天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

2019年09月

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あるところに一人の阿修羅がいたの。この阿修羅はね帝釈天や他の阿修羅たちと闘いをすることが生きるということだと信じていたの。ところがある時、ふと弥勒菩薩の声を聴いてしまったらしいのよ。

 

その時ね、仏陀が言ったのはもしかしたらこのことだったのか?虚空蔵の求聞持とはこのことだったのか?自分たち六道の阿修羅はそれを聞き分けず、自分たちの煩悩の炎で六道という結界を張り、その結界の中で死のうとしていたのか?

 

ところがその阿修羅の聞き分けた弥勒菩薩の虚空蔵の呼びかけは、すべての阿修羅たちに、六道の結界を破り、菩薩の八正道の囲いに入れ、狭き門を見い出し、六道の結界から逃れよ。そのようにして将来如来となることを約された菩薩となれと、目に読ませ、虚空から耳に聞かせ続けてきたのだ、太古から今に至るまで虚空から呼びかけ続けて来ていたのだと、悟ってしまったらしいのよ。

 

羊飼いの声を聞き分けてしまったらしいのよ。そして羊飼いを羊のもとに遣わした梵天のことも悟ってしまったらしいのよ。そして梵天の遣わした羊が弥勒菩薩であり、梵天に如来として、他の菩薩たちの羊飼として灌頂されて、菩薩たちが如来となることの鍵を預かっているということまで求聞持で聞かされてしまったらしいのよ。

 

どういうことかわかる?

 

梵天とはねだれでもが心に思う神様なの。けれどもね、誰でもがみな阿修羅だからこの神様のみ旨を知らないの。知らないからその御旨に沿うような生き方ができていないの。だから阿修羅の修羅場なの。

 

この阿修羅の修羅場は悲惨な状況を避けるために代表阿修羅が法を定め、その阿修羅連の法治が行き届いているの。でもね、神の御旨を知らない阿修羅連たちだから、この世に執着する自分の煩悩にいともたやすく惑わされ、翻弄され、偽善者たちの巷と化しているのよ。

 

求聞持法を菩薩たちに施す天帝がそのことをご存知ないはずがないでしょ。だから阿修羅や餓鬼たちを六道という結界の中に封じ、穢れを封じ込めているのよ。

 

これは神様がしている事なのだけれども、見方を変えれば餓鬼や阿修羅たちが穢れを好き好んで自らその結界を張っているとも見ることができるのよ。そのことを求聞持法で悟ったお釈迦様が、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是とお示しになったの。



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一つ前の記事で虚空蔵求聞持法などという大それたタイトルで記事を書いてしまい、密教の時代は過ぎ去っているなどと大見栄を切ってしまったの。でもね、聖書を読みイエスの贖罪の意味を悟った身においては、イエスの御言葉が虚空蔵求聞持法を判りやすく解説して飲み込ませてくれる菩薩の御言葉としか思えないのは本当のことなの。そして密教の時代は過ぎ去っているということについても、神道の元締めが天照大御神の心御柱がキリスト・イエスの贖罪の十字架だということを証してしまった以上その様に言えると思うの。

 

でもね、そこには神様の大いなるはかりごとが介在しているの。そのことも書くように促されているの、おかげ参りは。本当に困ったものだわ。神様が離して下さらないのだもの。だから書くわ。

 

聖書の管理者はイスラエル国とバチカンでしょ。仏教経典の管理者は世界に散在する密教を含む仏教諸派でしょ。これらの世界宗教の管理者の生業により聖句はベストセラーとなり仏伝や仏像も世界中で信仰の対象になっているでしょ。でもね、これらを世に広めている管理者たちは神仏のお諭しである解脱悔い改めの魔訶般若を悟れない人達でしょ。もしこれらの管理者が解脱悔い改めの魔訶般若を悟った菩薩であったのなら世界は今とは違ったはずでしょ。

 

それでもこれらの管理者たちがそれを生業として来たから聖書は現代においてベストセラーだし、仏伝や仏像も大人気なの。そこに魔訶般若として悟らなければいけない重要な、神様の密教が潜んでいるのよ。この神様の密教は言葉で表現するのは無理だわ。色即是空、空即是色と表現しても当てはまらないでしょ。しかし神様の密教はそこにあるのよ。

 

私がなぜこの記事を書くつもりにさせられたかというと、天照大御神の心御柱はキリスト・イエスの贖罪の十字架だと証してしまった八咫烏とその取材者の関係が、神仏とその神仏の魔訶般若を悟らない管理者の関係にすっぽり当てはまっているからなの。その悟らない管理者により天照大御神の心御柱はキリスト・イエスの聖十字架だと明らかにされてしまったの。ここに神が園の中央に二本の木を生えさせられた時に、善悪を知る木から取って食べるようにそそのかす蛇がいたということにより示される神様の重要な密教が示されているわよ。

 

これはことばでは説明できないわ。悟るしかないの。それが神様の密教なの。聖書の管理者も仏伝仏像の管理者もなぜか悟らないでしょ。天照大御神の心御柱を明かにしてしまったカバラの管理者もなぜか悟らないのよ。その人はモルモン教の信者なの。でもねこの人のカバラの知識は管理者の名をほしいままにするだけの奥行きと、厚みは十分に兼ね備えているの。そのようにして神様は悟らない管理者を通して密教をお示しになるのよ。

 

それは管理者として聖別されたイスラエルが神を悟らずに、ついに終末を迎えるということを暗示しているように思えるの。この記事で何が言いたかったかというと聖書や仏伝は賜物の宝庫、モルモン教徒の日本人であるカバラの管理者の著書も賜物の宝庫であるということなの。でも悟りに至らない管理者たちのパン種にはよくよく注意してね。

 

それが神様の密教と私は受け取ったの。虚空蔵求聞持法よ。

 

上記のことを注意書きとした上で私のカバラの知識の仕入れ先を示しておくわね。著者はモルモン教徒よ。

アマゾンで検索して。

失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎―裏神道の総元締め「八咫烏」が明かす封印された第三の伊勢神宮と天照再臨 (ムー・スーパーミステリーブックス)



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 十七世紀のイギリスの政治哲学者のホッブスという人がね、個々人の平等な生存権に基づいてくり広げられる「万人の万人に対する闘争」を人間の自然状態とみなしたそうなの。その哲学を踏襲して各主権国家がそれぞれの国家利益の増進を目指して、相互にしのぎを削る潜在的戦争状態の国際社会像が構築され、その哲学により現代の国際政治経済は運営されているらしいのよ。その帰趨により軍事力に基づく、覇権国との安全保障体制が必須のものとなっているの。

 

この「万人の万人に対する闘争」というのは完全に阿修羅の修羅道の悪趣の世界でしょ。それが現代文明社会の正常性なの。しかしね、現代の文明社会におけるベストセラーの書物において弥勒菩薩はそのような阿修羅たちの、正常性の偏見にとらわれた社会を激甚災害の現場として、滅びに至る門は広く開いていると警告しているの。

 

そのことを読み取った時にこのベストセラーの書物は、弥勒菩薩から求聞持法を授かるためのバイブルであったと理解できるのよ。阿修羅が弥勒菩薩、虚空蔵菩薩から求聞持法を授かるためのマニュアル、教科書だったと理解するの。それはメシアからの洗礼と示されているわよ。メシアからの洗礼とは聖霊を送られるということであり、それは仏説で示されている梵天から灌頂を受けるということだわ。

 

メシアも救世の菩薩としてこの世に来られ、十字架上で梵天から灌頂を受け如来とされたのよ。その如来により弟子たちは聖霊を賜り、将来如来となることを約され、阿修羅から解脱し菩薩とされたの。その菩薩たちが上からの力に覆われ、失われたイスラエルとなり、その如来を天照大御神としてお祀りしながら求聞持法による菩薩国として神道の国、日本をあらしめているの。

 

わかりやすく言えば阿修羅は神によりメシアのいいなずけとされこの世に送られてきた羊なの。賢い羊は羊飼いの声を聴き分け自身がメシアの父によりいいなずけとされていたことを聞き分け、父なる神と子なる神を識別し、子なる神からの求婚をお受けするの。求婚をお受けすれば婚約者とされるから当然お仲人が立てられ結納が交わされるでしょ。その時にお納めするのが結納のための信仰であり、お受けするのが如来となることを約された証の求聞持法なの。

 この求聞持法により如来となるための命の木への道を守らせられる菩薩として必要なことを示されるの。弥勒菩薩は求めなさい、そうすれば与えられると御言葉しているわ。そして時が至り、御父のお許しが出た時にその御神前で結び固めの儀が行われるの。菩薩ヨハネはそれを子羊の婚宴と黙示しているでしょ。この国は神仏混交の仏説魔訶般若の虚空蔵求聞持法によりなる国なの。阿修羅にとっては既に密教の時代は過ぎ去っているの。神道の元締めが天照大御神の心御柱はキリスト・イエスの聖十字架であると証してしまってから十九年もたっているわよ。


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 私ね、聖書一本やりで求道していたから仏伝なんて深く学んだことなかったの。でもね、ある時キリスト・イエスのことで御霊に感じ、神気にうたれた時があったのよ。その時にこれってもしかしてお釈迦さまが御説きになっていた解脱と関係ある?とふっと思ったのよ。そうして瞑想してみたら関係が大ありだったの。そのことは他の記事でも書いてきたけれども、だからと言って仏伝なんかいまさら深く学ばなくても別にいいわ、仏陀の預言した弥勒菩薩から助け手を送られてしまったらもう必要ないでしょと思っていたの。

 

そして二つ前の記事で「この世に息があるうちにお迎えを受ける」なんて記事を書いてしまったら、ああ、もう私もこの世のものではないわとあらためて実感したのよ。でもね、イエスやお釈迦様が御説きになったことはこの世に対する執着を捨てなさいということなのよ。この世に対する執着を捨て得た時に初めて高天原の父からお迎えが来るのよ。生きているうちに。

 

イエスの聖書にはそのことが記されているわよ。仏伝ではそのことが梵我一如として伝えられているでしょ。聖書も仏伝も世界宗教よね。でもね、私は、宗教は極めてこの世的な生業に属していて、宗教では命の息があるうちにお迎えを受け、梵我一如を実感することは不可能だと思うの。

 

キリスト教の誤謬は神を三位一体としたことよ。そんなこと宗教会議で決めるという感覚が私に言わせればお陀仏。そして仏教についても改めて考察し始めているのだけれども、仏教は釈迦を如来として神の上位に置いたでしょ。ヒンズーで示されていたブラフマより上位の如来としたでしょ。それが十大弟子の悟りにより仏伝として伝えられ、世界中で釈迦を崇めているでしょ。それじゃあ解脱は釈迦しかできないわけよね。

 

そして解脱は釈迦にしかなし得ない魔訶般若として権威付けし、その権威で生業を立てているでしょ。それが仏教なの。そのように観世音したからよく考えてみたの。現状で分かったことを私見として書いておくわね。菩薩とは将来御父のもとで復活を約された解脱者たち。釈迦もこの範疇なのよ。如来とは菩薩としてこの世に来た弥勒菩薩が御父の御旨に従い救世の大業を成し遂げられ、この世で死を受けながら三日目に如来として復活して当時の菩薩たちの前にそのお姿を現したことを物語っているの。

 

そのお姿を見たわけでもないのに見たのと同じように信じ、悟る者に神様からお使者が遣わされ来世で高天原の神宮におかげ参りを許される菩薩としていただけるの。菩薩たるも如来たるもすべて神の御旨に沿い奉るか否かにかかっているのよ。だからイエスは父の御旨を行う者が天の国に入ると御言葉したの。

 

キリスト教も仏教もつまずいているでしょ。神道は飲み込んでいるわよ。キリスト・イエスは菩薩行を終え如来となられたから当時の菩薩にしかそのお姿を現さなかったの。それが岩戸開きだったの。天照大御神の岩戸が開け、弥勒菩薩が永遠の命をもたらす薬師如来となられたことを古事記は、神道は、この安国の国生みとして伝えているの。見たわけでもないのに、まるでそれを見たかのように信じる者にならなければ如来をお遣わしになった父なる神からお迎えを受けることはできないわ。天照大御神をお遣わしになった尊い神様がいますことは古事記にはっきりと記述されているわ。というのが現状での私の理解。参考になればいいと思うけれども、お迎えを受けながらこの世に留められているということは、まだ学びが足りていないということだから至らないところは大目に見てね。


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籠の中の鳥を発見したわ。皇大神宮では遷宮のたびに籠の中の鳥が供えられていたのよ。
籠目は六芒星の曼荼羅にしか見えないし、六芒星は元伊勢京都籠神社の裏社紋なんだって。
そこの宮司さんが「籠目歌は当神社の発祥です」と言っているらしいわ。
写真を見ればかごめ歌のかごの中の鳥にしか見えないでしょ。
籠目の六芒星はユダヤのダビデ家の紋章だし。
メシアはそのダビデの子だし。
神宮の心の御柱はメシアの十字架だっていうし。
鶏鳴三声もメシアの十字架の朝に鳴いていたし。

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お釈迦さまとイエス様の違い判る?お釈迦さまは解脱するための苦行の果てに如来となられたの。イエス様は十二歳の時に神殿を父の家と見切っていて、その後ユダヤでメシアとして教え始める前にヒンズーの経典をマスターし、仏典をマスターし、衆生を救うための研鑽を積んだと言い伝えられているの。

 

お釈迦さまは如来となられたけれどまだ復活はしていないわよ。それでも入滅する前に真理を悟り、弥勒菩薩からお迎えを受け、自身も菩薩として働いたの。イエスは既に復活を果たし、そのことにより救世観音としての御働きを半ば終えられているの。その救世観音の御働きの日取りが仏陀の預言した五六七なの。

 

観音と菩薩と如来の違い判る?すべて神の道においてその道を悟った人のことを示しているわよ。イスラエルの預言者もお釈迦さまも全てその身内で観音と菩薩と如来なの。ただ救世が付いたときだけはイエスのことを示しているの。イエスは前世で便宜上ヤハウェとかエホバと呼ばれ、この世に肉を受けた時はイエスと呼ばれ、復活して天に上った後は、そこを高天原として天照大御神としてお祀りされているの。信じる者には助け手を送るという御言葉を残しているわよ。そのようだから観音と菩薩と如来は救われる方も救世観音も別名の洪水なの。梵我一如なの。魔訶般若なのよ。

 

その救い主をお遣わしになった創造主の御旨が、この世に息のあるうちに、救世の主からお迎えを受けておけということなの。それが仏陀のお示しになった解脱。宗教や哲学や神学はそれらのことをこれっぽっちも理解しないから、自分たちの囲いの中で観音と菩薩と如来の現世の御利益をうたい、献金やお布施を受けているの。仏陀の解脱も理解できないのに自分たち以外を求道者などと呼ぶ人達まで居るわよ。宗教の外でそれをビジネスにしているごくつぶしもいるでしょ。

 

でもね、弥勒菩薩から生きているうちにお迎えを受けようと思ったら、いくら金銭を積んでも無理よ。私なんかそのような人たちはただの霊感商法に堕しているとしか思えないのよ。

 

日本の皇大神宮は禊を済ませていないただの観光客でもお参りできるけれども、高天原にある神宮は禊を済ませていない者が、安易にお参りできるようなお社と思う?そこには命の木が生えているのよ。

 

顕世と幽世でつながっている観音と菩薩と如来の魔訶般若により、いまは高天原の御父のもとで支度の修行をされている、救世観音、天照大御神により禊を受け、生きているうちに高天原からのお迎えを受けなければ、なかなかお参りできるところではないと私は思うわ。何でこんなこと今まで誰も教えてくれなかったのかしら?


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