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龍神様のうろこって81枚あるのだって。今日初めて知ったわ。九九八十一でしょ。菊理媛(くくりひめ)と龍神様は同一神と言っているのよ。白山比咩神も同じ。この八十一枚の内の喉に生えている一枚が逆さまに生えていてその逆鱗に触れると怒りを買い即座に殺されるのだって。

 

龍神様はイエスでしょ。イエスは「私のことを信じない者が私を殺すのである」と御言葉しているでしょ。神仏を信仰している気になっている篤信家は世の中にたくさんいると思うのだけれど、イエスの御言葉に従い悔い改め、その僕としてこの世を終えなかったらキリスト殺しの罪を帯びたまま結界を超え、龍神様の逆鱗に触れると理解している篤信家はどのくらいいるのかしら。

 

仏弟子でも成仏せずに結界を超えるのが当たり前の世の中でしょ。世俗ではなおさらなの。誰にも親族がいて高齢者から順番に結界を超えてゆくでしょ。その時にこの世で成仏できなくても、あの世で成仏し冥福がありますようにという遺族のニーズがあるでしょ。そのニーズに呼応しているのが今の葬式仏教なのだけれど、弥勒菩薩の御言葉を真っ向から無視しているでしょ。

 

この世で成仏しない者は時代を遡って、十字架上で弥勒菩薩を殺した罪をまとい結界を超えるとはっきり悟ろうとしないのよ。弥勒菩薩は慈悲の救世主であるけれども、逆鱗に触れた者には峻厳さをもって大ナタを振るわなければ、従った僕たちに示しをつけバランスを保つことはできないなどと思ってもみようとしないのよ。

 

この世で放蕩していても仏陀の御慈悲で成仏させてもらえるという甘ったれた宗教と化しているの。そのことはね、同じ釈迦族出身の弟子により教えを無視された仏陀の時代に既に萌芽していたの。

 

でもね、そのようなことを人に教えようとするとその人の正常性バイアスにふれることになり、人はそこにふれられるのをだれもが極端に嫌がるから無理に諭そうとするとその人の逆鱗に触れることにつながるのよ。もはや私のブログは友人知人に記事更新通知出せないレベル。

 

「善い実を結ばない木の根元には斧が置かれている」と言ったのは洗礼者ヨハネなの。この斧は、弥勒菩薩は振るわないと思うの。慈悲の神様として許しっぱなしなのよ。大鉈を振るうのは破壊神として知られる大自在天と私は思うの。この慈悲の柱と峻厳の柱で均衡を保つのが梵天として知られる天御中主の神様なの。慈悲に甘えることばかりでなく峻厳な目でこの世を正見しないと結界を超えた後にバランス保てないわよ。神様の怖さ知ろうとしない阿修羅ばかりなのよ。


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