このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。
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http://sakasimagoto.blog.jp/archives/947242.html  (イエスは御父による人類のいいなづけだった)

 今日は久々に五記事目。実はもうこのブログから離れ自分の生業に専心しようと思っていたのよ。だからしばらく書かなかったの。もう自分の気持ちの迷いは失せて、ぶれない不動心というものが分かったから過去の経験で絶好調であった時期を凌駕して生業に精を出そうと思ってブログ捨てる覚悟だったの。

 

もう自分が知り得たことは包み隠さず全部出し切って書いたからもういいでしょと思っていたのよ。そうしたらね、意味不明の無気力、まったくのやる気のなさに見舞われたの。なにこれ?という感じ。そしてね、台風19号の接近に伴いなぜが玄倉川の水難事故が思い出され、それにより思いを新たにされたのよ。神様の救命隊とか、大自在天のレスキューとか今日の記事で書いたことは台風19号の暴風と豪雨で安アパートが揺れる中で、あ~、風神と雷神と龍神様がこられている、とか瞑想しながら得た着想なの。

 

なぜ19号の襲来の直前で玄倉川の水難事故など思い出して記事に書いたの?という感じなの。そして今日四記事書いてわかったの。菩薩ヨハネが六百六十六の印を右の手か額に受けなければ売り買いをできなくされたと書いていたことの意味が。薄々とは気が付いていたことだけれどもやはりそうだった。イエスは、金持ちは天国には入れないと宣言しているのよ。はいれないでななく、いれないなの。神と富とに兼ね仕えることはできないとも言っているでしょ。カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返しなさいとも。お釈迦さまは乞食(こつじき)の人だったでしょ。梵天と弥勒菩薩の喜捨とお布施により食を乞う道の人として教えを説いていたのよ。

 

大自在天のレスキューによりその列に加えられたら売り買いできなくされるの。それでも現代はバビロンのシステムが行き届いているから、生きていると嫌も応もなく請求書は来るでしょ。それでも弥勒イエスの御言葉が絶対なのよ。お釈迦さまはバラモン教のはびこる宗教地帯で破格の人だったので長者たちが喜んで寄進をし、その喜捨により祇園精舎に弟子を住まわせたでしょ。その弟子たちは救命隊としては機能しなかったけれども仏陀の救命法を後世に伝えたでしょ。現代法滅の弟子たちは最悪よ。仏陀の救命の経を、死んだ阿修羅とその親族の弔いの席で聞かせて、そのような何の功徳にもならないことで仏陀にかこつけ布施と称して、葬式代金をまきあげて、成仏とか言っているのよ。最悪でしょ。私の目にはそう映るわ。これが仏陀の示した正見だと思うのだけれどどうかしら?

 

話がそれたわね。何が言いたかったかというと本当に大自在天からレスキューを受けてしまったら、神のものを神に返すのが本業の正業、カエサルのものをカエサルに返すのは副業としてしか営めなくされるということなの。神様とのお布施と喜捨の関係が正業で、商業は副業としてしか営めなくなるというのが八正道の正定の定めということなのよ。それを菩薩ヨハネは言っていたのよという理解。

 

この世は幽世の映しなので涅槃と六道の悪趣が同時に映されているから解脱救済のレスキューを受けるのも大変だけれども、受けた後もバランスを取るのが大変なのよね。仏陀の示した菩薩の八正道が杖になるの。やはり仏陀という人は思ったとおり、メシアの婚約者の教育係としてリクルートされた花嫁修業のお師匠なのよ。駆け出しの身には修行はまだ緒に就いたばかりなの。でもなんとかバランスを取り戻せそうだわ。


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