天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

2019年08月

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 特に男の人はね「右の目が罪を犯すのなら抉り出して捨ててしまいなさい」というイエスの言葉を強く意識したほうがいいわよ。私はこの語り口だけれど普通に男だからね。よくわかるわよ。右の眼を抉りださずに済ませる方法を自力で理解してしまえば男の人は簡単に解脱できるわよ。右の目が罪を犯すから成り立っている産業があるでしょ。あれが男の宿痾なの。その宿痾からの解脱なの。

 

イエスの御言葉と聖書を魔訶般若で瞑想しないと難しいかもしれないけれど、イエスの御言葉を丸呑みにして解脱しない人がいたらお目にかかりたいくらいだわ。その解脱した空境にイエスから助け手が送られてくるの。そうなってから瞑想して自分のデスマスクを観想すると、生きているうちにお迎えが来てしまったと実感できるはず。それが空境涅槃なのよ。お迎えが来ないのはイエスの御言葉を丸呑みにできていないから。イエスの肉を食べ、その血を聖杯で丸のみにできていないから。イエスと魔訶般若がつながらない人が神学で語るの。瞑想のためのヒントは、もうほとんどこのブログで書いてしまったわ。

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イエスの「信じる者には助け手を送る」という御言葉はね、イエスを信じる者には生きているうちにお迎えが来るということなの。イエスの御言葉を丸呑みにしてそれでも解脱しない人がいたらお目にかかりたいくらいなの。仏陀の預言した弥勒菩薩よ。弥勒菩薩からお迎えが来るということなの。当然空境涅槃を悟らなければ来れないでしょ。煩悩の炎を自力で吹き消そうとしない者に梵天界からお迎えなんか来るわけないでしょ。

 

高天原で賢いおとめを迎える準備をしている天照大御神よ。自力で禊しようとしない者に高天原からお迎えが来るわけないでしょ。「イエスはわたしのことを信じない者が私を殺すのである」と言っているでしょ。油断した愚かなおとめにお迎えが来た時には婚宴会場の扉は閉まっているとたとえ話で教えているでしょ。

 この世にあるうちに高天原から納采の儀のお使者は送られてくるの。私の言うことなんか信じなくても問題ないけれど、聖書のイエスの御言葉は確実に成就するからね。生まれてこない方がよかったという事態に陥るわよ。滅びに至る道は広く大きく、そこから入る者が多いと警告されているでしょ。メシアを信じお迎えを受けるか、この世の雑事に気を奪われ終わりを迎えるか二つに一つしかないと思うわよ。自分のまわりをよく見たら、狭き門を見い出せず神様のこと安易に考えている人ばかりでしょ。自愛してね。


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 古事記では天照大御神に岩戸からお出ましいただくために常世の長鳴き鳥を鳴かせたと書かれているのよ。どのように鳴かせたかというと「カケコー、カケコー、カケコー」と三度鳴かせたの。岩戸が閉じる前に三度。開けてから三度×二回。都合九度。三々九度の固めの盃の暗喩かしらね。

 

「カケコー」の皇大神宮の茅葺のお屋根の上に二匹の魚と五個のパンが乗っかっているの気が付いているかしら。二体の千木と十本の鰹木。合計で十二。神代七代の二柱の神様と五組の夫婦神で合計十二柱の神様の暗喩なのよ。この二匹の魚と五つのパンは天照大御神のふるいだからやたらと奥が深いわよ。この記事ではゆらゆらとふるうと死人をも生き返らせる十種の神宝について書くわ。

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十種の神宝では天津罪五つと国津罪五つがゆらゆらとふるわれるの。どのようにふるい分けられるかというと、この世に来た五人の賢いおとめと、五人の愚かなおとめに篩い分けられるの。古神道の古老は死に至る罪と死に至らない罪があると示しているわ。油を切らせなかった賢いおとめはこの世にあるうちにお迎えが来るのよ。油断した愚かなおとめはお迎えが来た時には扉が閉ざされているの。

 

別の古老の一人は聖霊により篩い分けられた麦は倉に納められ、殻は火で焼き払われると示しているわよ。聖霊は神宮のお屋根の二体の千木。羽を広げているでしょ。善い実を結ばない木の根元には斧が置かれていて、十種の神宝で篩い分けられた悪果の木は聖霊の天津金木で切り倒されると示しているの。それが「カケコー」の悟りなの。


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 皇大神宮の鶏鳴三声なのだけれど私の理解に足りないところがあった。鶏の鳴く前に三度イエスのことを知らないと言ったペテロの象徴と理解していたでしょ。それだけではなかった。イエスは復活後、ペテロに顕れ「ほかの人より私を愛するか」と三度尋ね、ペテロは「私が愛していることは主ご自身がご存知です」と三度答え、その三度ともイエスはペテロに「私の羊を飼いなさい」と命令しているの。これがペテロとイエスの三声でもあったのよ。

 

二十年に一度の式年は七七七の二十一年目には神殿建て替え。七七七の三日目には神殿立て直しのイエスの御言葉成就。七年ごとに進むヨベルの暦に則るイスラエルの式年遷宮。ヨベル書を偽書としているユダヤ教やキリスト教は油をきらせた愚かなおとめなの。当然のごとく命の木のカバラは読みそこなうわよ。


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ついにとどめさされたわ。二匹の魚と五つのパンは御父と御子と聖霊、御父と御子といいなづけに対応していた。二つ前の記事でこの二匹の魚と五つのパンのセム、ハム、ヤペテとの対応の記事を書いたけれどそのままアブラハム、イサク、ヤコブに対応していて、ということは当たり前のように御父と御子と聖霊、御父と御子とイスラエル、御父と御子といいなづけに対応していて当たり前だったのよ。


 

二匹の魚が御父と御子だったのよ。御子の魚がカナンの呪いとイスカリオテのユダで死を暗示し、同時にイサクの祝福による復活を暗示しているのよ。その御父と御子と聖霊のふるいにより、イスラエルがふるいにかけられ、いいなづけが賢いおとめ五人と愚かなおとめ五人のふるいにかけられるのよ。五つのパンとは陰陽の五行なの。このふるいには三と五と七と十と十二の数が隠されていたのよ。

対応関係をまとめると

一匹の魚  御父 セム  アブラハム  ペテロ

一匹の魚  御子 ハム  イサク    イスカリオテのユダ

五個のパン 聖霊 ヤペテ ヤコブ    10人の弟子

 

一匹の魚   失われた二支族 イエスの復活(婚約) 失われたイスラエル(天照大御神)

一匹の魚   残された二支族 裁き        残されたイスラエル

五個のパン  失われた十支族 ふるい       外国        

 

少し複雑な部分もあるけれど、飲み込めるかしら。イエスの復活によりそのふるいは失われたイスラエルの神である天照大御神の手に移っているの。同一神だけどね。主人の家のテーブルはイスラエルから、誰にも知られずに失われたイスラエルに移動しているということ。

 

そして人種にかかわらずベストセラーの聖書のイエスの御言葉で世界中がふるいにかけられているということ。それが神変による天照大御神の失われたイスラエルでは陰陽五行十干十二支七曜二十八宿の魔訶般若の十二か月の暦として昇華しているということではないかしら。やはり神変不可思議な神秘国なのよこの国は。天照大御神の時からは逃れられないわけよね。日本人が魔訶般若の一番近くにいるということよ。


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 マタイ二十五章

「十人のおとめ」のたとえ

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

 

「タラントンのたとえ」

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 

このマタイ二十五章のイエスのたとえ話にも二匹の魚と五つのパンのイエスのふるいが示されているわ。「十人のおとめ」のたとえでは二匹の魚は隠れているけれども愚かなおとめ五人と賢いおとめ五人が二匹の魚として折りたたまれているのよ。愚かなおとめから油断大敵という言葉が生まれたのでしょうね。

 

次の「タラントンのたとえ」も同じく二匹の魚と五つのパンのイエスのふるいが示されているわ。五タラントンあずかった僕は五タラントン儲けて十タラントンにして祝福を受け、二タラントンあずかった僕も二タラントン儲けて四タラントンにして祝福を受け、一タラントンあずかった僕は一タラントンも儲けず一タラントンのままで主人からお叱りを受けたの。二タラントンと五タラントンで二匹の魚と五つのパンを暗示しているでしょ。

 

一タラントンの僕は二匹の魚の内の一匹で主から呪いを受けたイスカリオテのユダの暗喩なの。その一タラントンは取り上げられ十タラントン儲けた僕に与えられ十一タラントンになったのよ。この十一という数はイスカリオテのユダが抜けた十一人の弟子。イエスが十字架にかけられた時は十一人だったでしょ。でも十二弟子に回復されたの。

 

問題は二タラントンを四タラントンにした僕よね。これは折りたたみ方が幾重にも重なっているわよ。二匹の魚と四という数字は何を意味しているのかということよ。完全に謎々の世界。イエスの示す二匹の魚と五つのパンのふるいの深いところまで悟れる人は悟りなさいと言われているわよ。

二匹の魚と五つのパンはイスラエルの十二でしょ。イスラエルの十二は四人の女性から生まれているの。イスラエルの十二には旧約の十二と、新約の十二があるでしょ。たして二十四。ヨハネは黙示録で四人の天使と二十四人の長老を黙示しているわよ。

さらに二匹の魚は御父と御子の暗喩、五つのパンは五人の賢いおとめと五人の愚かなおとめの暗喩。これがイスラエルの十二支族の暗喩なの。賢いおとめと愚かなおとめは神が園の中央に植えた二本の木なの。それが御父と御子の賢いおとめの嫁取りなのよ。そこに何も生まない一匹の蝮がいたということでしょ。おろかなおとめは油をきらせたばかりに蝮に取られお陀仏。
 

キリストの祭司となる人向けの謎々なの。かなり奥深いけれどもそれはイエスの井戸は底知れぬ奥深さを湛えているということだと思うわよ。その井戸から汲んだ水を甕の縁まで満たすの。

 古事記では天孫瓊瓊杵尊が木花開耶姫
(このはなさくやひめ)だけ娶り岩長姫を送り返したという物語でその折り畳みが語られているわよ。岩長姫は岩のような長い命で右近橘の命の木の象徴なのに、なぜ瓊瓊杵尊は送り返してしまったの?という謎々。井戸から汲んだ水に山幸彦が口に含んだ珠を吐きいれたら器とくっ付いて取れなくなってしまったという謎々。これらの謎々を信仰においてイエスから汲む水として瓶の縁まで満たすとぶどう酒に変わるの。

聖書を神学とか言いながら読んだ気になっていたらお陀仏。だいたい神様を三位一体などと会議で決めようという発想が頭おかしいでしょ。



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 旧約聖書の創世記で洪水を生き延びたノアとセム、ハム、ヤペテなのだけれどイエスと二匹の魚と五つのパンに見事に対応しているわよ。

 

創世記9章

 11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

 13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

 

 24ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、 25こう言った。「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」 26また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。 27神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」

 

この創世記の記述にあるセム、ハム、ヤペテは大体において、モンゴロイド、ネグロイド、コーカソイドの祖と言われているでしょ。学術的には色々な議論がされていると思うのだけれど、私は、聖書は学術では読みそこなうという立場だからカバラで読んでしまうの。

 

カナンの呪いと言われているのだけれど、カナンというのはハムの子でこの末子のハムがしでかしたことで呪いを受けているの。読み解くとセムの神の天幕でヤペテとハムという序列がつけられ、兄と弟の関係を奴隷と表現しているの。主なる神はセムの神なので、神、セム、ヤペテ、ハム(カナン)の順なの。そして居住地はセムの天幕なの。これが旧約聖書の洪水以降の世界観の元なの。このセム族からアブラハムが出てイスラエルと神の契約につながったの。

 

人種の優劣が言いたいわけではないわよ。キリスト・イエスはカバラを二匹の魚と五つのパンで簡略でありながらすべて示しているの。だからこのカナンの呪いの意味もイエスのカバラで悟れるのよ。二匹の魚と五つのパンというのは七という数を示しながら十二をその中に含んでいたでしょ。


http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1464237.html
 (二匹の魚と五つのパンと十二の禊の呪術)

ここでの解釈はイエスの十二弟子から入るの。二匹の魚とはペテロとイスカリオテのユダ。残りの十人の弟子が五つのパンなの。そう考えると三分割が見えてくるのよ。そしてこの三分割がセム、ハム、ヤペテに対応しているの。イエスに祝福された人ペテロとセム。イエスを裏切り「生まれてこない方がよかった」と言われたイスカリオテのユダと、呪いを受けたカナン(ハム)、のこりの十人の弟子に対応しているヨハネなの。これは端的に解釈すると祝福と呪いと神のふるいを意味しているのよ。二匹の魚と五つのパンとはイエスの手に持つ箕なの。

 

マタイ3章

 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。 9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。

 

ここで引用した聖句は洗礼者ヨハネがファリサイ派やサドカイ派の人々に語った言葉なのだけれど、後にファリサイ派やサドカイ派に銀貨三十枚でイエスを売り渡したのがイスカリオテのユダなの。ペテロの祝福とイスカリオテのユダの呪いは、ユダヤの二支族が祝福と呪いで篩い分けられたことを意味しているのよ。そして呪われた方は切り倒され、火で焼き払われ、残された方は麦として倉に納められると言っているでしょ。これが二匹の魚なの。

そしてイエスの弟子の残りの十人も祝福を受け、イスカリオテのユダの抜けた穴も埋められ回復された十二弟子となり祝福の象徴となったの。この十二弟子の祝福の象徴が鶏鳴三声の失われたイスラエル。呪いの象徴が切り倒され火で焼かれる蝮の子ら。

 

それが現代の世界情勢として顕れているの。五つのパンとはこの祝福と呪いを見て善悪を悟り命の木に与ることを許されるのか、善い実を結ばず切り倒されるのかふるいにかけられているということなの。

 

イエスが十字架上でその篩を振るったのでそれ以降それが世界中に見える形で現代社会に顕れているの。人種にかかわらずノアの、セム、ハム、ヤペテのカナンの呪い、イエスの二匹の魚と五つのパンの篩で篩い分けられている真っ最中なの。パンは善と悪で二つに切り分けられ二×五で十個なのよ。善悪を知る木から取って食べ、善悪を知るか篩にかけられているの。

 

そのための手引きが十二支族に与えられたモーセの十戒と旧約聖書。二支族によりもたらされた新約聖書、失われた十支族の預言者仏陀の魔訶般若。失われたイスラエルの古事記なの。失われたイスラエルの神道では天津金木と十種の神宝と示されているわ。天津金木とは天の金克木で切り倒されるということなの。切り倒されずに虹の契約で残されるのが命の木なの。


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 あのね、天の御父はね初めから神前における結婚のお祭りを催すおつもりなの。そのために光の神を有らしめ、ご自身と光の神に似せ男と女を創ったの。アダムとイブとその子孫はすべて光の神、メシアのいいなづけとして作られたの。アダムとイブはそのメシアといいなづけの暗喩でもあったの。そのアダムとイブの子孫の中からイスラエルを選び、全人類にいいなづけの縁談を知らしめるお仲人の役を、メシアを通してお授けになったの。

 

イスラエルの十二支族とイエスの十二弟子はその象徴なの。イスラエルのすべての預言者がその象徴なの。特に顕著なのが二支族代表のバプテスマのヨハネと十支族代表のお釈迦様、二弟子代表のペテロと十弟子代表のヨハネなの。バプテスマのヨハネの預言通りに、善い実を生らせないパリサイとサドカイのマムシの裔は切り倒されたの。その象徴がイスカリオテのユダ。残されたのがペテロ。イスカリオテのユダの代わりにマッティアという人が補充されて十二弟子は回復したの。

 

十大弟子を率いたお釈迦さまは、イスラエルの十支族代表として弥勒菩薩の降臨と梵天の神前における結婚式を暗示し預言したの。イエスの十弟子代表のヨハネは、福音書でメシアの婚約式を暗示し、黙示録で子羊の御父の神前における婚宴を黙示したの。旧約聖書のモーセは、割礼が血の花婿であるイエスとのいいなづけの誓約と暗示していたの。

 

その旧約聖書を補完するのが新約聖書で、そこではヨハネが共観福音書を補完しながら、イエスの死と復活が婚約の誓約にあたる洗礼だと示していたの。お釈迦様と福音書記者ヨハネはその洗礼を受けるための作法を示していたの。弥勒菩薩を預言した十大弟子を率いたお釈迦さまと、十弟子代表のイエスから愛された弟子のヨハネなの。イエスはこれらのことを二匹の魚と五つのパンと五千人、あまったパンくずは十二かご。別の時には七つのパンで四千人と示していたの。

 

そして失われたイスラエルにおいてはバプテスマのヨハネに対応したペテロの鶏鳴三声が神宮の遷御の儀のシンボルになっているの。遷御の儀とは神殿を立て直し新しい神殿にご神体を遷すこと。神殿を三日で建て直して見せると言ったのはイエスなの。それは三日目の復活のことだったの。二十年の式年とは一年の十年換算で三日目には建て替えということ。それは七七七の二十一年目のイスラエルの満願をも示しているの。

 

ベツレヘムから世紀換算の七七七の二十一世紀になるとすぐ鴉が天照大御神の正体を明かしたの。ゴルゴダの丘で鶏が鳴いてから世紀換算の七七七の二十一世紀はもう間近なの。籠の中の鳥の鴉は鶴と亀を示してもう鳴いてしまったのではないのかと思うのよ。籠の中の鶏が鶏鳴三声を告げる時を、ヨハネは七つの封印、七人のみ使いのラッパ、神の怒りの盛られた七つの鉢の七七七で黙示しているのだけれど、これが世紀換算の七七七だとしたらどうなるのかしら。イエスの時から一日の千年換算で間もなく三日目を迎えるのよ。でもねそれはわからないが正しい答え。

 

わからないのだけれども一九九九年年にはこんななことが起こっているし、

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_87.html

一九九九年から三年後に八咫烏の天照大御神の心御柱発言が出ているし、二〇一二年にはマヤ歴がどうしたこうしたで話題になったけれど、マヤ族というのも白神の降臨を受け、再降臨を待ち望んでいた民族だし、イエスの一二歳の時の聖書の記事から七七七の二十一世紀でしょ。しかもひとつ前の記事でお釈迦様の入滅から五六七年後を調べてみたらイエスの二十四歳にあたるし。十二はイスラエルの重要な数で、ヨハネの黙示録ではやたらと七という数が出てくる中に混じって二十四人の長老という記述があるし。八八八は八×三で二十四でしょ。でもね、これはほんの一部で、しかも私の身に起こったシンクロ二シティーとの関連を全て示そうとしたらとんでもないことになるのよ。でもね、何か起こるか起こらないかわからないの。

 

私はね人間は猿の進化したものだなどという不信仰な学者の言うことは鵜呑みにできないし、何が起こるかわからないし、周りの人間は自分を猿の末裔と信じている不信者ばかりだから、これは危ないと思いイスラエルの預言者とイエスの言葉に従い、自分の信仰に基づき、聖書に書かれている神変をすべて鵜呑みにしたの。そうしたら書かれていた通り、神変により高天原から納采の儀のお使者が送られてきたわよ。まるっきり想定外でそんなこと起こるとは思ってもいなかったけどね。自分のこと猿の進化だと思っている人にはわからないわ。

 

そうして判ったのは、信仰により聖書で証しされている神変を鵜呑みにできなければ無理だったのだということ。それがイエスの肉を食べ血を飲むということだったの。それがカバラにより示される叡智、お釈迦様の弥勒菩薩の魔訶般若なの。この世的な人生哲学や処世術の類ととらえていたら道から外れるわよ。神前での結婚に処世術や、哲学や神学など必要ないでしょ。結婚に学問など必要ないの。いいなづけの神である親様とメシアに対する信頼と信仰で事足りるの。

 

そのように聖書は書かれているはずよ。読み直してみて。



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 昨日雷様鳴ったでしょ。一発目はこの付近では相当大きかったの。ルーターとモデム電源落ち、蛍光灯が火を噴いてお陀仏だったわよ。その後何回鳴るか聞いていていたら私の耳には七回鳴り響いたの。雷鳴七声よ。丑寅の金神の七殺の祟りのことばかり書いていたら、七色のお月様見るし、鶏鳴三声のことばかり書いていたら、雷鳴七声聞かされるし、それでも、いくらブログ記事書いても反響まるでないしもうやめさせてくださいと思ったの。

 

そうしたらカバラの賜物を上からパンと水のように降らせられて、この天の真名井は枯れることがないイエスから汲む井戸だ、終わりの時まで流れの尽きない龍神の瀧だ。その賜物を死にかけている残りの者に施せと言わんばかりに降ってくるのよ。

 

あのね、今の時代は昔と違い、信仰があるのならその信仰を公に言い表せるくらいにならないとむずかしいわよ。誰でもネットにアクセスできるのだから。聖書は人生哲学ではなくこの世での死に方を示しているわよ。この世での生き方は自由なの。日本人にとっては死に方が重要なの。

 

色で示されているわよ。葬式仏教では死ぬときは黒白でしょ。あれは私に言わせると相当不吉で一度ではなく二度の死を示しているわよ。神道の死は青白なの。これが仏陀と弥勒菩薩の死の色なの。天照大御神の岩戸開きの時は根付きの真榊に八咫の鏡と勾玉と青和幣(あおにきて)、白和幣(しろにきて)をかけたとなっているの。青和幣とは麻の繊維で作る神への捧げもの、白和幣はこうぞの繊維で作る神への捧げものと説明されるの。青と白よ。岩戸開きで青と白が出てくるのよ。

 

皇室では慶事に黒白の幕が使われることがあるみたいだから一概には言えないのだけれど、民間で葬式に黒白が使われだしたのは昭和に入ってから葬儀社が使いだしてかららしいわよ。青白は禰宜さんの衣装の一部だし。紅白は巫女さんの衣装なのよ。古事記では青白は岩戸開きの色なの。岩戸開きは天照大御神の死と復活なの。仏滅は不吉とされているでしょ。それは黒白だから。本当は仏陀の入滅は慶事なの。青白なの。青白の死は最初の復活に至る死なの。

 

黒白は二度の死なの。形はどうあれ仏式の死ではなく神式の死でなければならないでしょ。お釈迦さまは、弥勒菩薩を悟るものは一度目の死を受けても二度目の死を受けることはないと言っていたのよ。それを弟子が正しく悟らなかったの。だから葬式仏教は弥勒菩薩を正しく悟れていないでしょ。イエスはこの世に来て人々の不信仰を驚かれたと書かれているけれども、お釈迦さまも自分の弟子の不信仰に驚かれたのよ。それで法滅を預言したの。その法滅の象徴が仏滅の黒白の死なの。私は死ぬときは神式の青白よ。お祭りや結婚式の紅白に先立つ青白が古事記で示されているのに誰も悟らんのよ。


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五十六億七千万年後なんて人間に何も関係ないわよね。これは仏陀の魔訶般若で、聖書のカバラ、神道の倒語
(さかしまごと)と同じものだと思うのよ。三五七の人類の創世の日取りの五日目にイエスが生まれ、六日目を経た七日目に婚宴が開かれるという預言だと思っているの。

 

それとは別に仏陀の入滅から五百六十七年後をみてみると、イエスは二十四歳くらいなのよ。聖書にはイエスの十三歳から二十九歳までの記述が全くないでしょ。ところが1894年にロシアの探検家がチベットの寺院で「聖イッサ伝」の写本を発見したらしいの。イッサとはインドでのイエスの呼び名で、十四歳から二十九歳までのイエスのことが書かれているらしいの。

 

それによれば初めはインドでカースト下位のバイシャやシュードラを相手に天の父なる神と人の正しい生き方を教えていたらしいの。初めの六年はインドの経典を学びながら、経典や神を教えカースト下位の彼らと平和の裡に暮らしたいたのだけれど、それを祭祀と貴族階級であるバラモンやクシャトリアがよく思わず教えをやめるよう迫ったと書いてあるの。しかしイエスは、差別は神の教えに反すると逆に激しく糾弾してしまい教え続けたらしいの。こういうところにしびれるのよね。

 

ところがバラモンが殺意を抱き身に危険が迫ったのでそこを退き、次に何と仏陀釈迦牟尼の生誕の地でパーリ語を完全に習得し、仏典の研究をし、六年の後には聖なる教えを広めるための聖典の口述者になっていたと書いてあるのよ。この時イエス二十六歳。二十四歳の時は仏典の研究に専心していたと書いてあるの。この書物が正確で私の読み方が間違っていなければ、仏陀の入滅から五百六十七年後にイエスは仏典を研究していたのよ。これもしかしてビンゴなのじゃないの?

 

仏陀を灌頂した梵天はイエスの言う天の父なる神としか思えないでしょ。仏陀はイエスと同じ複雑な複合預言の使い手だったのよ。でも手法はただの謎々でしょ。だから信仰よりも学問にしか目がいかず、そのこだわりを捨てられない学者には解けないの。仏陀は弥勒菩薩としてイエスを知っており、イエスは自分のことを預言した仏陀のことを知っていたの。

 

イエスは二匹の魚とパンの奇跡で五千人を満腹させたことがあったけれど、後には七つのパンで四千人を満腹させているの。この謎をまだ悟らないのかと弟子を御叱りになったことがあったのだけれど、この五千人というのは五千年目に現れたイエスであり、四千人というのは四千年目に現れイエスを預言した仏陀のことを言っていたのよ。

 

二匹の魚と五つのパンは七の天地創造と十二というイスラエルの数を暗示していて、七つのパンもイスラエルの創造の数なのよ。仏陀は、私の中では完全にイスラエルの預言者で、弥勒菩薩はイエス確定なの。神道はそれを知っていたのよ。でなければ穢れを最大限に嫌う神道、失われたイスラエルの神道が弥勒菩薩を受け入れるはずがないのよ。イスラエルにとり異教は最大の害悪だからね。

 

仏陀と弥勒菩薩は両方ともイスラエルの預言者として、聖徳太子により神道に受け入れられたの。そして神仏となったの。命の木への道はそのような叡智の賜物、魔訶般若のカバラで敷き詰められているのよ。しかし教える立場の人たちはいつになったら気が付くの?



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