このブログに来たらこの記事だけは押さえてね。

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/966714.html (天照大御神の心御柱)

 

あのさ、いきなりなんだけど、地獄ってどんなところだと思う? 

この地獄というところも前回の記事で書いた罪と同じで、

知りたいというニーズに答え、この場合は様々な宗教により

いろいろな地獄があるわよね。でもね、地獄って行って帰ってきた人がいないから

誰も分かるわけないわよね。と思ったら一人いた。

死んでから戻ってきた人がいた。そう私の主イエス。

聖書には神の怒りの描写がいくつかあるのだけれど、

確か地獄の描写はなかったわよね。イエスは外の暗闇と表現したけれど

ひまひとつピンとこないでしょ。私が聖書をもとに想像すると

火の消えない焼却炉に放り込まれ、

そこで永遠に焼かれ続けるというイメージがあるの。

黒焦げのまま死ねないのかしら?永遠の命に対する永遠の死だからね。

仏教にも地獄があるけれど私は仏教の地獄は眉唾だと思うわ。

お釈迦さまは歌舞伎聚楽主という当時のお笑い芸人の人が、

自分たちはいつも人を楽しませているので死後は喜笑天に上ると思うが

世尊はどう思うかと聞いたときに、地獄に堕ちると答えるまでに

二度そんなことは聞くのはおやめなさいと言って諭したほどの人で、

地獄のことなんか話したくない高貴なお人柄だったと思うの。

だから仏教の地獄なんてとても仏陀が言ったとは信じられないし、

一体だれが言ったことなのかしらという疑問が残るの。

私が思うには正法の人は仏陀ただ一人で、仏陀入滅後はいきなり像法の時代に入り、

仏陀の生前を知っている人がこの世を去ったらいきなり末法に入り、

仏陀が預言した弥勒菩薩が降臨したにも関わらず誰もそれを悟らず、

今は法滅の時代なのではと思っているの。話がそれた、元に戻すね。

私は仏陀のような高貴な生まれではないから地獄のことなんか話すのは平気だし、

ただ怖がらせたいだけの悪趣味ではなく、このブログに煩悩を持ってくる人に

冷や水を浴びせ、煩悩の炎の消火という私なりの高貴な使命に燃えているから

何でも書けるの。それでね、私の杖と頼る聖書に記載が無いのなら、

もう一本の杖と頼る古事記はどうかというとこれがあるのよ。

古事記を書いた稗田阿礼という人の阿礼というのは女性名で、

どうやらこの人巫女さんだったらしいのよ。

そして神道の不気味なまでの奥深さを考えると、

倭の神代を口述する巫女さんと言ったらこれはもうただ者とは思えないでしょ。

この人は、卑弥呼に匹敵するような女性ではなかったかと思うの。

そう考えるとね、どこの馬の骨が言ったかわからない仏教の地獄なんかより

俄然信ぴょう性を帯びてくるでしょ。古事記ではその死後の世界を

黄泉の国としていて地獄という表現よりきれいな感じがするでしょ。

ところがね、よく読むと、他の宗教が言っている地獄なんかおとぎの国?

と思えるくらいヤバい。これは地獄だわ、これは地獄だわと思えるの。

これ見過ごしにされているでしょと思えるの。

人間の脳は正常性バイアスが働いていて、

そのバイアスに打撃を与えるような情報は無視するんだって。

だから「死後の世界ってどう思う」とか「地獄ってあると思う」

とか話しかけるとビビって「そういうことはその時に考えればいいの」

とか言われておしまい。昔から聖書を読み込んでいる私は

「それでは完全に手おくれでしょ」と思いながらだまるの。

神仏のお諭しでバイアス取り払ってよく見ると、

神様は人間の煩悩というものを罪穢れと認識しているのだけれど、

人間の方はそんなこととはつゆ知らず、煩悩を後生大事に抱え

この世を終えるのがあたりまえでそれで正常、

という完全なバイアスが働いているのがくっきり見えてしまうの。

宗教というのもそのような現場だからね。神道に奉職していたり、

信心している日本人も同じ。そのようなことをよく知ったうえで、

日本人の罪穢れを祓い清め、神様をお祀りしてこの国を守護しているのが、

神道の奥の奥の奥の方に隠れながら、その重鎮たちは、

戸籍も持たずに裏天皇家八咫烏と呼ばれる人たち。

古事記を口述した稗田阿礼さんはその一門の巫女さんらしいのよ。

だから古事記は侮れないの。それで黄泉の国なんだけれど。

いくわよ。食事がまだの人は後で読んだ方がいいかもよ。

まず真っ暗で明かりがない。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が櫛の歯を一本折って

火をともして見たところ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の体には

ウジ虫がうようよたかり、顔はただれていた。

体中に八人もの雷神がいた。なぜこんなところに雷神がいるの?
それはね、神様の祟りで体が腐乱していると言いたいのよ阿礼さんは。

この女神は死んでここにきて永遠に穢れた腐乱死体のまま
腐臭の中で生きていると言っているの。

あまり想像力を働かせすぎないでね、御飯がまずくなるから。

ゾンビなの。永遠にゾンビなの。
これが聖書の言う永遠の死だと描写しているのよ阿礼さん。
だから生きているうちに罪穢れを禊ぎしておかないとヤバいの。

でもね、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が祟りを受けているわけではないの。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)は御陰(みほと)に致命傷を負ったでしょ。

あと二人古事記に御陰(みほと)に致命傷負った女神が出てくるけれど、

全部イエスの暗喩なの。それも近いうちに説明するわ。

この場面ではイエスの無実の死と、死後の祟りの世界を語り、

被害者と加害者を合体させているの。倒語(さかしまごと)なの。

阿礼さんがよく使う手だわ。須佐之男命も天照大御神の岩戸開きの時に

悪役として登場しているけれど、この場合は天の御父と、

イエスを死に追いやった加害者を合体させているの。

だから古事記は物語に整合性がまったくないように感じるの。

身内にはそれで通じているの。

以上が古事記を読み込んだ場合の地獄なの。絶対に行きたくないでしょ。

これ口述しているのがただの人ではなく先祖がイエスの弟子だったと

思われる巫女さんなの。神道における罪穢れが何なのか知り抜いていて、

それを祓い清める立場の人だったはずよ。

もしかしてこの人の御先祖がイエスから直接そのように聞いていたとしたら

怖いわよね。神道のお祭りなんか全部イエスである天照大神にそうしなさいと

告げられた事で成り立っていて、日本という国もその天照大御神の

みことのりでできたと古事記やのりとでは言っているし。

古事記の地獄観が怖いのはそこにはっきりと神様の祟りで行くところ

という事が巫女さんにより示されているという事なの。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から逃げ帰る時坂の途中が千引の岩戸で閉ざされた

と書かれているのだけど、須佐之男命が天照大御神の岩戸隠れを招いた罪で

追放されたときは、千座の置戸(ちくらのおきど)を負わせられて

追い払われたと書かれているの。どちらも千という数字が絡んでいるのだけれど、

この千が私の解読だと天の御父に関する数なの。

千倉の置戸(ちくらのおきど)ってもしかしたらチャクラのこと?

語感が似ているし頭頂部にあるサハスラーラチャクラは、

覚醒すると千の花びらが開けるとされているの。

私はこのチャクラの覚醒は梵我一如の悟りの完成を意味していて、

それは天の御父に対する悟りのことだと思うの。

それは聖書の中でイエスが最も強く訴えている事なの。

神道ってヨガタントラを織り込み済みなのよ。

 

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1150558.html (メシアは何で三日目によみがえったの?)

 

しかも聖書には一日の千年換算という概念があって、

これにも神様の相当深い事情が絡んでいるの。天地創造の七日間は暗に

七千年を示しているのだけれど、そいうことをふまえて深読みすれば

古事記自体が神の祟りをまねく罪穢れを、お祓いするための語りで、

神事だとも読めるわけ。

君が代の千代に八千代には七千年を意識した呪術なの。

神道のただならぬ奥深さを考えればこの巫女さんの語りにはそれとなく

神道の祓い清めの意味が込められていると考えられるのよ。

童謡「通りゃんせ」ってあるでしょ。あの不気味な歌は故意に日本の国の

祓い清めという事を意味しながら広められていったのではないかと思うの。

神道は深読みしてもまだまだ浅瀬という不気味さがあって、

どこまで深くて何を秘め隠しているかわからないの。

神道の奥にいる重鎮たちが古代よりその呪術によりこの国を建て、

天照大御神と共に守護していのではないかしら。この国とはそういう国なのよ。

日本人は誰も気が付いていないだけなのよ。

私たち日本人は天照大御神と神の遣いの呪術の中で生かされていると感じない?