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人間は何のために生きるのかという哲学的な問いってあるでしょ。

いろんな哲学者がそれぞれもっともらしいことを言って残し、

それが学問になっているでしょ。私は全部却下。

三柱の神様とその御旨という事を知ってからは、はい、

人間は神様とこの世において盃を交わすために生まれて来ています。

この世とは神様との盃事の世です、と決着がついてしまったの。

 

神様と水臭い水杯を交わし今生の別れとなるか、

御神酒の結び固めの杯をいただくか二つに一つ。神様は人の幸せのために、

御神酒の結び固めをしてこの世を終え、幽世の父の家に嫁として入りなさいと

諭してこられたのに、人間は、何のために生きるのかという学問を

太古からいまだに続けているの。星の王子様になった気分でしょ。

 

はっきり言ってしまえば、そんなこととも知らずに、この世に名声を残した人たちって、

私に言わせれば裸の恥をさらしてしまったのね、御気の毒にとなってしまうの。

そう思わない?あのアダムとイブはサタンにそそのかされ神の戒めに背いたときに、

その罪の果実の苦さを知り、即座にはだかの恥を悟り信仰の象徴の、

いちじくで体をおおったと示されているのよ。

それをイブの原罪などという神学にしてしまった人たちも同じ。

はだかの恥をさらしているわ。今日おかげ参り毒舌マックス、全開モードだわ。
私ってそういうところあるから理解してね。
その人たちが誤った聖書解釈を世に広めた元凶の人たち。

 

信仰の象徴のいちじくで裸の恥をおおって、神様に懺悔したから、

皮の衣を賜り着せていただき結ばれたと書いてあるの。これキリストによる救いの預言よ。

アダムとイブは神の似姿に造られたの。それは御父と御子に似せて造られたという事。

イブはアダムの助け手として作られているでしょ。

御子は御父の助け手として「光あれ」という言葉により生まれたでしょ。

そしてその後に神に似せ男女が造られ、そこに光の神とその助け手、

神のしもべとしての人間が創られ、そこに救いの御業が暗示されているというカバラを、

異邦人はこの世の終わりまで悟らず、はだかの恥をさらすんでないのとか思ってしまうのよ。

 

キリスト教神学なんていうのは哲学に決着をつけることのできない、

裸の恥のさらし合いとあたしの目に映ってしまうからそのようにはっきり書いておくわ。

あ~あ、書き出しはこんなこと書くつもりでなかったのに、書いてしまった。

 

あのね、男女の美徳とは一体何なのという高尚なテーマについて語りたかったのに、

のっけから育ちの悪さを露呈してしまった。仕方がないわね。

自分を取り繕ってよく見せようなどと思わないからそのままにしておくわ。

 

何が言いたかったかというと、この世が神様との盃事の世であれば、

その似姿につくられている男女の間の盃事などは、

神様の御旨を悟ればどうあるべきか一目瞭然、そこに哲学の入り込む隙間は一ミリもなし。

ということなの。

 

御父と御子を悟ればそこに、男の美徳とするべきことと、女の美徳とするべき事、

そして男と女が結ばれようとするのであれば、

双方が何を美徳として結ばれるべきかということまで、旧約聖書の冒頭の、

神による最初の男女の創造にすべて記されていたのよということなの。

私が聖書を読むともはやそのようにしか読めないもん。

 

一体何ということかしら。何でそんなことがこれまで明かされずに、

縁談の日取りが極まろうとしているの?

縁談の日取りは神道で三五七と示されているからね。

日取りがあるということは日、一日とそれが迫っているということよ。

神様は盃事の縁談においてその日取りをあいまいにしたまま進めるような、

唐変木であるわけがないでしょ。

 

そんなことにも気が付かずにこの世を終えた私たちのご先祖様が、

かなりの唐変木だったということ。ここまで書いていいかしら。

だれも来なくなる?だけどね、そのご先祖様たちがいたから今私がいて、

この世で四苦八苦の七転八倒、阿鼻叫喚を繰り返しながらも、

やっとのことで神様のお諭しに気が付いたの。

 

これって日本語で千載一遇というらしいわよ。

そこには一日の千年換算というイスラエルのカバラ、

頭頂のサハスラーラチャクラの覚醒には千の花びらが開くということと関連し、

九九九の御父の数プラス一という千と一の関係、三千年に一度開く優曇華の花など、

私にとって神仏のお諭しは、現世と幽世を表裏一体として悟る、八咫鏡の瞑想により

もたらされたものなの。瞑想ってね謎々の解き明かしみたいなものよ。

哲学的なアプローチでは何も見えないわよ。

その経験がないと雲をつかむような話にしか聞こえないわよね。

でも敢えて書いておくわ。

 

そのことを一言で言えば、結果として、なぜかわからないけれど

カバラのマスターキーを渡されてしまい、そのキーを使うとどこのカバラの扉でも

空いてしまい賜物がそこいらじゅうに、ごろごろ転がっているということなの。

この世的な金品の話じゃないわよ。

 

これを独り占めにする気などさらさらないから早くみんなも、

このマスターキー神様から受け取ってというのがこのブログの主旨なの。

ご先祖様は気の毒だけれども、はだかの恥をさらしてこの世を去る人というのは、

ご先祖様だけではないでしょ、あなたの肉親にもそのようなことになる人はいるはずよ。

私の肉親がそうだもの。そうなってしまったらすべてはもう覆水盆に返らずと

諦めるしかないの。神様がそう決めているの。あなたは諦めるの?

私は御免だわと思っていたから賜わったの。

 

イエスは「叩きなさい、そうすれば開けてもらえる」と言ったでしょ。

イエスの言った「狭き門より入れ」という言葉あるでしょ。どのくらい狭き門と思う?

私はここでも千載一遇という言葉が連想され、

千人に一人の狭き門なのかしらと思ってしまうの。

でも入学試験はカバラの謎々だからね。

誰でもその気になれば入れるのに入らない人が多いというだけなの。

みんな見えていないだけなのよ。



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