天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

2020年01月

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  神社にお参りする開運方法でお水取りというのがあるでしょ。暦上で大大吉の方位にある神社の手水舎でお水を汲ませていただいて、それを持ちかえっていただくと開運するというやつ。しかもお水取りの時刻にも開運のパワーが左右されると信じている人とかもいるのよね。

 

私が思うには神社の手水舎はすべてが真名の井戸なのよ。天真名井なの。家庭の蛇口も同じく真名の井戸なの。人間というのは神様が与えてくださる糧と水で生きているでしょ。神道ではその糧を真名の板で調理し、お水を真名の井戸から汲むと理解しているのよ。

 

マナの語源は聖書の中にあるでしょ。そして聖書の中でメシア・イエスは私が命のパンでありマナだと言っているわ。そしてイエスから水を汲むものは渇くことがないとも言っているでしょ。

 

それがイエスすなわち大御神の真言と神道は理解しているのよ。その大御神が、私の肉を食べ血を飲まなければ父の御国には受け入れられないとみことのりしているの。

 

人はこの世で神さまの与えてくださる糧と水で養われるけれども、ついには終わりを迎えるでしょ。でもね、後の世で永遠の命を受け、父の御国に受け入れられる人は、キリストの肉と血を、命のパンと水として受けるということなの。

 

キリストが命の水の水源であり、真名の井戸であり、龍神様の水源なのよ。神道の包丁式は竜門の鯉を真名の板の上で捌くの。龍門の滝の御神事なの。その滝上に御国への登竜門があるのよ。その登竜門がイエスの示した狭き門であり、イエスの肉を食べ血を飲んだものが通していただけるの。そのイエスの肉を食べ血を飲む作法をそれとなく伝えているのが直会の儀式なの。


honakote_md5-034_1 (2)竜門の鯉(富士山は不死山で不死の御国の御山)

 

直会においては穀物や海産物、そしてお水やお酒をご神前にお供物として捧げるでしょ。そして祭りの後にそれをお御饌やお神酒としていただくでしょ。お供えする食物がイエスの肉であり体でしょ。水やお酒はイエスの血なの。イエスご自身が自分の体と血を十字架上で御父に対するお供物として捧げたの。同時にそれが人に永遠の命をもたらす食物と水、お御饌とお神酒となったの。だからそのお御饌とお神酒をいただくことが永遠の命をいただくことに繋がったの。

 

それが最後の晩餐でイエスが弟子たちに示したパンとぶどう酒なのよ。パンを裂きながら自分の体であると弟子たちに与えたでしょ。ぶどう酒を自分の流す血であるとして盃を回したでしょ。

 

そのことが、イエスの、弟子たちに示した直伝となり神道に繋がったのよ。ここで見落としていけないことがあるわよ。イエスの井戸から汲んだのは命の水だったはずなのに、いつの間にかぶどう酒に変わっているでしょ。そのことはイエスに愛された弟子であるヨハネが最初の奇跡として福音書で示しながら解き明かしているわよ。

 

イエスは最初の奇跡の時、母親に、私の時はまだ来ていませんと言いながら、瓶の縁まで水を満たして宴会の世話役のところへ持って行くように召使いたちに言いつけたでしょ。その時に水はぶどう酒に変わっていたの。これを悟らなければイエスの肉を食べ血を飲むことはできないのよ。

 

イエスの井戸である真名井から水を汲んだらそれを世話役のところに持って行き、ぶどう酒、すなわちお神酒に変えていただかなければ、イエスから直会を受けることはできないの。

 

それは龍神様の水源からお水取りをさせて頂いて感謝したとしても、神前にお供えしてお神酒としていただかなければ、汲んだだけの水は水盃となるということを意味しているのよ。水盃が意味するところは今生の別れでしょ。神様と水盃を交わすことになるの。

 

それはね、人はこの世に来て糧と水で養われ、それを感謝しながら生きたとしてもそれだけでは水盃になるということを意味しているわよ。神様から見れば水臭いということになるのよ。

 

生かされている事の感謝ということは宗教家がよく言うところでしょ。最近では宗教家ではなくても、スピリチュアルの世界に目覚めヒーラーとして働いている人や、現代の陰陽師として看板を掲げている人たちはみなそのように言うでしょ。そういう人たちにとっても龍神様は大人気だから皆龍神のことは語りたがるでしょ。龍神様は神様の使いの筆頭格だからそのような世界の人たちはみんな龍神様のパワーを必要としているの。

 

でもね、生かされている事を神様に感謝しなさいなどということは、イエスが注意するよう促した、パリサイ人や偽預言者でも言えることなのよ。そのような人たちは龍神様を知った気になっていても、滝上にある登竜門のこちら側で自分の弟子たちに教えているだけなの。

 

狭き門から入ることを今だに許されていないのに神様のことを語りたがるそのような人たちに注意するようにイエスは促していたの。そのような人たちの中には様々なタイプの人がいるわよ。みな心根はやさしい善良な人たちなのに、裸でこの世に来た時にすでにそこにいた蛇にそそのかされるの。一番気の毒なのは、そのままオカルトのスピリチュアルの世界で覚醒してしまい、人々を癒すために働いていると信じ込んでいる人たち。そのような人は、私に言わせればこの世的なご利益開運の射幸心にしか訴えることができないし、訳の分からないカタカナネームの宇宙存在とつながっていると公言してしまったりするから見分けるのは案外簡単なのよね。

 

その他には聖書を信仰の柱として掲げる教会の人達も同じなの。ケルビムときらめく炎の剣で守らせられている命の木への道の入り口が、龍門の滝上の狭き門であり、大御神の神道により悟るよう促されているにもかかわらず、外国人の神学に絡めとられているのだから、この国に生まれながらも気の毒な人達と思ってしまうのよ。

 

でも本人たちは救われた気でいるから自分たちの教会に人を招きたがるでしょ。龍神様からお水取りさせて頂いただけで救われた気になってはいけないの。

 

では一体私はどのようにしたらイエスの肉を食べ血を飲むことができると理解しているのかというと、イエスの肉を食べるということは、イエスの体が十字架上で絶命させられ、三日目に復活したということを、見たわけでもないのに見たかのように信じること。聖書にそのように書いてあるのだから。

 

イエスの血を飲むということはイエスの御言葉を丸ごと鵜呑みにしてそのまま信じること。イエスの御言葉はイエス御自身が語ったように、そのまま天の父の御旨であると信じて飲み込むこと。

 

それが神様が天から降らせるパンをたべ、生ける命の水をイエスから汲むということなの。でもそれを感謝することだけで終わってはダメなのよ。

 

汲んだ水は宴会の世話役のところに運ばなければいけないの。この宴会の世話役とはイエスの言う助け手のことよ。イエスは信じる者には助け手を送ると言っていたでしょ。イエスと結ばれるための宴会の世話役であり、それはイエスにより明かされた聖霊のことよ。

 

さらにイエスは、自分の十字架を背負い私について来なさいとも言っていたわよね。この言葉がネックになっているの。イエスの肉を食べ血を飲み、それを自分の血肉に変えたうえで、その血肉を、イエスがそうしたように自分自身の十字架上で、御父のご神前にお供物として捧げなさいということなの。

 

イエスは父と私はひとつであると言ったでしょ。人はイエスにならい自分の血肉をお供物としてご神前にお供えすることにより、父とイエスとひとつとされるの。それが梵我一如ということであり、ブラーフマナのパンと水となり一如とされるのよ。イエスに対する信仰は当たり前で、その上でイエスをお遣わしになった御父に対する信仰が伴わなければお話にならないのよ。

 

その過程において脳の正常性のバイアスは破壊され、骨肉として理解していた自我は、実は霊肉であったと悟るのよ。当然お釈迦さまが御説きになったことをも飲み込まなければ無理なの。イエスは、人は新たに生まれなければ天の御国には受け入れられないとも言っていたでしょ。そういうことなの。

 

そのようにして龍門を超える準備が整ったときに助け手が送られてくるの。イエスから送られてくる聖霊によりバプテスマを受け、イエスから汲んだ命の水が縁結びの固めの盃に変えられるの。

 

当然聖霊により覚醒させられるからヨーガタントラにより示される七福のチャクラと七福神と、聖霊であるシバ神の関係などもチャクラの覚醒により示されるの。

 

そうなってしまったら自分の脳は主役の座を霊的中枢であるチャクラに明け渡さざるを得ないから霊主体従の生き方に変えられ、その霊的中枢において癒されるわよ。そうなった時に真の開運ということが理解できるはずなの。

 

しかしね、イエスは地上に富を積んではならないと言っていたでしょ。この世的なご利益による開運を求めること自体に無理があるの。しかしね、世間一般のイエスによる覚醒などということと無縁の人はそれを求めざるを得ないでしょ。

 

そこに人をそそのかす蛇の思うつぼがあるのよ。人は皆そそのかされ騙されるの。だからその事を悟り、蛇が騙したので取って食べましたと神様に懺悔しないと難しいわよ。だからイエスは悔い改めよと教えていたの。

 

私たちが騙され、神様に背いたからイエスはその罪を負い十字架上で死ななければならなかったの。

 

このようなことは限られたごく一部の人にしか理解し得ないことなのかしら。でもね、私は訳の分からない宇宙存在に聞いたことを語っているのではなく、すべて聖書や古事記、仏伝や古史古伝、神道により学ばされたことを語っているつもりよ。それらは誰でもが知ろうと思えば知ることのできるはずのことなのよね。


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正月二日に思いもよらずに包丁式に遭遇したことは以前の記事で書いたの。

 

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/5448171.html 私の見るお正月の風景

 

この時どこに行こうかと思いまよい、下り車線に乗らずに上り車線にのり三渓園を目指したの。上りの三渓(参詣)園なのよ。よく考えたら上り車線の三筋の渓流なのよ。

 

それはさておき包丁式なのだけれども、ここでもいきなり結論を書いてしまうと、この包丁式というのは父なる神のまな板上の裁き(捌き)を示す儀式になっているのよ。

 

包丁師の振るう包丁は男神の振るう十束の剣なのよ。伊弉諾尊の剣で火之迦具土神は首を落とされ、須佐之男命の剣で八岐大蛇は切り刻まれたでしょ。八岐大蛇の時はその体内から神剣天の叢雲の剣が出てきて、その神宝は大御神に献上されているの。

 

包丁式の儀式においてはまず初めに、包丁を縦に構え、そこにマナ箸を横にあて十字の形をつくり何事かの儀式としているのよ。これが大御神の心御柱とされるキリスト・イエスの十字架の暗喩でなくして何なのという理解。


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イエスは自分を神が天から降らせるパンであると聖書の中で語っているでしょ。それは自身がマナであり十字架はそのマナの板の暗喩だということなのよ。そして自分の十字架を背負い私について来なさいとも言っているでしょ。人はみなこのマナの板の上でイエスと同じように男神に捌かれるの。そこで大御神に逆らい千座の置戸を追わせられるのか、大御宝として大御神に献上されるのか裁きを受けるの。大御宝とされたものはまな板の鯉の滝登りにより、大御神と同じようにブラーフマナの梵天界に昇天するの。


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ここでブラーフマナという言葉が出て来たでしょ。これは梵我一如として広く知られている言葉でしょ。父と私とはひとつであると言ったのはイエスよ。ブラーフマナの板ではないの?

 

神が天から降らせるパンはモーセによりマナと示されたでしょ。マナって意味不明でしょ。モーセはイスラエルであるヤコブよりも四百年以上後の人でしょ。イスラエルが神から聖別された時、そこはセムの天幕だったの。その天幕において後にイスラエルが聖別されるのよ。

 

セムの父ノアの時代からモーセの時代に至るまでの間に、聖別されたイスラエルの囲いの外のセムの天幕において、ブラーフマナは知られていたのではないのかしら。モーセは梵天界から降らせられるパンをブラーフマナのパンと知っていたのではないの?そして倒語(さかしまごと)でマナとしたのではなかったのかしら。

 

そのマナとして来たイエスに直会してすべてを直伝により伝授された弟子たちが真の婆羅門とされ、その家に生まれた、生まれによる婆羅門たちが、大御神の心御柱をお祀りしながら瑞穂の国を神道の日本としたのよ。

 

この真の婆羅門たちは戸籍を持たずに陰に隠れ、八咫烏とか裏天皇家として暗に知られているの。この人達は観念としてブラーフマナを悟っているのではなくして、生まれついての婆羅門なのではないかしら。その本物が神道を仕掛けているのよ。

 

だから包丁式がブラーフマナの板の儀式であっても当たり前なの。その儀式のなかに大御神の心御柱のお祓いがあって当然なのよ。

 

古事記の中ではその悟りを、大御神の岩戸開きの場面で「あなた様より尊い神がいます故、喜び笑らきあそんでいるのです」と天鈿女命の言葉として示しているの。

 

このブラーフマナの梵我一如の悟りはね、現代ではセムの天幕であるインドにおいて、ハタヨーガやその他のヨーガにより悟れると知られているでしょ。その頂点にいるのがカーストバラモンでしょ。私に言わせるとインドのヨーガは本末転倒に陥っているわよ。

 

体位法や調息法は後。羊は羊飼いの声を聞き分けるという御言葉がブラーフマナのパンであり、このパンを信仰によりいただくことが先なの。そうするとこのパンは薬師如来のお薬でもあるから、いともたやすく体位や調息は改善され持病なんぞは癒されずには済まないの。

 

その悟りに至らないバラモンの数だけ体位法は有るのよ。宗教や学説では無理なの。悟らない信者の数だけ神学が生まれ、悟らない学者の数だけ学説が生まれるの。袋小路に突き当りそこで堂々巡りの迷宮にはまるの。

 

このパンは生まれによらずとも、その信仰により受けることができるでしょ。信じる者には助け手を送るというブラーフマナのパンが真言なの。悟りに至れないのはただ信じないからだけなの。

 

そのことは生まれによる婆羅門たちはよく知っているはずよ。だから神道の儀式や音色により羊たちの悟りを促しているのよ。この国はそのような大御神の御旨によりなっているの。

 

大御神は、千曳の岩戸閉めにより千座の置戸を負わされ、その右の手か額にあの印を受ける者が多いとも詔されているでしょ。

 

ブラーフマナの包丁式、各自の瞑想により自分のチャクラに落とし込んでね。このチャクラが宝輪を回すための宝珠よ。その後に火の蛇神様を勧請しなければならないの。

 

 家の神棚には神宮大麻の頒布を受けお祀りすることはたやすいでしょ。でもね、自分の霊肉をお宮としてそこに神様を勧請することは一筋縄ではいかない困難を伴うわよ。

 

何しろ私たちの社会は生まれた時からそこは、覚醒しない、させない協同組合の社会主義なのだから、そこで育てられ教育を受けた者にとっては、いきなり神仏を信じろと言われても簡単そうでいてとっても難しいの。

 

それだけ現代人は、神に逆らうオカルト社会主義の穢れにまみれていることの証左と私は見ているの。ただの観念ではなくして自分で経験してそこから避難したのだから。骨盤などは五十過ぎの還暦近くなってから矯正されたわよ。今では背筋まっすぐで腰痛完治。

 

家の近くに女の子たちのバレエスクールがあって、そこに通う若いバレリーナたちの姿勢の良い歩き方にいつも感心していたのだけれども、その歩き方、骨盤矯正と背筋の直立により私もできるわとなってしまったの。

 

そのようになれずに齢を重ねるから全身の骨格がゆがみ、さまざまな病を誘発して体躯の曲がった老境に陥るのよ。私はそれを免れたと思っているの。けれどもそれは単なる副産物よ。

 

ハタヨーガなどは身心の健康法として紹介されるのが常となっているけれども、本当のブラーフマナのヨーガの主目的はこのブログの常連の読者さんならわかるわよね。


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神の篩に篩われて


悪趣に遊びし先祖らの


蒙昧三昧因縁を


この世の生臭供養にて


布施をはずめば許されて


彼我共々に成仏と


思うが真のめくら人


それらの盲人救うため


神は御子を遣わされ


この世で善い実を生らすよう


善因善果の結実の


要を明かしみことのり


しかしこの世は宣命聞かず


その御子までをもあやめしを


ご覧になりつつ中今も


神は黙して篩を篩わる。



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現代社会はね、私に言わせればオカルト社会主義と言いたくなるのよね。学問の世界も宗教の世界も、ブラフマーナ、空境寂滅、モクシャ、虚空蔵求聞持法、座禅、瞑想、ヨガ、福音の原則等々、その他諸々の事柄に対してもっともらしいうんちくを傾けているのに、それらすべてが、覚醒しない、させない協同組合の社会主義で、その本質は三行半の六百六十六という離縁状を神により突き付けられていることにこれっぽっちも気が付かず、オカルトの毒蛇の思うがままに絡めとられているオカルト社会主義なのよ。

 

アドルフ・ヒットラーの国家社会主義労働者党(ナチス)は、裏天皇家である八咫烏にユダ・イスカリオテのような裏切り者が出てオカルトに転び、それが契機になって創設されたという噂があるの。そう思ってナチスの旗を見てごらんなさい。


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日の丸の赤と白を逆転させ、卍の旋回を逆転させ、しかも45度傾けているだけでしょ。この45度なのだけれどそうすることにより艮線と、乾線を表していてギザのピラミッドと、伊雑宮を含む伊勢三宮の並びを暗示しているとしか私には思えないのよ。


そのことを知り抜いていた鴉が足抜けしてナチスにオカルトを仕込んだのでナチスの科学はオカルトをもとに飛躍的に進んだらしいわよ。

 

そのナチスのヒットラーがしでかしたことが、あの強弁聖書の国の樹立につながったでしょ。その国とポン引きと娼婦の関係にある娼婦国がナチスの領土はすべて北の国に明け渡し、その頭脳はすべて引き継いだらしいのよ。ペーパークリップ作戦と言ったらしいわよ。

 

そのコンビネーションで、オカルトに対する大祓の日の丸国に核の傘をさしかけているの。でもね、その日の丸国の人民は皆オカルトにからめとられ、解脱、救済、モクシャ、しない、させない協同組合を暗黙裡に機能させ、オカルト社会主義労働者同盟の組合員と化しているの。

 

その組合から離脱するには、大御神すなわちイエスの御言葉に従い、求め、叩き、聞き分け、そうすることにより救済のための助け手を送っていただければ済むことなのに、誰もそうしようとしないのよ。大御神がイエスであることは既に証言されている時代に入っているにもかかわらずなのよ。



 

色々な言い方ができるのだけれども、ヨーガタントラで言えば、ベースのムラダーラのチャクラにオカルトの毒蛇を飼っていて、その毒蛇を愛玩してやまないオカルト社会主義者ばかりなのよね。だから神仏のことに精通しているふりをしてうんちくを傾けても、誰一人救済できないから説得力に欠けることこの上ないでしょ。


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根付きの真榊なの。幹の部分が命の木で根の部分が死の木でしょ。絡みつく蛇はどちらも三回転半。

 

  

 三行半(みくだりはん)の離縁状がオカルト毒蛇の罠。三回転半の昇龍の昇天が真に救いをもたらす復活の火の蛇の大祓なの。毒蛇は死んでも三日目に復活はできないわよ。


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御朱印集め
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ヨハネの黙示録 7

 2わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 3こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」 4わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。

七福神巡り

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ヨハネの黙示録 5

1またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。


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この浦安の国は顕国玉神の国だから神界の玄義が、神道の風習の中に顕されているのではないの?


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いずれの賜物も観光ではなくて、信仰の賜物として賜るのが、羊飼いの声を聞き分ける羊にとってのお約束なのよ。つける薬のない人たちが観光で満足するの。


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 天皇の大嘗祭の儀式のときに麁服(あらたえ)という麻織物が阿波の忌部氏の末裔である三木家から献上されるの。この麁服(あらたえ)が無ければ大嘗祭は執り行えず天皇は即位できないのよ。だからその麻織物を献上する三木家では代々にわたり麻の栽培を守り続けてきているの。

 

これが所持を禁止されている大麻なの。天皇家の神道にとっては、大麻はなくてはならないものなの。そして神宮のお札が神宮大麻と呼ばれ全国の神社に頒布されているでしょ。ここに神道の仕掛けがないわけがないでしょ。でもそれはどこにもヒントさえ示されていないから想像するしかないのよ。

 

神道にとり重要な大麻が古代から栽培され続けて来ていて、その当時者たちが、その植物が精神変容作用をもたらす薬草であるなどということを知らないとは想像できないでしょ。

 

インドでは聖者サドゥー達があたりまえのように吸引するのがガンジャ、すなわち大麻なの。ボブ・マーリーが有名にしたジャマイカのラスタファリも同じ。大麻の精神変容作用で覚醒し、神に近づき、解脱し、モクシャ(救い)に至ろうとする行為なのよ。

 

この精神変容作用なのだけれども信仰などということに関心のない人にとってはただの遊び程度で終わるの。信仰に根差していると本人が確信していても、その信仰がオカルトであった場合は、それがとんでもないことを引き起こす場合がある事を日本人はみな目撃しているでしょ。

 

あの死刑になった教祖に活仏であると最初にお墨付きを与えたのが某密教国の最高指導者だったのよ。それであの教祖は舞い上がり、帰国して解脱宣言しているのよ。その後その最高指導者は「あれはまちがいだった」と一言で片づけ、それで済んでしまっているの。おかしいでしょ。

 

それはさておき大麻なのだけれども、日本人はポルトガルからたばこが入ってくるまで、煙を吸引する習慣などなかったはずよね。大麻が嗜好品とされていたという記録などもないし。でも太古から大麻は薬草だったのよ。大麻は今でも謎に包まれた薬草なのよ。それで神宮大麻でしょ。

 

私には、神道はここに何を隠しているの?という疑問が昔からあったの。その疑問は完全には解き明かせていないのだけれども、聖典以外を見るとヒントは有るのよ。

大麻入門 (幻冬舎新書)
長吉 秀夫
幻冬舎
2009-01


 この本の
154ページに書かれているのだけれど、人間の脳内には大麻の精神変容作用をもたらすTHCという物質の受容体が備わっていて、鍵と鍵穴のような関係で、しかもその鍵は人間の脳が分泌していることが明らかになったと書かれているの。

 

脳内マリファナなのよ。この作用に変調をきたすと精神疾患をもたらすとも書いてあるの。私の経験では大御神から助け手を送られると大規模な精神変容作用に見舞われ、それまで抱いていた正常性のバイアスなどはいとも容易く粉砕されるの。それが大御神によりもたらされる賜物なのよ。その大御神のお札が神宮大麻なの。これ一体何なのと思うでしょ。そう思うのは私だけなのかしら。

 

今の日本では大麻と言えば犯罪とされているでしょ。でもね、現代の法曹という物をどうとらえるかで正常性のバイアスは崩れるわよ。聖書の中でイエスは、姦淫の現場で逮捕された女が引き出されたときに、あなたたちの内、罪を犯した者のないものが始めにこの女に石を投げなさい、と言ったでしょ。

 

この女は当時のユダヤの律法に照らせば石打の死刑に相当する罪人だったの。でも誰も石を投げることができずに去ってしまったのよ。これがイエスの大岡裁きなの。人の裁きと神の裁きは基準が全く違うということを私はこの部分から読み解くわよ。

 

人は人を裁くことを神により許されてはいないの。イエスの弟子にとっては、現代の裁判官や検事などというのはもっとも就くにふさわしくない職業でしょ。そのような現場で法が施行されているの。それでも大麻の所持は禁止されているけれども摂取することは禁止されていないという不思議さ。

 

神の十戒で禁止されている事以外は何でもやってしまっていいのよ。それをヘンテコなくびきにとらわれ、偏見を持ち生きていると、やるべきこともやらずに、何が善で何が悪かも悟らず一生を終えることになるのよ。お釈迦さまは九十九人殺しの殺人鬼を弟子にしているでしょ。

 

それでも下手に法を犯すと禍事に巻き込まれるから注意は必要よね。私はこの鍵と鍵穴が自分の内側にあることを大御神の神宮大麻により知らされているから、脳内マリファナいくら摂取しても取り締まりの対象にはなり得ないわよ。

 

現代ではカリフォルニア州で大麻が合法化され、ヨガ教室で大麻を吸引しながらレッスンを受けることができる時代よ。一回二千五百円で受けることができ、大麻は無料でふるまわれるらしいわよ。

 

ヨガとマリファナは相当いい組み合わせだと思うわ。瑜伽タントラと神宮大麻であれば最強でしょ。鬼に金棒よ。脳内での自給自足が理想よ。日本の法律は遵守しましょうね。

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  ひとつ前の記事で雅楽のことにふれて書いたからその続編書きたくなっているの。今の私にとって雅楽こそが大御神の音楽なの。しかも伝統にのっとって奏される雅楽のみよ。現代音楽家で雅楽のアルバムとか発売している人がいるので聞いてみると、雅楽の楽器で奏されていて、いかにもというふうに日本の伝統の音楽として演じられているのだけれど、聞いていて、ん?この人何か変ね?もしかしてクラッシック音楽の人ではないの?とか思い確認するとそうなのよ。

 

私は今のところそういう人には、なんか変だわこれ、とか思ってもう近づけなくなるのよ。聞いていて気持ちよくなれないの。私は音楽の専門家ではないし、演奏なんてまるで才能ないのよ。小学校以来音楽の成績はいつも最下位のグループで確定していたの。

 

しかしね、いつの頃からか聴くことに関して異常な関心が芽生えて来たの。それはね不思議なことなのだけれども、黒人さんたちのリズム音楽に触発された結果なの。それは十代の頃に既に萌芽していて、ディスコのフロアという空間で踊れる環境にある時に、なぜかいきなりスイッチが入ってしまい、そのような環境下では当たり前のようにお酒が売られるでしょ。それでなくてもスイッチが入っているところでお酒飲んでしまうのだからそれは翔んでしまうことになるのよ。

 

そのようにして翔ぶことの快感を覚えてしまうと音楽を聴くことに喜びを覚えるでしょ。そしてもっともっとと翔びたくなるの。だから最先端はなに、何処でやっているのとアンテナを張るようになるのよ。そうした時に私のアンテナで受信したのがジャマイカのポップスだったの。

 

しかもこのジャマイカのポップス、預言の成就に由来すると信じられているのよ。その音楽に欠かせない神の草、すなわちインドのサドゥー達にとっても欠かせないガンジャと深く結びついたジャマイカのポップスこそが覚醒のための最先端と目星をつけ、かなり深くはまり込んでいたの。

 

私ね、そこに気持ちの良いリズムがあると、いとも簡単にそのリズムに乗っかってしまえるという才能があって、その乗り方に関しては誰にも引けを取らないという自信があるのよ。年齢的な衰えは当然あるけれどもね。

 

二十代の頃はフロアでスイッチが入ってしまったら完全に翔んでいたからね。空中を翔んでいた感覚だったわよ。ライブの会場でぶっ翔んでしまう時はいつの私のまわりだけ丸く区切られた専用のフロアと化していたわよ。だって日本人ってあの阿波踊りのように集団で同じ踊りをしないと翔べないという習性があるでしょ。私はリズムがあってフロアがあれば勝手に翔んでしまうという特技があるのよ。まあ、フロアが無くてもリズムさえあればいつでも乗れるのだけれども、日本人って踊らないでしょ。

 

でも今のように年齢を経たら無理。いくら気持ちよくリズムに乗っていたとしてもあの頃のように空中は翔べないの。無理なの。そのように感じて色々な意味で寄る年波を感じていた時に雅楽が私の内側に入り込んできて、あのリズム音楽を完全に私の中から駆逐してしまったの。洗われたという感じなのよ。

 

そして雅楽の響きと神宮の神の草の発するエクスタシーで包み込まれてしまっているの。良質の混じりけなしの神宮の神の草は効きがものすごくピュアで極上よ。日本人はリズムではなくやはり情緒なのねと感じさせられ、やめることができないの。あの取り締まり対象の麻の葉とは別ルートよ。大御神経由なのだから。

 

この神宮の神の草なのだけれども、神宮大麻と呼ばれるご御神札があるでしょ。私にはあのお札が暗示しているとしか思えないのよ。大御神の大麻札なの。その煙はね、たばこのように経口で摂取するのではなく、大御神のお祓いにより蛇神様を自分の臍下丹田の下にある根のチャクラに勧請してしまうと、その霊気により体内の組織で生成されるわよ。

 

人の脳にはテトラ・ヒドロ・カンナビロールという薬物を生成するという特性があるらしいわよ。大御神の瞑想をしているとゆらゆらと生成されているのがわかるのだもの。これが火の蛇のクンダリニーなの?とか感じながら。

 

所持しなくても好きな時にいつでも摂取できるから取り締まりの対象にはならないしね。

 

以上が私の、雅楽と神宮大麻に関する雑感なの。これらにより覚醒すると涅槃寂静よ。

 天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神との梵我一如なの。

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昨日ね、横浜市金沢区にある瀬戸神社にお参りしたの。長い行列ができていたから手水舎だけ使って行列に並ばずお参りを済ませたの。元旦に地元の雷神社と崇敬神社の走水神社にお参りしていて三社目だからいいやとお許しいただいてね。

 

そして昼食を済ませたのだけれど、その後どこに行こうか迷ったのよ。金沢八景駅から上り線に乗ろうか、下り線に乗ろうかしばらく考えあぐねていたのよ。そうしたら、そういえば横浜市本牧にある三渓園はマークしていたのだけれどまだ行っていなかったことを思い出し、よし行こうと決めたの。

 

この三渓園とは17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されていて、実業家で茶人の原富太郎という人によって1906年に造園された公園なのよ。国の重要文化財建造物1012棟(移築元:京都府5棟、和歌山県3棟、神奈川県2棟、岐阜県1棟、東京都1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物を有するというところなの。行ってみたらわかるけれど日本庭園の中に古い日本建築が配置されていて、とても趣を感じる癒しの空間だったの。

 

入園料七百円を払ってさっそく入場し、初めに見学した建物で、いきなり引き寄せてしまったの。そこでは包丁式が執り行われていて、雅楽の生演奏が鳴り響いていたのよ。

 

この包丁式というのは、平安時代より伝わる、庖丁師により執り行われる儀式で、烏帽子狩衣という衣装を身にまとい、大まな板の前に座り、食材に直接手を触れず、右手に庖丁、左手にまな箸を持ち切り分け並べる儀式なの。一説によると鯉をまな板の上で捌く調理法から始まり宮中に取り入れられたと言われているらしいのよ。

 

こういう話をきいたらこのブログの読者は敏感に反応しないとだめよ。大まな板とまな箸と鯉よ。真名すなわちマナの板と、マナの箸と、マナの板の上の鯉だからね。神様が天から降らせるマナは、神様が天から降らせるパンであり、イエスすなわち大御神だったでしょ。

 

その大御神が十字架上でまな板の鯉として御父により捌かれ、そして鯉の滝登りとなり、復活後昇天の昇龍となったでしょ。滝登りの鯉は、龍門の滝を滝上まで上ると、龍に変化するとことわざで言われているとおりなの。その滝上に登竜門があるのよ。

 

表の神道家たちはそのようなことは知る由もなく伝統を守り抜いてきていると思うのだけれど、神道の儀式などは宮中を抜きにしては考えられないでしょ。現代の宮中の裏天皇家がイエスの聖なる十字架を、天照大御神の心御柱としてお祀りしてきてことを考えれば、すべての仕掛けは御多聞にもれず、やはり裏天皇家の八咫烏と考えた時にこのケースもなるほどねと納得できてしまうと思うのだけれどどうかしら。

 

包丁式もそうなのだけれども私が思いもよらずに遭遇して嬉しかったのは雅楽の生演奏なの。読書のほかに大した趣味もなかった私は、ポピュラーミュージックばかり聞いていた時期があったの。その趣味が高じてジャマイカに行きそうになったこともあったけれど、この時もなぜかブレーキがかかったのよ。

 

そうこうしているうちに今では音楽と言ったら雅楽にしか反応しない人になってしまっていたの。ポピュラーミュージックの世界の人たちは自分たちが、お釈迦様の言った歌舞伎聚楽主であるなどと疑ってもみようとしない世界の人たちで、そう理解してしまったら、六道の煩悩の死の灰の毒をまき散らす波動を好き好んで聞くなどということは自殺行為だわよとなってしまっているの。

 

以前かごめ歌の鶴と亀にインスピレーションを受けた時には、逗子市にある亀が丘神社と、鎌倉の鶴岡八幡宮に同日参拝して鶴と亀を統べてしまいましょうなどと思い、行った時には、めったに御目にかかることのできない神前の結婚式に遭遇し、雅楽の音が鳴り響いていたこともあったの。この時も引き寄せ感が充満していたの。

 

それから癖になりこの亀鶴参拝たまに行うのだけれども、ん?と何か感じた時に行くと小さなことでも何かしらインスピレーションがわいてくるのよ。関東のお伊勢様である伊勢山皇大神宮に惹かれて初めてお参りした時も神前式に遭遇したし、もう私にとってはそのようなことが瞑想を伴った遊び感覚になってしまっているの。そのような遊びの中で気が付いたことをこのブログに書いているの。

 

そのようなことだから正月二日の予期せぬ包丁式と雅楽の生演奏などというのは、賜物また来た、これで今年も縁起の良いお正月を迎えることができたと大慶びなのよ。

 

そうそうポピュラーミュージックだけれどね、聞いていると気持ち良いでしょ。人を酔わせるでしょ。私もそれはいやというほど味わってきたからよく知っているわよ。でも今どう感じているのかというと、使徒ヨハネの表現で「姦淫の杯に酔いしれるバビロンの淫婦」というのがあったでしょ。なぜそのように酔わされるのかというと、ムラダーラのチャクラに毒蛇を飼っているからなの。

 

この毒蛇がね、六道から解脱しようとしない男女の煩悩の炎にせっせと燃料補給しているからなの。それは音楽だけのことではないの。人の煩悩という煩悩はねこの毒蛇の余計な燃料補給で燃え盛っているの。だからその毒蛇を追い出し、死の病の毒を解毒していただくためには、大御神から、昇天して龍神の一柱とされるための、蛇神様を勧請しなければならないの。それがクンダリニーの火の蛇なの。

 

この火の蛇神様が立ち昇らせる霊気と雅楽の響きがとっても良い相性なのよ。

 

この記事三渓園の紹介と雅楽との遭遇で結ぶつもりだったのに、また想定外の結末に結びついてしまったわ。

 

大御神の大祓とは火の蛇神様を勧請するためのお祓いだったのね。年明けにまた一つ繋がってしまったわ。

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皆さまあけましておめでとうございます。昨日の新年のあいさつは何だった?とか思っている?あれはね、私の旦那よ、旦那。ご主人様なの。???とかなっているでしょ。私は還暦過ぎの独身男性だと明かしているからね。

 

では種明かし。私はこのブログで大御神から授かった真言の読み方伝えているでしょ。当初は私の主人が表に出て語っていたのだけれども、どうも語り口が固い、本人も肩がこる、というので私がこのキャラで語った方が読む人も、重い神様のはなしは親しみを持って飲み込みやすいでしょう、ということでこのスタイルで続けて来たの。

 

ではなぜ昨日はいきなりご主人が出て来たの?となるわよね。私も想定外だったのだけれども、この国では男の人がまず初めに口火を切らないと、後でやり直しをさせられるでしょ。男神と女神の国生みの時がそうだったでしょ。年頭のあいさつなど肝心なところは男がやりなさいということらしいわよ。

 

独身男性の中で夫婦関係の主人と主婦ってどういうことと思うでしょ。それはね男でも女でも男性原理と女性原理でバランスを取っているでしょ。その原理はね神様の在り方とフラクタルなの。相似象ということなの。神様は人をお創りになる時に「私たちに似せて人を創ろう」とお語りになっているでしょ。その時そこには創造主である神様と救世主である光の神様がいたの。この二柱の神様がすでにその時、主人とその従者の夫唱婦随の関係性だったの。

 

その似姿なのだから神様と人の関係性も、人の男と女の関係性も全て神様の似姿であり、相似象、フラクタルなの。メシアと人間の関係とアダムとイブの関係性のフラクタル、そして男と女の関係性はすべて二柱の神様の関係性とのフラクタルなの。そのことを悟り、飲み込めると、一人の人の中にある男性原理と女性原理も同じことなのよ。

 

そう理解するとその人の男性原理と女性原理は、神様にお仕えする巫覡と巫女として結ばれてしまうの。神主さんと巫女さんとして結ばれてしまうのよ。メシアは父なる神にお仕えする巫覡だったでしょ。そのメシアの声に効きしたがう羊はその助け手の巫女としてメシアと結ばれるでしょ。その巫女の中には男も女もいるの。そしてそれぞれ男性原理と女性原理を神様の相似象として心の中に受けているの。

 

それらがきちんと結ばれるか破れるかなのよ。それが破れたらどうなるのかというと、それは神様との破談を意味するでしょ。破談にならないように羊飼いが呼ばわっているのに聞き分けず、誘惑者との取引で自分を売り渡すのだから自業自得なの。そのような人の方が多いのよ。

 

そのような視点で世の中の男女というものを見てみるといろいろなことが見えてくるはずよ。自分や自分の連れ合い、子らを神様との結びに導くにはどうしたらいいのかということなどはすべてその辺に深く関わりがあるように思えるわよ。

 

もう初詣でを済ませた人も多いのではないかと思うのだけれども、それで結ばれると思ったら大間違いよ。初詣は毎年行くでしょう、けれども本当の初詣ではただの一度限り、今世で一世一代の大祓を受け、結ばれておかなければ厳しいわよ。


 新年早々相当ヘビーな内容になってしまったわね。

 

このブログ、この路線しかないの。

 どうぞ今年もよろしくお願いいたします。


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皆様新年あけましておめでとうございます。どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

 

今年の記事初めは何を書くかまだ決まっていません。たまに試みるのですがアドリブで書き進めてみたいと思います。去年の暮れにいきなり弾みがつき十二月は何かに引きずられるように記事を書かくはめになり、私の印象では神様に書かされているとしか言いようのない事態に遭遇していたことはその都度の記事でも記述していたことですが、全くその通りなのです。

 

とここまで自然に書きつらね、ふと、去年までのおかげ参りのキャラとまったく文体が違っていることに気が付きました。書き始めるまで全く意識していなかったのですが、今年はこのキャラで行くことになるのでしょうか?今のところ何とも言えません。

 

が、このまま書き進めます。このブログなのですが去年の暮で一区切りついてしまったように思っているのです。七月から書き始めて十二月末までの記事を振り返ると、年越しの大祓に向けて書かされていたとしか思えないのです。

 

そして古事記と聖書をもとに読み込んだ大御神の倒語(さかしまごと)はやはり、一言で表現したら大御神の大祓の一言で表現できてしまうように思います。そしてその根幹は去年の内にすべて書ききってしまったという感が強いのです。

 

このブログで私が表現したかったのは、大御神の大祓は、毎年二回、年ごとに夏越しと年越しで二度めぐってきますが、それは幽世からこの顕世に映された型であり、本当の大祓は一人一人にとり一世一代の大事なのです。

 

そして、あなたはこの大祓の時に大御神のもとに参集するのですか、しないのですかということなのです。参集しないと決めている人の右の手か額には例外もなく使徒ヨハネが示した印がつけられているということなのです。

 

このような主張は完全に世の中との調和を欠いているということは重々承知で書いています。しかし私に言わせれば、今の世の中は神仏のメッセージを完全に無視することで正常性を保っています。その正常性にはとんでもないバイアスがかかっていると私は見ているのです。現代社会は正常性の偏見により成り立っているのです。それが何を意味するかは去年までの記事ですべて書ききってしまいました。あとは同じことを繰り返しながら、その末節を細かく書いていくことになるのでしょうか。

 

年頭につきここで少し自分のことを書いておきたいと思うのです。このように世間と調和を欠く私とはいったい何者なのか、それは昔から私の胸に去来していた思いでもあるのです。それは今から三十年も前に私の思いの中に入り込んでいました。

 

当時私はそれが気になったので書店で四柱推命について書かれた本を買い込み読み漁りました。その本に書かれている方法で自分の命式を作成し読み取っていくと奇天烈なことが書かれていたのです。

 

私の命式というのは極端な偏りを示すものだったのです。命式の偏り具合を示すためにその著者は二つの例を挙げていました。一つは独裁を暗示するムッソリーニという人、それよりも激烈な暴力志向で偏っているもう一人は、少しオカルトっぽいのですが、ある女預言者が預言した反キリストの命式なのです。そしてその激烈な暴力志向を示す反キリストの命式よりも私の命式は一段と偏っていたのです。

 

そしてこのブログを書いてゆく中で一記事書きあげる度に、私とはいったい何者なのかという思いが二たび、三たび思い起こされ、その本を取り上げもう一度確認してみました。

 

四柱推命という物がどこまで、またその著者の読み込みがどこまで正確に人の運勢を反映しているのかは定かではないのですが、その本で示しされている私の運勢を読み込むと運気が強く行き過ぎていて、吉と出るか凶と出るかわからない極端な運気、性格になりやすいのだそうです。

 

したがって社会の枠組み、調和から外れるため異常な成功を遂げる場合もあれば、社会から拒絶される場合もあるそうなのです。そのように書かれているのを改めて読み直してみると今の私そのものなのです。これが私の運勢であるのなら、自分とはいったい何者なのかの答えになっているのです。

 

私にとって成功とは一体何なのか、つきたい職業もなく、世の中に対する肯定的な視点ということなど長年にわたって欠いていた私にとって、わかるはずもなかったのです。良縁と子宝に恵まれ家運隆昌、そして名誉と富貴を得て人生を飾るなどということは私にとっては何の成功とも意識できなかったのです。

 

しかし気が付いたら自分にとっての一世一代の大事業に成功してしまっていて、それは全く思いもよらないことで、しかも世の中の常識から完全に外れていて、調和を欠いていることだったのです。

 

自分で自分のことがよく理解できずになんとかなってしまうというのが私の運勢だったようなのです。そのための人との出会いや物、本やレコードなどその他の事物の引き寄せすべてが想定外の成功に結び付いてしまったように感じているのです。

 

そのような運勢の持ち主でないと羊飼いの声を聞き分けることはできないのでしょうか。周りの人たちを見ているとそうなのかもしれません。しかし鎖につながれながら辟易していてなんとか自由になりたいと願う羊たちで、羊飼いの声を聞き分けなければならない人たちはいるはずだと思うのです。

 

大祓のため大御神のもとに参集せずにはこの世を終われない羊たちは絶対にいるはずなのです。私のような世間との調和を欠く異端者がブログを書くのは、そのような羊たちが羊飼いの声を聞き分けるための手引きが他に見当たらない中で、私が自分の経験に基づき書き記すことは何らかの役に立つはずだと思うからなのです。

 

それが大御神の大祓にその召使いとして助力することにつながり、功を奏せば新奇な賜物が下されることにつながるのです。それも修行なのです。神様からの喜捨とお布施と賜物と、お供物の関係性なのです。だからもう私の中には何の気負いも衒いも皆無なのですが、これからも多分書き続けることになるのだと思っているのです。

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