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 私ね、聖書一本やりで求道していたから仏伝なんて深く学んだことなかったの。でもね、ある時キリスト・イエスのことで御霊に感じ、神気にうたれた時があったのよ。その時にこれってもしかしてお釈迦さまが御説きになっていた解脱と関係ある?とふっと思ったのよ。そうして瞑想してみたら関係が大ありだったの。そのことは他の記事でも書いてきたけれども、だからと言って仏伝なんかいまさら深く学ばなくても別にいいわ、仏陀の預言した弥勒菩薩から助け手を送られてしまったらもう必要ないでしょと思っていたの。

 

そして二つ前の記事で「この世に息があるうちにお迎えを受ける」なんて記事を書いてしまったら、ああ、もう私もこの世のものではないわとあらためて実感したのよ。でもね、イエスやお釈迦様が御説きになったことはこの世に対する執着を捨てなさいということなのよ。この世に対する執着を捨て得た時に初めて高天原の父からお迎えが来るのよ。生きているうちに。

 

イエスの聖書にはそのことが記されているわよ。仏伝ではそのことが梵我一如として伝えられているでしょ。聖書も仏伝も世界宗教よね。でもね、私は、宗教は極めてこの世的な生業に属していて、宗教では命の息があるうちにお迎えを受け、梵我一如を実感することは不可能だと思うの。

 

キリスト教の誤謬は神を三位一体としたことよ。そんなこと宗教会議で決めるという感覚が私に言わせればお陀仏。そして仏教についても改めて考察し始めているのだけれども、仏教は釈迦を如来として神の上位に置いたでしょ。ヒンズーで示されていたブラフマより上位の如来としたでしょ。それが十大弟子の悟りにより仏伝として伝えられ、世界中で釈迦を崇めているでしょ。それじゃあ解脱は釈迦しかできないわけよね。

 

そして解脱は釈迦にしかなし得ない魔訶般若として権威付けし、その権威で生業を立てているでしょ。それが仏教なの。そのように観世音したからよく考えてみたの。現状で分かったことを私見として書いておくわね。菩薩とは将来御父のもとで復活を約された解脱者たち。釈迦もこの範疇なのよ。如来とは菩薩としてこの世に来た弥勒菩薩が御父の御旨に従い救世の大業を成し遂げられ、この世で死を受けながら三日目に如来として復活して当時の菩薩たちの前にそのお姿を現したことを物語っているの。

 

そのお姿を見たわけでもないのに見たのと同じように信じ、悟る者に神様からお使者が遣わされ来世で高天原の神宮におかげ参りを許される菩薩としていただけるの。菩薩たるも如来たるもすべて神の御旨に沿い奉るか否かにかかっているのよ。だからイエスは父の御旨を行う者が天の国に入ると御言葉したの。

 

キリスト教も仏教もつまずいているでしょ。神道は飲み込んでいるわよ。キリスト・イエスは菩薩行を終え如来となられたから当時の菩薩にしかそのお姿を現さなかったの。それが岩戸開きだったの。天照大御神の岩戸が開け、弥勒菩薩が永遠の命をもたらす薬師如来となられたことを古事記は、神道は、この安国の国生みとして伝えているの。見たわけでもないのに、まるでそれを見たかのように信じる者にならなければ如来をお遣わしになった父なる神からお迎えを受けることはできないわ。天照大御神をお遣わしになった尊い神様がいますことは古事記にはっきりと記述されているわ。というのが現状での私の理解。参考になればいいと思うけれども、お迎えを受けながらこの世に留められているということは、まだ学びが足りていないということだから至らないところは大目に見てね。


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