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卍が御子のハートチャクラのシンボライズだったの。今日はお彼岸明けで、あとは七五三の十一月を経て年越しの大祓に向けた季節に移行するでしょ。しばらく座り込んで瞑想していなかったので、気分一新のために座って冥想したのよ。終わってふとシバリンガに目をやったら気が付かされたの。何これ、よく考えてみたら受胎告知のシンボライズじゃないのと。

 

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三柱の神のトリムルティーによる生命御守護のための受胎告知を意味しているのよ。それはインドにその影を落とす三柱の神により、当然起こるべきこととしてその型が予型として示されていたという事なのよ。だから同じものが皇大神宮でも示されることがあるのよ。

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 受胎告知により御子がお生まれになったでしょ。後に水と聖霊によりメシアとして新しく生まれ、その後に十字架上の死と復活により天に昇られたの。人も受胎によりこの世に生まれるでしょ。そしてこの世で水と霊とにより新しく生まれるから、御子に従うように死と復活が待っているのよ。

 

水は御子から生ける命の水を汲むという事なの。そうするから聖霊を助け手として送られ、受胎告知がなされるのよ。それは婚宴に向けた結納でもあるのよ。そのシンボルが三神のトリムルティーのシバリンガなのよ。蛇神様が縁結びのお使者なのよ。それで思い出したのが、そういえばお使者を送られてしまったと感じた時は、そのシバリンガと三柱の神様について冥想していた時だったということなのよ。

 

インド人はその様に知らなくても、おおよそこの世における聖性のシンボルはすべて御子に帰されるのよ。卍がそうであるように、もうそう思って間違いないのよ。逆に御子に帰することが出来なければそこに聖性はないという事なのよ。

 

瞑想について書いておけば、私の場合は四~五十分も座っていると、体感覚が休眠状態で意識だけが覚醒しながらまどろんでいるという不思議な状態になり、その境地は梵我一如なの。御霊を賜わってしまった後はすべてにおいて御子に従うから、父と私とはひとつであるという御子の御言葉に従い、一如とされざるを得ないのよ。受胎告知と結納をお受けしてしまったという意識だからね。

 

その状態で長くても二十分ほど覚醒しながらまどろんでいれば十分なのよ。私は体が硬い方だし一時間も同じ姿勢で座っていればもう十分となるのよ。その様な瞑想が出来た日は一日中気持ちよく過ごせるからそれで十分なの。

 

ところが今日は終わった後がすごかったの。座椅子にもたれていたら、その余韻を楽しむどころか快感が頭頂のチャクラからあふれんばかりに湧いてきて、それが外に向かうのではなく渦を巻いて全身に下降してしまい、上昇と下降の快感の対流に包まれてしまったのよ。

 

今までの瞑想では得られなかった新しい感覚なの。今までは上昇か下降かどちらかだったのよ。その様な上昇と下降の対流の最中に、あっけにとられながらシバリンガに目をやったら受胎告知のシンボルだったと気が付いたの。瞑想中のエクスタシーも御子に紐づけられているという事なの。私の場合はいつも新しい気付きと共にエクスタシーの質が向上させられるのよ。

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