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 マタイ二十五章

「十人のおとめ」のたとえ

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

 

「タラントンのたとえ」

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 

このマタイ二十五章のイエスのたとえ話にも二匹の魚と五つのパンのイエスのふるいが示されているわ。「十人のおとめ」のたとえでは二匹の魚は隠れているけれども愚かなおとめ五人と賢いおとめ五人が二匹の魚として折りたたまれているのよ。愚かなおとめから油断大敵という言葉が生まれたのでしょうね。

 

次の「タラントンのたとえ」も同じく二匹の魚と五つのパンのイエスのふるいが示されているわ。五タラントンあずかった僕は五タラントン儲けて十タラントンにして祝福を受け、二タラントンあずかった僕も二タラントン儲けて四タラントンにして祝福を受け、一タラントンあずかった僕は一タラントンも儲けず一タラントンのままで主人からお叱りを受けたの。二タラントンと五タラントンで二匹の魚と五つのパンを暗示しているでしょ。

 

一タラントンの僕は二匹の魚の内の一匹で主から呪いを受けたイスカリオテのユダの暗喩なの。その一タラントンは取り上げられ十タラントン儲けた僕に与えられ十一タラントンになったのよ。この十一という数はイスカリオテのユダが抜けた十一人の弟子。イエスが十字架にかけられた時は十一人だったでしょ。でも十二弟子に回復されたの。

 

問題は二タラントンを四タラントンにした僕よね。これは折りたたみ方が幾重にも重なっているわよ。二匹の魚と四という数字は何を意味しているのかということよ。完全に謎々の世界。イエスの示す二匹の魚と五つのパンのふるいの深いところまで悟れる人は悟りなさいと言われているわよ。

二匹の魚と五つのパンはイスラエルの十二でしょ。イスラエルの十二は四人の女性から生まれているの。イスラエルの十二には旧約の十二と、新約の十二があるでしょ。たして二十四。ヨハネは黙示録で四人の天使と二十四人の長老を黙示しているわよ。

さらに二匹の魚は御父と御子の暗喩、五つのパンは五人の賢いおとめと五人の愚かなおとめの暗喩。これがイスラエルの十二支族の暗喩なの。賢いおとめと愚かなおとめは神が園の中央に植えた二本の木なの。それが御父と御子の賢いおとめの嫁取りなのよ。そこに何も生まない一匹の蝮がいたということでしょ。おろかなおとめは油をきらせたばかりに蝮に取られお陀仏。
 

キリストの祭司となる人向けの謎々なの。かなり奥深いけれどもそれはイエスの井戸は底知れぬ奥深さを湛えているということだと思うわよ。その井戸から汲んだ水を甕の縁まで満たすの。

 古事記では天孫瓊瓊杵尊が木花開耶姫
(このはなさくやひめ)だけ娶り岩長姫を送り返したという物語でその折り畳みが語られているわよ。岩長姫は岩のような長い命で右近橘の命の木の象徴なのに、なぜ瓊瓊杵尊は送り返してしまったの?という謎々。井戸から汲んだ水に山幸彦が口に含んだ珠を吐きいれたら器とくっ付いて取れなくなってしまったという謎々。これらの謎々を信仰においてイエスから汲む水として瓶の縁まで満たすとぶどう酒に変わるの。

聖書を神学とか言いながら読んだ気になっていたらお陀仏。だいたい神様を三位一体などと会議で決めようという発想が頭おかしいでしょ。



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