネはそれを子羊の婚宴と示しているでしょ。神様は六日でこの天地を創造され七日目にはすべての業を終え休まれたのよ。この七日目が子羊の婚宴で、七つのお祝いの安息日の大晦日なの。だから人はこの世に来て六日目までに良いお正月を迎える準備を整えなければならないの。七日目の大晦日の一夜飾りでは間に合わないの。

 

この七日目は七千年目として千年の宴が催されるのだけれど、サタンはその千年の間縛っておかれ、千年紀の最後に縄を解かれ暴れるけれども最終的に闇に放り込まれ、そこにはあの獣や偽預言者もいるとヨハネは示しているでしょ。この獣や偽預言が奴隷船の中で奴隷を囲っていた盲人の頭たちでしょ。

 

古事記では千座の置戸を負わされ祓われるとか、千曳の岩戸閉めと示されているけれども皆七日目の千年紀の禍事を示していたのかしらね。下り車線の大晦日の一夜飾りでは年を越せないの。年を越すにはね神様がその業を終えられる六日目までに求聞持法で上り車線に乗り換えてなければならないの。この六日目までとは人にとっては命の息のあるうちなの。

 

この上り車線が将来如来となる事を約された菩薩たちの菩薩道であり命の木へと至る道であり、神の道の神道であり、通りゃんせの八正道の細道なの。反対車線が六道の悪趣へ至る道なの。この六道から八正道へと大自在天の大自在七力によりポイントが切り替えられるの。八正道へと切り替えられた菩薩にとってはこの大自在天が七福神なの。逆らった奴隷たちは七殺の祟りで大晦日に雷に打たれ死ぬの。

 

七福の固めの盃の婚宴の翌日は晴れて夫婦の暁でしょ。その時にはすでに悪因悪果の木は切り倒され、残された善因善果の命の木が都の中央に生えているの。天のエルサレム、高天原の平安京への上り車線なのよ。その暁の時が真の岩戸の開ける時で、お屠蘇の盃の本当のお正月なの。君が代では千代に八千代にと謳われているでしょ。三々九度の固めの盃と、お屠蘇の盃のお祝いの歌よ。

 

日本人にとっては自分の先祖、親族たちと袂を分かち、自分だけ上り車線に乗り換えるということは、目の前が真っ暗になるような、身を切られるような思いが去来するの。外人さんたちには馬耳東風でしょうね。寝耳に水かしら。

 

それが失われたイスラエルに課された定めなの。目の前が真っ暗になり闇に閉ざされなければ天照大御神の岩戸は開けないのよ。そこに神様の恐ろしさを感じるでしょ。その畏怖の念をしっかりと受けとめ、すべてを捨てて神様に僕としてつき従うという覚悟がなければ乗り換えることはできないわ。

 

奴隷船の中で政治や宗教を極めたとしてもこの世限り。その他の学芸や娯楽も同じこと。奴隷船の中のミュージアム、スタジアム、コンサートホール、寄席、魅惑的に肥大化しているゲームセンターやアニメやハリウッドなどは奴隷を奴隷船につなぎ止めておくための六百六十六の鎖なの。

 

早く断ち切って川に飛び込んだ方が良いと思うの。切り倒されるわよ。と、ここまで書いて思うのだけれど、たとえそうだったとしても、この世で結び固められた愛妻や子供たちを残して自分だけ離脱できないと思うような高潔な阿修羅君たちもいるはずよね。そのような阿修羅君たちは愛妻や子供たちのために自分がこの世でメシアとならなければ済まないという定めを負っているはず。そのようなことも追々書いてみようかしらね。

 

この記事詰め込み過ぎかしら?お屠蘇なのよカバラは。


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