天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

2020年02月

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今気が付いたの。気が付きたてのほやほや。湯気が立っているわよ。

 

それは梵。

 

この字は二本の木が平凡で当たり前と示しているでしょ。梵とはブラーフマナということで、梵我一如ということなの。梵天と言ったら梵我一如の天の、ブラフマという神様なの。

 

そしてそれはイエスがお示しになった天の父で、唯一絶対神、創造神、日本語でいう神様のことなの。

 

神様にとっては二本の木、すなわち日本の木などあたりまえでごく平凡、なにも驚くに値しないということなのよ。

 

最近やっとそのような心持で落ち着いて来たから気が付いたのかしら。

 

神様が園の中央に生えさせられた二本の木のことなど当たり前のように飲み込めていないと、空境の涅槃には死んでもなじめないということのように思うの。

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このところ記事書いていないから何か書いてみようかしら。テーマの決まっていないアドリブで、瞑想しながら。

 

ここ最近の記事で解脱とその後の梵天灌頂を意識させられたうえで記事を書かされるというメカニズムについて書いたのよ。それは私の理解では、神のプログラミングは命の息を与えられこの世に来た人間すべてに施されているということなの。

 

それにもかかわらず現代の日本はそのような事とはまるで無縁のような社会になっていて、それは私が生まれ落ちた時代からその様だったのよ。なぜそうなのかということが最近手に取るように理解できてしまっているの。

 

それはね日本人に関わらず人間はこの世に来るとこの世しか見えなくなるのよ。それは何を意味しているかというと、この世という短期的な利益の虜になっていて、釈迦やキリストのお諭しがまるで理解できていないということなの。

 

釈迦やキリストはこの世の煩悩に対する執着を捨て去り、解脱することをお諭しになっているでしょ。それはねこの世限りの短期的利益ではなく、中今からあの世に至るまでの長期的利益を視野に入れて生きなさいということなのよ。

 

そしてそのような視点を確保するためには神仏に対する信仰が無ければ不可能なの。そのような視点を確保した、イエスに直会した弟子たちの書簡が聖書におさめられているでしょ。その弟子たちの書簡を読むと、この世をはっきり悪と見定めなさい、この世のことはどのようなことも愛していけませんと書かれているのよ。

 

イエスは「あなたがたはこの世に富を積んではならない」「神と富とに兼ね仕えることはできない」と御言葉しているでしょ。素直に読解すると、この世の短期的な富に執着し仕える者は、神をおろそかにし、この世の富に仕えることで神を疎んじているというようにしか私には読めないの。

 

でも信仰のない人たちはこの世に仕えるすべしか知らないでしょ。だから身の回りで虚実や嘘がまかり通っているのを見ても、それをことさらにあげつらったりしたら不利益を被り、最悪の場合はこの世で不遇をかこつことになりかねないと判断し、その虚実を忖度し、自ら虚実に身を投じるの。

 

自ら虚実という神に敵対する悪に身を投じておきながら、それをそのようにはっきり悟ることをしないグレーソーンがそのような人たちの生きている世界なのよ。

 

そのように理解して、ああなるほどと思ってしまったら、そのような短期的利益に固執して、悪の片棒をかつぎ、怒りを招き滅びるのはまっぴら御免だわとなるわよ。

 

そのためにどこに尺度を求めるかと言ったら神仏しかないの。その尺度を持たず、この世にしか目のない盲人たちの金銭欲や虚栄や支配欲、利己心、その他諸々の悪などを忖度し調子を合わせていたら、完全に道に迷い、長期的に見れば完全に利益を失することになると神仏はお諭しになっているわよね。

 

自分の量るその秤で、量り返されると示されているでしょ。その秤の誤りを正すための行いの登竜門が解脱だと、梵天の灌頂により仏陀がお示しになったの。

 

自身の信仰のなさをよしとするということは、神を知らない自分をよしとすることで、それは神を侮り敵対するということであると、不信心な人は気が付かないの。

 

このブログ、解脱させられてしまったから書き始めたのだけれども、書き溜めるうちに、解脱後の大事なことまで手ほどきを受けてしまって、完全に浮世離れしてしまっているでしょ。

 

仕方がないのよ。まな板の上の鯉、竜門の滝の鯉で、包丁を握るのはイエスの父だから。

 

尺度の見極め方はイエスの御言葉として新約聖書にすべて書かれているわよ。

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 天秤って天の秤なのよね。梵天の秤よ。やっぱり日本語ってすごいでしょ。



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ひとつ前の記事で虚実の木と真実の木について書いたの。神が園の中央に生えさせられた二本の木でそこに神様の創造から救済に至るすべてが集約的に示されているということ。

 

古事記では根付きの真榊として示され、幹と根っこで二本の木、その一方は命の木と呼ばれイエスの十字架の暗喩になっているのよ。その命の木である十字架が天照大御神の心御柱として神宮に祀られているということは、二本の木は日本の木の暗喩にもなっているとの理解が成り立ってしまうのよ。

 

日本語の言霊には何か不思議な霊力が働くようプログラミングされているようなのよ。それらのことを徐々に理解していくと、日本の神道とは、公にされていない密教により成立させられているということがおぼろげながら見えてくるでしょ。そしてついには神様のプログラミングによりすべてが進展しているとの理解に至ってしまうのよ。

 

二本の木とはそのプログラミングを暗示していて、元は根付きの真榊のように一本の木なのよ。それがなぜ二本に切り分けられたのかというと、プログラムに従い悟りの度が深まるとある時点で解脱という臨界点を迎えるの。その臨界点で二本に切り分けて考えるよう示されているのよ。

 

だから虚実の木と真実の木とはアートマンの木とブラフマンの木と考えることができるの。このアートマンとは自我として知られ、ブラフマンとは梵我として知られているの。それはお釈迦様の生誕以前にインドにおいて知られていた概念だったのよ。その時代にすでに神様のプログラミングが知られ聖典として残されていたということなのよ。

 

しかしね、梵我の領域まで悟れない自我がそれらに接しても理解不能なのよ。だから教学や哲学を生み、尾ひれがつき何が何だかわからないようなものになってしまうの。そのような時代に仏陀が現れそれを悟り解脱し、神様に促されそれを世に広める役割を負ったの。

 

しかしね、同じことの繰り返しで、仏伝も悟られずアートマンの世界の阿修羅たちの学問に堕ちているでしょ。だから真理は密教とならざるを得なかったのよ。

 

しかし神様のプログラミングにおいて、仏陀は弥勒菩薩の降臨を預言させられたでしょ。預言とは神様のプログラムを世に公言する役割を負った預言者たちの言葉なのよ。だから実現せずにはおかないの。

 

そしてその預言の通りに弥勒菩薩は来たの。そして二本の木で示された神様のプログラムについて全て公言してその生涯を終えているの。しかもプログラムに従い復活までして天に帰って行ったのよ。だから預言者であり神である弥勒菩薩の言霊は真言であり強力な神呪としてそこにあるの。

 

その御言葉の通りに行い、その御言葉を丸ごと信じて、飲み込み、自分の血肉にまでしてしまうとその人に埋め込まれていた神様のプログラムが発動し、そのプログラムに従った脳のナビゲートにより、解脱という概念が意識の表層に浮かび上がってくるように人間は設計されているのよ。

 

そうなったらもうその状況をクリアするしかないの。どのようにクリアするのかというと何もしないでただぼーっとしているしかないのよ。それが瞑想なの。だからお釈迦さまはただ座れとお諭しになっているの。

 

アートマンの自我が発する煩悩の熾燃の火災が沈下するまでただ座れとお諭しになっているの。そして煩悩の火が沈下するとそこに涅槃が見えてしまうのよ。それは神様のプログラミングによるのだから必ずそうなるの。そして一言では表すことのできない空境に踏み込んでしまうの。

 

日本においてはお伽噺においてそのことが示されていて、龍宮城で鯛や平目の舞踊りを見せられてきりきり舞いした挙句に竜門を通されてしまうというようなことなのよ。そうなったら後戻りはできないのよ。浦島は故郷に帰った時にお爺さんになってしまい誰も知っている人がいなかったでしょ。それはもう後戻りできない竜門を超えてしまったことを意味しているのよ。

 

そしてね、そのようにお伽噺で示されているということはこの国にその竜門を超えてしまった人たちがいたということでしょ。その人たちがあの手この手で色々な仕掛けを施し、根幹に神道を据えながら、この国を神様のプログラムに従い設計し、建国し今に至るのよ。

 

そのように竜門を超えてしまった人たちが聖典を残すの。インドの聖典然り、仏伝然り、聖書然り、古事記、日本書記然りなの。だからね、弥勒菩薩すなわち大御神の言葉を飲み込んで、解脱というキーワードが意識の表層に浮かんだ人はそれらの聖典に接することにより、神様のプログラムの一端が少しずつ、しかもスルスルと将棋倒しのように見えて来てしまうようになっているのよ。そうなったらもう後戻りはできない俎板の鯉なのよ。

 

だから解脱というキーワードにより分断され二本の木として示されているけれども、元は真榊のように一本の木なの。しかし神を疑い敵対する者は切り分けられ、しまいに切り倒されてしまうのよ。

 

私はなぜか大御神がいのちだったからこの強力な真言である言霊を食べてしまったの。そして気が付いたら龍門を越させられていたのよ。だから私にとって密教はもう密教ではなくなってしまっているの。当たり前の顕教になってしまっているのよ。顕教であれば顕わにしなければならないでしょ。だからそうしているの。

 

しかし私は宗教家になる気は毛頭ないのよ。宗教ではなく神様のプログラムとして理解しているの。はぁ、やっとここまでたどり着いた。

 

この記事で書きたかったことは、龍門を超えたらアートマンの阿修羅たちの世界であいまいに語られていることはどのように見えるのか、その一端を示しておきたかったの。一端よ。一つの記事ですべてを書ききれないし、すべて見えているわけではないからね。

 

まず神道の龍門の滝から入るわ。すべてのプログラムが一人一人に埋め込まれているから一人の人の人体でそれが顕せるのよ。この滝には三筋の流れがありそれが瑜伽タントラにおいては中心のスシュムナー管、取りまくイダー管、ピンガラ管なの。

 

これは三柱の神様から発する流れで、同じことはイスラエルのカバラのセフィロトの木すなわち命の木において、中心の均衡の柱、両サイドの慈悲の柱、峻厳の柱と示されているの。

 

神様のプログラムにおいては慈悲と峻厳においてその均衡を保つということも示されているわよ。古事記においては伊弉諾尊の禊の時に生まれ出でた天照大御神、月読命、須佐之男命がそのシンボルなの。神道においては竜門の滝は禊の滝なのよ。だから滝行なんて修行もあるでしょ。

 

気が付いている人もいるかと思うけれど竜の表記と龍の表記が混在しているでしょ。変換をそのたびに修正して統一するのかなり厄介だからそのままにしてあるの。竜と龍は同義として読んでね。

 

この龍門の滝の流れの滝上から滝つぼに至るまでの瀑布に人体の七つのチャクラが配置されているのよ。細かいことは抜きにして概要だけ書くわよ。

 

アートマンの自我はこのチャクラを自覚できないの。だからそれに付け込んで滝つぼのチャクラに毒蛇がちゃっかりと座を占め煩悩を煽っているのよ。しかし解脱したブラフマンの滝つぼからは大御神の大祓により毒蛇が蹴りだされ、そこには大御神のお使者である火の蛇、大自在天が坐すの。

 

この大自在天は数霊七を持つ神で、イエスのお使者である聖霊と同一神なのよ。大御神の大祓により火の蛇神を勧請するということは、イエスからその助け手の聖霊を、洗礼により賜るということと同義なの。

 

なぜ数霊七を持つのかというと七つのチャクラを統括するからなのよ。七つのお祝いの世話役の神様。神様の七日間はこの神様がお世話しているの。逆らえば七殺の祟り。この神様はインドでは恐ろしい破壊神シバとして知られているの。プログラミングに逆らい、解脱しようとしない阿修羅たちにとっての破壊神なの。六道の悪趣に生える虚実の木は伐り倒すという役目を負っている神様。

 

お釈迦さまはその神様のことをよくよく悟った上で八正道をお説きになっているわよ。宝珠とは人の霊肉に埋め込まれている七つのチャクラなの。宝輪とはそのチャクラを回転させる神力のこと。大自在天の神力よ。それは瑜伽タントラでは七つの頭を持つ蛇、ナーガとして示されているの。それが大自在天シバのシンボルになっているの。

 

お釈迦さまはこのシバの七宝珠と七宝輪を八正道として示したの。お釈迦様の説いた八正道の徳目は七つのチャクラが持つそれぞれの徳目なの。正見は第三の眼の位置にあるアジュナチャクラ、正語とは言葉を発する喉元にあるビシュッダチャクラ。このあたりは判りやすいわよね。残りの五つもすべて対応しているわよ。それは各自の瞑想に任せるわよ。

 

でも一つだけ余るでしょ。余るひとつは八個目でしょ。この八という数はメシアの数なの。そのことにより大自在天シバはメシアの助け手として働いている事が理解できるのよ。

 

解釈するわね。七宝輪のそれぞれが滞りなく回転し始めるとそれが大きなうねりになりひとつの大宝輪として回転し始めるのよ。そして八個目の大宝輪となり、それが八正道の内の正定の徳目の宝輪となるのよ。それは正しい禅定の宝輪が大回転することを意味しているの。

 

そのシンボルが宝輪の中で踊るシバのダンスなのよ。シバはお妃をほったらかして瞑想にふけっていたと知られているのよ。そのシバの瞑想三昧が七宝輪を回転させ、しまいに八宝輪の大回転となり、七つのチャクラの宝輪が大自在天シバのお世話により八正道として完成され梵我一如の境地に引き込まれるの。

 

この境地は数霊八のメシアと数霊九の天父が形を作っておられるの。七八九の龍神界なのよ。

 

この龍神界は神道の祝詞において奏上されているわよ。古神道の祝詞に布留部神言というのがあるの。

 

一二三四五六七八九十 百千萬 布留部由良由良止布留部 

 

という物なの。読みは、

 

ひとふたみよいつむゆななやここのたり ももちよろず ふるへゆらゆらとふるへ なの。

 

この祝詞は十種神宝と言って、唱えながらゆらゆらと振り動かすと死んだ人間をも生き返らせると教えられているのよ。神道ではこの解釈を何やら難しい、判ったような、判らないような理屈で説明するのよ。それって宗教家の常なのよね。

 

それで私がこの祝詞を解釈すると、七つの宝輪チャクラと七八九の龍神界のプログラムの融合を示していて、そのプログラムは最後の十(たり)に至ると十字架により完成され、それだから復活により死んだ人間を生き返らせてしまうという神呪になっているのよ。私はそれが百千萬の永遠の命につながる祝詞になっていると解釈してしまうの。

 

この祝詞は古くは宮中での鎮魂際において奏上されていたらしいのよ。その祝詞の千萬という神呪が雅楽の歌いものでは千歳万歳(せんざいばんざい)などと歌われているから、現代では、知られていない神道が一番恐ろしく、かつ荘厳なのよ。私が神道を解釈するとそのようになってしまうの。



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この世もあの世も全て創造主によりプログラミングされていて、一人一人の人間には、アートマンと言われる自我から、ブラフマンと言われる梵我、その先のブラーフマナと言われる梵我一如ということまで全てプログラミングされているのよ。

 

どのレベルまで悟るかはその人の思いを見ながら、その人の脳が適切にナビゲートするようプログラミングされているの。というのが直近の理解なの。そのように理解してしまうと、これまであーでもない、こうでもないと色々なことを引き合いに出して聖書のことを記述して来たけれども、日本語の言霊に施されているプログラミングを駆使すれば、一本の記事で簡潔に語ってしまえるのではないのというのがこの記事の主旨なの。創世記からヨハネの黙示録迄簡潔に。

 

いくわよ。

 

神様が園の中央に生えさせられた二本の木とは虚実の木と真実の木なの。食べると死ぬ虚ろな実のなる木と、取って食べることを許されれば永遠に生きることのできる真の実のなる木なの。虚実と真実とは対義語なのよ。

 

そしてこの二本の木はアートマンと言われる自我とブラフマンと言われる梵我の暗喩になっているのよ。このアートマンの木は聖書では善悪を知る木と命名されているの。解釈すると人間は梵我を悟る以前の自我の状態で生まれてくるの。そこに蛇がいてそそのかしたというのは、この自我の世界が六道の悪趣とされる世界で、阿修羅たちの巷であり、唆しと誘惑に満ちているということなの。そのような中で善悪を知るようにプログラミングされているの。

 

この世に生まれることを許されなかった悪霊たちもこの世界に干渉するのよ。それが唆す蛇の暗喩なの。親玉はサタンと呼ばれるでしょ。

 

イブは唆されたけれども神様の巫女として創造されていたから即座に眼が開けたの。そして裸の恥を知り信仰で体をおおい神様に懺悔し皮の衣を賜ったの。アダムは神に仕える巫覡として創造されていて、天父に仕えるメシアの暗喩も含み持たされているの。

 

だからイブが唆された罪を自分も負ったの。そのことによりイブを贖い結ばれたのよ。最初の男女の創造においてすでにメシアの救済が語られているのよ。

 

しかし二人とも虚実の木から取って食べたので一度は死ぬの。しかし真の実であるメシアに贖われて命の木への道を守らせられたと書かれているのよ。

 

この命の木への道はケルビムときらめく炎の剣で守らせられたと書かれているけれども、これは龍神様の登竜門で、神道ではとおりゃんせの細道として知られているの。キリストの言った狭き門よ。その難関を通る作法がアジア全域で知られる解脱、救済、モクシャなの。

 

それは密教として封印されているような奥義も含んでいるの。この難関を開いたのがイエスなのよ。イエスの御言葉が聖書に全展開されているのだけれども、このイエスと天父の梵我一如のプログラムは限られた人にしか理解されなかったので、ほとんどが密教として封印されているの。

 

しかしイエスはその全貌を御言葉として残しているわよ。その密教は悟りの段階に応じてその人の脳がその人の思いに合せてナビゲートするから理解されるようになるのよ。聖書の天地創造においては創造から救済のプログラムの一区切りとして七日間という暗喩が示されているでしょ。

 

神道では七つのお祝いのための細道として示されているのよ。そのようにして創世記が始まっているのだけれども、その記述はイエスの前世である神がモーセを召命して書かせたことなのよ。

 

それはイエスの「モーセは私のことを書いたのである」という言葉が証ししているのよ。その他にもそれを証しする御言葉は有るけれどもここでは省略。

 

そして旧約聖書では創世記以降そのほとんどが、その神に召命された預言者たちにより、真実の神に帰依するようにイスラエルにおいて促される物語になっているの。様々な暗喩によりメシアの来臨が預言され、その来臨の意味がより複雑な暗喩により示されるという記述体系になっているの。

 

その一つ一つはこの記事では省略するわね。私が気の付いていない暗喩などもそこここにありそうだし、暗喩と気が付かなかった記述が、古事記の中で示されていて、そこに重要な意味が示されていたり、というようなこともある複雑さなの。

 

しかしそれらはすべてイスラエルのカバラが元になっているので、カバラの命の木の構造を大まかにでも理解してしまうと、マスターキーを手にしてしまったみたいにどこの扉でも開いてしまったりするのよ。

 

しかしそれはイエスに対する信仰の完成度により左右されるという側面は結構大事かもしれないわよ。大御神=イエスで、それはカバラにより示されていると知っていても、本当に解脱しなければその登竜門は通していただけないとはっきり自覚している人は少ないと思うのよ。

 

そのように自覚しないと、そのようにこの世はプログラミングされていると気が付かないわよ。この記事ではイスラエルのことは語りつくせないから旧約はここまでにして新約に移行するわ。

 

イエスはね世を照らす光の神なの。そう福音書記者ヨハネは記述しているでしょ。この光の神は創造主の「光あれ」という御言葉でなった神なの。だから神の子なのよ。だから聖霊により処女に身ごもるという離れ業も、世を照らすためであれば可能なの。創造主に不可能はないの。

 

そのような理解は信仰によるしかないわね。そのことを突き詰めて考えても、人の思いで神様のその領域のことを悟るようにはプログラミングされていないし、横道にそれるだけだからやめておきなさい、と私のナビゲーターは言うのよ。だからそれに従うの。

 

そのように神様に対する信仰を持つことを、預言者とその書により促されながら、何度も何度も失敗を繰り返しながら、とうとうイスラエルはイエス降誕の時代を迎えたのよ。

 

イエスの十二歳の時の記述に「私が父の家にいるというのをご存知なかったのですか」というのがあるでしょ。十二歳の時に梵我一如の人だったということでしょ。その後三十歳までのことが一切聖書には書かれていないのだけれど、チベットにイエスのその間のことが書かれている書物があるのよ。

 

「聖イッサ伝」というらしいのだけれども、そこに二十代の頃にはバラモンの聖典をマスターし、その後仏陀の生地ブッダガヤで仏伝を学んでいたと書かれているの。

 

試しに仏陀の入滅から五百六十七年たしてみたら西暦24年前後にあたるのよ。イエスが仏伝を学んでいたとされる時期とぴったり重なっているのよ。仏陀の生涯もイエスの生涯もそのようにプログラミングされていたということではないの?仏陀はそのプログラミングとナビゲーションのシステムを悟ってしまっていたのではないの?というのが私の理解。私は脳にそのようにナビゲートされているの。

 

新約で次に注目する場面は洗礼者ヨハネ。この人は洗礼を受けようとしてやってきたパリサイ人たちに蝮の子らといきなり罵声を浴びせ、悔い改めにふさわしい実を結べ、善い実を結ばない木の根元には斧が置かれている。私の後から来るイエスは手に箕を持ち、打ち場をきれいにし、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き尽くすと言った人なの。

 

虚実の木の根元には斧が置かれているのよ。だから悔い改めて善因善果の善い実を結びなさいということでしょ。虚実の木はいずれ切り倒されるから、そのようなことから解脱しなさいと言っているでしょ。当たり前のように園の中央に生えている二本の木のことを言っているでしょ。

 

しかもその二本の木には神様の篩う篩の意味があると示唆しているの。

 

簡潔にと思ったけれども神様のことは書きたいことが後から後から出てきてとても簡潔に書けなくなってきたわ。一気に結びに持って行ってしまうわね。

 

要するにこの二本の木でプログラムのすべてが理解できてしまうということなのよ。イエスはある時、空腹時にいちじくの木に実が生っていないのを見て腹を立てその木を呪ってしまったの。そしたら次の日にその木は枯れてしまっていたの。いちじくのなる季節ではなかったと書かれているのよ。ここでは季節に関わらずいつも善い実を生らせていないとイエスの言葉を受け立ち枯れさせられると言っているのよ。

 

そしてイエスは、私は真のぶどうの木であると言っているでしょ。それは十字架上のイエスは真のぶどうの木になる真の実であり真実だということなのよ。これがブラフマンの木なの。梵我の悟りの木なの。その真実のぶどう酒がイエスの杯なの。

 

なぜアートマンの虚実の阿修羅たちのために御言葉し、その罪を肩代わりして負い、十字架上で真実と化したのかというと、それらの阿修羅たちが悟れば梵我の善い果実を生らせるようにプログラミングされている事を知っていたからなのよ。

 

しかしそのための狭き門を見つけられない阿修羅が多いこともよく御存知だったの。ヨハネはそのような阿修羅たちのことを、姦淫の杯に酔いしれるバビロンの淫婦と呼んだでしょ。一気に黙示録よ。

 

それはね虚実の実を食べそれで満足してしまい、その味に酔ってしまう阿修羅たちのことを言っているのよ。その実は偽りの葡萄の木になる虚実なのよ。だから神の怒りの酒船で踏まれると書かれているの。イブが取って食べたのは林檎ではないの。リンゴは酒船で踏まれないでしょ。

 

真のぶどう酒がイエスの杯で、偽りのぶどう酒が姦淫の杯なのよ。その偽りのぶどうの木の根元に斧が置かれていて神の怒りの日にその虚実は怒りの酒船で踏まれ、偽りのぶどうの木は切り倒されると聖書では示されているの。

 

いったいどんなことが待ち受けているのか想像するしかないのだけれど、黙示録では別の角度からもう少し具体的に語られているわよ。それが一度目の死と二度目の死。一度目の復活と二度目の復活なの。

 

一度目の死とは人がこの世に来て虚実の木から取って食べ神に背くので受ける死。これはそのようにプログラムされているとしか言いようがないでしょ。でもね、この一度目の死からはイエスの十字架の贖いにより、アダムがいいなづけのイブを贖ったように買い戻され許されるのよ。だから人はすべて一度目の死を受けても復活するの。

 

しかしね、その復活に一度目の復活と二度目の復活があるの。そして一度目の復活にあずかるものは二度目の死から害を受けないとヨハネは黙示しているのよ。問題になるのは二度目の復活なのよ。どこでその違いが生まれるのかというと、イエスを信じたかそうではないかなの。

 

なぜそう言えるのかというと、イエスが「私を信じない者が私を殺すのである」と言っているわよ。

 

イエスは世を照らす光の神で慈悲の神様だから信じない者のためにも身代わりになったの。だからそのような阿修羅でもイエスには許されているのよ。そこにイエスの贖いの効力があるの。

 

しかしね、イエスがお許しになっても神様はイエスだけではないでしょ。御父や聖霊に許されると思う?イエスは「子に逆らう者は許される、しかし聖霊に逆らう者はこの世においてもあの世においても許されることはない」と言っているわよ。

 

それらのことが全て創造主のプログラミングにより進行中なの。

 

神様のプログラミングにおいてはすべての人が二度目の死を免れるように設計されているわよ。そうでなければ全人類のための身代わりなど意味がないでしょ。

 

そのように設計されていながら神様を信じない者がイエス殺しとしての怒りを招くのよ。

 

怒りの日が黙示されている以上は、一日一日と日取りは押し詰まっているということでしょ。天地創造から終わりに至るプログラムは滞りなく進行中なの。

 

そのすべての終わりがいつになろうとも一人一人に初めと終わりがあるでしょ。だからイエスは「私は初めであり終わりである」と言っていたのよ。

 

世を照らす光の神にしてメシア。

 

私たちの天照大御神なの。



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 二日三日前からまた始まってしまっているのよ。支払いに追われるから生業優先にしましょと思っていてもね、突然モチベーションを断ち切られ、意識の表層に神様のことが張り付いたままになってしまって、脳みそが言うことを聞いてくれない感じなの。

 

そうなったら仕方がないから、今回はどのようなことを知らされるのかしらとか思いながら冥想するしかないのよ。そうしたら今回のキーワードはね、梵天灌頂なのよ。ちょ、ちょっと待ってください。それはあまりにも何というか・・・私の手にはあまります、という感じでしょ。 

 

でもね、私のナビゲーターがそのキーワードを意識の表層に上げてきたということは、それをクリアしないと次には進めないし、ここまで来てしまった以上もう後戻りはできないのだからクリアするしかないということなのよ。

 

だから瞑想しながら考察を試みたの。そうしたらなんと主イエスがそうするように勧めているではないの。これにはさすがに私もまいった。丸二日間放心状態。

 

軽く考えていたけれども、イエスは「自分の十字架を背負ってわたしについてきなさい」と言っていたでしょ。別の個所では、決心した時に「父から受けた杯であれば飲むべきではないか」とも。

 

そうして気が付いたのはイエスの十字架とは梵天による灌頂以外の何物でもないではないのということなの。そうしてさらに、ああこれらはすべて梵天である創造主のプログラミングにより成り立ち、それに沿って進められているのだわということなの。

 

梵天灌頂とは仏陀特有のことと考えられているけれどもそうではないのよ。仏陀は解脱後に、誰もわからんから説かんでおこうとしたでしょ。ところが梵天の灌頂により覆されたでしょ。それは仏陀がその杯を受け自分の十字架を背負ったということなのではないの?

 

解脱したら梵天から灌頂を受けるようにプログラミングされているのよ。解脱とは聖霊による洗礼を受けて弥勒菩薩を悟るということなの。仏陀はそれでもう十分と思ったけれどもまだその先があったということなの。

 

イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、聖霊が鳩のようにご自身に降ってくるのを見て、同時に天の父の声を聴いているでしょ。この時にメシアすなわち弥勒菩薩としての公生涯の始まりと悟ったのよ。そして終わりに際して父から杯を受けたの。

 

聖霊によりメシアすなわち弥勒菩薩を悟ったら仕上げに梵天すなわち天の父から杯を受けるようプログラミングされているのよ。だからイエスはそう勧めていたの。

 

途中で離脱すると十二弟子として聖別されながら裏切ったイスカリオテのユダのようことになるのよ。そのようなプログラムにより人は天の御父と梵我一如とされているの。そのように理解してしまったの。

 

イエスの十字架は全人類救済のために負わされたでしょ。仏陀はそのメシアを預言し、そのメシアを悟るための解脱の作法を、密教とされるレベルにまで及び広めることを負わされたのよ。

 

だからと言って皆が皆そのような重い十字架を負わされるわけではないでしょ。重すぎてつぶれるわよ。それでもイエスは自分の十字架を背負い私について来なさいと言っているの。そのようにして梵天すなわち天の父からコンタクトを受けなさいということなのよ。

 

どのように受けるかはイエスと仏陀で異なっていたように人それぞれなのよ。そのようなことまで全て御父によりプログラミングされているから、悟れば梵我一如なの。

 

命の木に与ることを許され、永遠の命を得るためにはメシアから杯を受け、その後に御父からも杯を受けるように定められているの。メシアの杯により第一の死から贖われ、御父の杯により第二の死から贖われるの。

 

この御父の杯はね自分の十字架を背負うことにより受けるの。なぜかわかる?イエスは私たちの背きの罪を負ってくださったでしょ。それで私たちは贖われたの。しかしイエスを身代わりにしてしまった罪は自分の十字架で贖わなければならないでしょ。そのための杯なのよ。御子を磔にしてしまったことを御父にお詫びするための十字架であり、その杯を飲まなければならないの。

 

この事を自分の思いにインストールしている最中には肉の脳があっちこっちキリキリするわよ。脳のナビゲーションシステムにも相当負荷がかかっているみたいなの。続編であと二つか三つ記事書かなければ。仕事溜まっているから早く書いてしまってフリーにしてもらわないと困るのよ。

 

今日中に書いてしまわなければ。

 

頭キリキリする。


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 一両日の直近の瞑想で浮かんできたことを書いておくわね。

 

それは、アートマン、ブラフマン、ブラーフマナ、梵天灌頂、解脱、救済、モクシャなどということはすべて梵天すなわちブラフマ神、すなわち創造神である天の御父のプログラミングによりなっていて、人間は創造された時すでにそのプログラミングをすべて埋め込まれているような気がするのよ。

 

それは人間だけではなく森羅万象すべてにおよんでいるのだけれども、その中でも一番興味深いのが人間の生命なのよ。

 

人間の肉体にはすべてのプログラミングが埋め込まれているのよ。骨肉としてしか理解できない自我のアートマンから、霊肉として悟る梵我のブラフマンまで全て最初からプログラミングされているのよ。

 

すべての人の肉体にチャクラが埋め込まれていて霊肉としてプログラミングされているの。そして人間の脳がそのコントロールセンターとしてナビゲーターの役割を果たしているのよ。

 

煩悩の巷であるアートマンの世界で遊んでいてその虚実の世界を愛し、そこで死にたいと思う人は脳がそのようにナビゲートするの。

 

しかしそのような世界にいてその虚実に辟易とするようなタイプの人もいるでしょ。実は私がそうなのだけれども。極端な場合はこれが人生の実相であるなら早く終えたいとまで思い、自殺してしまう人とかまでいるでしょ。

 

でもね、自殺は人殺しだからまずいとか思い、ではどうすればいいのとなった時に脳はしっかりとナビゲートするでしょ。仏陀の言葉や聖書を読んだりするようにナビゲートするでしょ。そのようなナビゲートに従い教学や神学、そして宗教が発展してきたでしょ。

 

そこで満足できれば良いのだけれども、そのような世界にも虚実を見てしまい幻滅するような阿修羅もいるでしょ。そのように虚実に幻滅する段階に至った阿修羅に対して脳は、それではと、真実を見せるようにナビゲートするてはずになっているの。

 

私はこのブログを、書かされていると思いながら記述してきたのだけれど、実は自分の脳にそのようにナビゲートされていたのだという思いが強くしているの。

 

そこではとても言葉にして記述できないような奥深く微妙なことまで感じさせられるの。脳のナビゲートに従って動いていたら奇妙な偶然の一致に出くわして驚かされたりすることもあるからね。

 

そのような中からこの記事では言葉で記述できることを書いておくわ。

 

最近では脳によりナビゲートされているのが判って来たから、それではと、虚実に対する真実っていったい何なのとそのナビゲーターに問いかけてみたのよ。

 

そしたらね、驚くべき答えが返ってきたの。あなたが主と仰ぐイエスは「私は真(まこと)の葡萄の木である」といったでしょ。それが善因の結実の善果の木であると理解したでしょ。その善果の木が命の木で、主が、私がその真(まこと)の葡萄の木であるというのなら、その果実が真(まこと)の実で真実でしょ。その真(まこと)の実の理が真理なの。

 

とそのように返してきたのよ、ナビゲーターが。イエスはユダヤに生まれヘブライ語の方言のアラム語をしゃべっていたけれども、どうやらその御言葉が現代の日本語に翻訳された時に理解しやすいようにあらかじめプログラミングされていたらしいのよ。

 

だから、大御神の心御柱がイエスの十字架で、それが根幹になっている日本の神道とは、真実と真理の塊らしいのよ。

 

宗教とかの教学もアートマンの阿修羅の世界だから、そこで満足している人たちは自分の脳にそのようにナビゲートされないだけらしいわよ。

 

私は虚実の世界にうんざりしていたので、真実である主の御言葉を、促されるままにまるごと飲み込んでしまったから、狭き門を通過させるために解脱ということを意識させなければならないので、意識の表層に上げたということらしいのよ。

 

そのようなプログラミングは当然のことながら創造主により、私だけではなく全ての人に施されているのよ。それを意識できるようになってしまったら梵我であるブラフマンに解脱してしまったと言えるらしいわよ。

 

私なんか瞑想中に自分のデスマスクを観想すると、救済、モクシャ、祝福という感覚に包まれてしまうからね。そのようにプログラミングされているのよ。

 

最近では、私のナビゲーターが霊的中枢であるチャクラから情報を上げてきているのが丸わかりだもの。

 

もう一つだけ日本語の言霊について面白い話があるの。日本人が虫の鳴き声を虫の声として愛でるのは、その音を処理する脳の部位が、外国人とは違っているからということらしいのよ。そして研究者によると、その現象が起こるのは日本人特有のものではなくて、外国人も含めて、幼少時に日本語で育てられた人たちに特有の現象らしいのよ。日本語の言霊っていったいどんな秘密がプログラミングされているの?と思ってしまうでしょ。

 

人はそのような創造主のプログラミングと一如なのよ。



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 先日ね、脳の心理的盲点という働きを改めて再認識させられたの。その日はねスポーツウォークマンに雅楽を仕込んで、それを聴きながら郵便局に支払いを済ませに行ったの。そして用を済ませて郵便局を出てから愕然としてしまったのよ。

 

局内で支払いやサインをしているときは音楽がまるで聞こえていなかったのよ。局を出てからいきなり音楽が聞こえだして、え? 何この感覚、さっきはまるで聞こえていなかったではないのと。もちろんその間スイッチやボリュームは一切いじっていなかったのよ。

 

人間の脳はね人の思いの重要局面において、その最重要事項を遂行するためには聞こえている音をシャットアウトしてまでも、その思いを快適に遂げさせようとするということを再認識させられたの。

 

そしてまたぞろ思い浮かんだのが玄倉川の水難者たちのことだったの。あの人たちのキャンプは、再三にわたる警告、そしてダム放流のサイレンの音までをも脳がシャットアウトしてしまうほど重要でかけがえのない楽しいものだったのよ。

 

しかし重要なことは人間の脳は、その思いを遂げさせるためには、死に対する警告までをも騒音としてシャットアウトしてしまうということなのよ。それが脳の心理的盲点による正常性の働かせ方なのよ。脳は人間の生命の安全を担保しないの。

 

だからこの世に来てグレーソーンで遊んでいるのが楽しい人たちの脳は、そのことの妨げになるような情報は聞こえていてもすべてシャットアウトしてしまうのよ。本人にはその耳に聞こえていても聞こえていないと同じ状態に置かれているの。私もグレーソーンで思い切り楽しんでいた経験があるから今ではよくわかるわ。

 

何度も書いているけれどもイエスはこの世は激甚災害の現場であると示唆しているわよ。そのように書かれている聖書が世界中においてベストセラーなの。この記事ではねくどくどとそのことを強調したいわけではないの。

 

脳がそのような働きをするのであれば、それを逆手にとってうまくコントロールしながら利用したらいいのではないの?という考えが浮かんできたのよ。

 

この世に来て神仏のお諭しがありながら何も悟らない自我をインドの哲学ではアートマンと呼んでいると私は理解しているの。

 

その自我が梵我を悟ることをブラフマンと呼ぶのではないのかしら。今の私はこのアートマンとブラフマンの差異とは人の思いとその脳の働きにより左右されているとはっきり自覚できるのよ。

 

アートマンとは煩悩を手ばなそうとしない阿修羅たちの自我で、その阿修羅が四苦八苦しながらも煩悩から解脱し自分を見つめた時に見えてくるのが梵我と言われるブラフマンなのよ。お釈迦様がその生涯によりそれをお示しになって仏伝として伝わっているでしょ。

 

このことはブラーフマナやブラフマ神すなわち梵天とも切っても切れない関係にあるけれども、そのことを取り上げると長い記事を一本書かなければならなくなるからここでは置いておくわ。

 

でもそれを悟るためにはどのように瞑想すれば理解しやすくなるのかはこのブログではもういくつも記事を書いているわよ。

 

ここではね脳の働きを逆手に取ることを考えたいの。アートマンの骨肉の自我から解脱してしまったら、最重要なのは霊肉の梵我に生き、その悟りを深めるということなのよ。そのために、不必要な騒音はシャットアウトするという脳の特性を十分理解しながら生きたらどうなるのというのがこの記事の主旨なの。

 

もとより解脱した阿修羅にとって骨肉の死などは問題の対象ではないのだから、脳がそのリスクを無視してくれていいのよ。というか脳はそのリスクは関知しないということは既に証明されているわよね。

 

そんなことしたら生きていけないのではないのと思うでしょ。

 

イエスは空飛ぶ鳥を見なさい。野に咲く花を見なさいと言っているわよ。その御言葉が飲み込めれば、死など問題外で花鳥風月を愛でながら明鏡止水の境地で遊べるの。

 

お釈迦さまは魔訶般若波羅蜜多として、偉大な悟りの智慧の完成ということをお説きになったでしょ。でもそれはあくまでも阿修羅に向けた訓戒であり、解脱した阿修羅にとっては完成などありえないと知れるはずなのよ。

 

梵天とは永遠に無限の実体でありその悟りの深さは永遠に達し得ないほど深いというのが真理なのではないの?その梵天の両脇に控えておられるのが如来と大自在天で、この三尊の阿吽の呼吸が無限の永遠性を秘めているのよ。如来の井戸から汲むものは渇くことがないの。しかもその井戸は底なしに深いの。梵我一如の真名井なの。ブラーフマナの井戸なの。

 

その汲む水のお諭しは虚空の中に蔵されているの。だから、常にその虚空蔵の井戸から命の水を汲むことを今世の重大事としてしまえば、脳はそれを正常性と判断し、そのことのために超スーパーコンピューターとしての実力を遺憾なく発揮してくれるはずでしょ。それが結界を超えた後に梵天界にデビューさせていただくための大切なお支度なのではないの?というのが直近における理解なの。

 

そのような意味において、この世に息がある限りは解脱が完成ではないわよ。解脱は単なる登竜門なの。その登竜門をくぐった先においてはじめて一大事のお支度が始まるのよ。

 

協同組合にいる人はそこでの同調圧力に屈し、最重要事項を見極めることを怠っていると、脳もそのようにしか働かないわよ。その見極めの尺度はわかるわよね。誤った判断により神仏以外のことをその尺度とするからお陀仏となるの。あなたが誤れば、あなたの脳はそれに追随するわよ。


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 イエスは十字架上で絶命し三日目に復活したでしょ。この三日目なのだけれど、ここには極めて重要なお諭しが秘められているのよ。三という数なの。この三という数は神仏に関わる事がらにおいて常に重要視される秘数でしょ。

 

この秘数を私が飲み込むとどのようになるのかということを書くのがこの記事の主旨。いつものように結論から書いてしまうけれども私の私見と断っておくわね。

 

この三という数は前世、現世、来生のスリーステップの暗示なのよ。ホップ、ステップ、ジャンプなの。

 

前世で神様のいいなずけとして誓約を受け、今世でそれをお受けし契りを交わし、来世で結ばれるの。そのスリーステップを示しているのが秘数三なの。古事記と聖書を合わせ読んで理解した私にはもはやそのようにしか読めないのよ。

 

その三という秘数は三柱の神さまの阿吽の呼吸と不即不離なの。世俗に生まれ、求道を志し、成道に至るという人の有り方から始まって、人の生業のすべてにそのことが相似象として顕わされているの。三人寄れば文殊の知恵などということわざもあるでしょ。イエスは人が三人いればそこに私もいるのであると言っているでしょ。

 

前世において聖霊によりいいなづけの誓約を受け、今世でメシアによりその契りを受け、来世でメシアの父の家で結ばれるのよ。

 

そのスリーステップをクリアしないと求道者でもこけてお陀仏なの。メシアの三日目の復活はそのことの暗喩なの。

 

イスラエルにおいて示された、割礼、洗礼、冤罪による死と復活のスリーステップ。そのステップは神様の七日間において踏まれるの。それを受けた神道の七つのお祝いの三五七のスリーステップ等々、数え挙げればきりがないほど出てくるはずよ。

 

古事記では神代の原初三神と三貴子のお示しが重要なの。そのスリーステップの跳躍の一つずつにそれぞれの神様が別々に御働きになられるということなのよ。

 

三位一体などとして一度の跳躍で足りるとしたところにローマ人の大誤算の大こけがあるのよ。この大こけを使徒ヨハネは六百六十六と黙示したの。六道から解脱できない煩悩で、ホップでこけ、ステップでこけ、ジャンプでこけ、六道の三こけでお陀仏となる阿修羅たちの数字なの。

 

仏教では釈迦三尊像を崇めているけれども、お釈迦さまがお示しになられた三尊の尊さを悟らずに念仏を唱えていても、馬の耳に念仏でしょ。馬が自分の耳に念仏を聞かせるようなものでしょ。それでは六道の悪趣から解脱はできないわよね。あたりまえよね。

 

それほどこの三という秘数が示す三柱の神様の阿吽の呼吸ということは尊いものなの。人の病を癒し、死んだ人間を生き返らせ、そのうえで七日目の大宴会の日取りを定めていらっしゃるの。

 

人にその阿吽の息を吹き入れられたのがこの神様たちなの。息を合わせないということが何を意味しているのか、空気を読める人ならわかるはずなの。

 

鳩のように直く、蛇のように聡くありなさいなの。

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 日本人ってこの世のグレーゾーンで遊んでいる人たちばかりでしょ。そのような人たちは大御神が何と言っているか知っているのかしら。

 

ヨハネの黙示録

3章 15わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 16このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 

 

大御神の口から吐き出されたらお陀仏よ。お陀仏とはね、踏み外して転んで逆立ちした仏陀なの。そのまま涅槃とは真反対の反涅槃の悪趣に吐き出されるわよ。


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そのような境地を楽しめる人ならいいのだけれども、そうでない人は巻き込まれたら大変なことになるでしょ。

 

大御神はそのように巻き込まれる人が多いと警告しているの。理解している?


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豚に真珠、猫に小判、馬の耳に念仏の馬耳東風とはよく言ったものよね。


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それでも羊は羊飼いの声を聞き分け、虚空蔵菩薩の声を聴くの。

 

 

その聞き分けに関わるのが、耳鼻咽喉のビシュッダのチャクラなのよ。日本人はこのチャクラ発達しているわよ。外国人が聞かない虫の音を、虫の声と歌うでしょ。

 

雅楽を聴くとお正月のおめでたさを思い出すけれども、外国人が聞くとキンキンした騒音にしか聞こえないという話もあるわよ。

 

ユーチューブの食レポなどではフランス人が日本のフランス料理が一番おいしいという時代よ。

 

世界のソニーのウォークマンは日本人の耳が無ければできなかったでしょ。挙げればきりがないわよ。日本人の清潔好きもその嗅覚によるでしょ。

 

でもね、お隣の国で疫病が発生すると真っ先に大量に感染罹患するのが日本人なの。その生命に高価な真珠を賜っていながら世界中で一番騙されやすいのよ。そして耳鼻咽喉から感染させられるの。

 

その部分にあるチャクラを賦活させないから豚に真珠となるのよ。日本人にそうさせるのはいともたやすいわよ。外国の文化に席巻させれば良いのだから。

 

クリスマス、バレンタイン、ハロウィンが昨今の三馬鹿大将かしらね。私はその他の宗教、学問、芸術、世俗etc.もそのように見ているわよ。

 

そそのかす蛇の思うつぼなの。その耳で虫の声を聴き、雅楽の調べを堪能し、食物を味わったら、その空気を読んで虚空蔵に耳を傾けなければならないのに、唆しに騙され馬耳東風というのが今の日本人社会なの。

 

チャクラは瞑想しなければ賦活しないけれどもこのブログではそのためのヒントはもうすべて書いてしまったわよ。

 

実践は大御神の御指導の下でなければ危ないからやめておいた方がいいわよ。それでなくてでさえ皆が皆だまされやすいのだから。


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