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福音の原則に従って御霊を受けると簡単に言うけれどもそれって日本人にとっては尋常なことではないのよね。御神霊に関することなのよ。御神霊などと言ったら日本人にとっては一生関われるものではないというのが普通の感覚でしょ。私はずうっと聖書に張り付いて来て二十年以上たった時に御霊に感じてしまったの。

 

そうして心御柱の古事記を読んでいるうちにその裏が読めるようになり、聖書に何が書いてあるのかもはっきりと飲み込めるようになってしまったのよ。そのことについて、書いてはいけないと思うこと以外はすべて記事にして来たのよ。

 

書きながらも覚醒しながら、命の木を最後まで自分なりに解読してしまったようなの。聖書の命の木と古事記の根付きの真榊の完全一致なのよ。御霊に感じながら御言葉を杖としてきたの。そのような状態の中に放り込まれてしまったから、それが当たり前の世界の中にいるのよ。

 

しかし冷静になってよく考えてみると、天照大御神の御神霊の関与する霊的事象の中に放り込まれてしまっていたということなの。客観的に考えたら尋常なことではないのよ。尋常なことではないのだけれども、それが御言葉により理解できるから突き進んできたの。

 

御神霊に関する重たい問題を扱っているから、その重たさを軽減するためにはこの語り口が一番適していたの。言葉がスラスラ浮かんできて肩がこらないのよ。ですます調や論文調では重たいことをますます重たくしてしまうのよ。だから途中からこの語り口に切り替え、気が付いたら900記事以上、一日平均にしたら一記事以上777日間書き続けているのよ。覚醒に一区切りつけないといけないと思いながらこの記事書いていて、今、記事数確認したら777のぞろ目が出てた。私っていつでも、その様なことに背中を押されるのよね。

 

読みに来る人にどう受け取られているか、反応が薄いから判らないことの方が多いのだけれども、777日間毎日一記事以上のペースで書き続けてきた内容が、天照大御神の御神霊一択だったの。それに関すること以外など書く気がしないのよ。御霊に感じて行った神宮へのおかげ参りで千木と鰹木のそびえるお社の威容に圧倒され、最後に立ち寄った倭姫命の旧跡地で風に煽られてからというもの御神霊に取り憑かれてしまったの。それで書きまくってきたのよ。なぜそうなったのかというと御子の御言葉なのよ。

 

マルコによる福音書 16

14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 

15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 

16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

福音を述べ伝えよという御言葉もさることながら、信じて洗礼を受けるという事は、御霊が降ってくるという霊的事象の中に身を置くという事なの。それは天照大御神の御名により伊弉諾尊から月読命の御神霊をお受けするという事なのよ。この一節だけを口にしても誰も何を言っているのかわからないどころか、下手をすれば気がふれていると思われるのが落ちなのよ。キリスト教徒も理解できないはずなの。教会で洗礼を受けるという事とはまるで別次元のことなの。

 

日本人の感覚で言う御神霊をお受けするという事なのよ。それでなければ滅びの宣告を受けると、復活された天照大御神が直言しているという事なの。御子が敵から気がふれていると嘲笑された通りなのよ。

 

下手をすれば気がふれていると思われかねない状況の中で、確実におぼれ死ぬと判っていてだまっていていいの?ということなのよ。福音を述べ伝えるということは、初めから述べ伝える側は蟷螂の斧と理解しているのよ。皆信仰により御神霊を受けるまでに、世間のことなど裏側のことまで知らされた大人なのよ。

 

私は口頭で日本人に伝えるのは無理と思っているの。尋ねられもしないのにその話を持ち出すと日本人は皆怖がるのよ。場違いな怪談話みたいなことになるのよ。霊的感性の強い日本人ならではの反応なのよ。

 

御神霊による生命御守護により息をしているなどとは思わず、神を分別しない動物たちと同じ原理で生かされていると教育され、そう信じているのに、霊感を呼び覚まされると恐怖を感じるという事なの。動物と同じく生かされていると教育されている時点で家畜化教育なのよ。関与したのはキリスト教国生まれの博物学者。

 

その霊的事象にまつわる恐怖は裏の神道ではよく知られているから、怖いながらも通りゃんせと唄わせられるのよ。その様に、おいそれと理解されずに、怖い霊的事象について、何故言い広めよと御言葉されたのかという事なのよ。そんなの溺れかけている人を救うためでしょと誰でもが思うでしょ。その通りなのだけれども、そこに奥深い霊的事情が存するのよ。

 

御神霊を受けるということは当たり前のように第三の眼による覚醒を伴うのよ。その様な霊的覚醒の興奮の中にありながらも、それを当たり前のこととしてさらに目を醒まし冷静になる必要があるのよ。私の場合は宣教にはそのような効能があったの。777日目にして一区切りなのよ。

 

口頭で伝えることは無理でも、私は文章ならいくらでも書けるの。ブログという媒体があるのだから渡りに船でしょ。だから興奮しながら書きまくってきたのよ。そうするうちにその効能により、当初御霊に感じた時にはまるで想定外のことに徐々に眼を開かれ、聖書の命の木と古事記の根付きの真榊の完全な一致にまでたどり着いてしまったの。初めて光を見てしまうとまぶしさに目がくらむでしょ。それが落ち着いてすべてが見通せるようになるという事なの。

 

聖書が預言書であるように古事記はそれを冷静に意識しながら書かれた預言の総集編、完結編として書かれているの。古代から完全に覚醒しながら冷静な目を持ち陰に隠れているのが八咫烏なのよ。宣教せずに陰に隠れながら祭祀に徹してきたのよ。その祭祀の仕掛けに命の木と真榊の完全一致を秘め、預言成就による乾いた土地が顕れるのを冷静に見つめているのよ。怖いながらも通りゃんせと促しながらね。


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