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 瞑想を繰り返す中で見えてきたことなのだが現代の日本にとって

一番煌びやかな一週間であるクリスマスから大晦日までの七日間は

これがまたカバラの塊なのだ。これはこの国が先見者により設計された

神道の国であったとしても、人間には仕掛けることのできないカバラが加わり

はっきり神変自在を見せられていると感じるのだ。

 

日本の年末の一週間は、神の天地創造の七日間ともろに対応しているのだ。

 

神の天地創造は六日の間に完成し七日目は神の安息の日だ。


 日本の年末の一週間はクリスマスから遅くとも六日目の晦日までに、

お正月の年神様を迎える準備を終え七日目の大晦日を

迎えなければならない。大晦日の一夜飾りは縁起が悪いのだ。

 

 

カバラの命の木を理解してしまうとこの六日目と七日目の相似の対応関係には

唖然とさせられる。

 

クリスマスツリーとお正月の門松がその象徴なのだ。

このことを深く理解するためにはクリスマスとは

一体何なのかを理解しなければならないのだが、

あまり深くここでは触れないことにする。

深く知りたい人はWeb上で検索していただきたい。

 

キリスト教はカバラを全く理解できていないので、

クリスマスツリーは命の木と見做すことはできない。

いったい何の木なのかと言えば誕生日をお祝いする木なのだ。
しかしイスラエルにも聖書にも古事記にも誕生日のお祝いなどということは、
ただの一言も出てこないのだ。誕生日のお祝いというのはイスラエルや日本から見れば
元来異教の風習なのだ。イスラエルにとり異教の風習とは猛毒なのだ。
面白い事にツリーはクリスマスイブにまつわる木なのだ。


 カバラの暦の初日にとってイブという女性がその主役なのだ。
クリスマスイブとアダムとイブ。私はアダムとイブとは
キリストと人類の暗喩ということも含んでいると考えるので、
ここでキリストとイブと読み替えてみると、
クリスマスイブと日本語の上でかなり似通ってくるのだ。
ここには初日から日本語における不可思議な一致があるのだ。


 聖書には一日の千年換算というカバラがある。

天地創造の七日間はそのまま七千年の歴史を示すのだ。

その歴史の初日がアダムとイブから始まっている。
イブが唆され取って食べるなと神が禁じた木から取って食べたことから、
すべては始まっているのだ。クリスマスツリーが命の木でありえない以上、
何の木か、私の言いたいことははご理解いただけるものと思う。
そのような不可思議なことが日本の暦上で示されているのだ。

 

そして晦日の三十日までに飾らなければいけない門松は、
六日目までに飾らなければいけないということを意味するのだ。
お正月を迎える準備は遅くとも三十日までに済ませなければならず、
大晦日の一夜飾りは良くないとされているはずだ。

門松とは、カバラを完全に理解している神道にとっては、

右と左で、神が園の中央に生えさせられた二本の木の象徴なのだ。

神道は命の木を完全に悟っている。だからその命の木のすべてを含んでいる

雛飾りにおける、右近橘と左近桜とお正月の門松は同じことを意味している

のだ。

 

これは京都御所の紫宸殿の前庭に生える右近橘と左近桜と同じものだ。

神道の祭りは全て命の木のカバラなのだ。六日目までで締め切りを迎え七日目は

休まなければいけないのだ。神様が六日間で天地を創造し七日目に休まれたからなのだ。

 

そして私の見立てでは、その七日間のうちの三日目と五日目と七日目がお祝いの日で、
それはイスラエルの神の歴史に対応させると、三千年目のアブラハム、五千年目のイエス、
七千年目の天照大御神の再臨になる。

 

この三五七は順に割礼、洗礼、復活というイスラエルの風習にも
対応していると考えることができ、それが示す深奥の意味は、
いいなづけの誓約、婚約の誓約、成婚の誓約なのだ。
七日目が意味するのは天照大御神との成婚で七つのお祝いなのだ。

 

それであるから遅くとも六日目までに準備ができていないと

間に合わないのだ。これは神の歴史を負わされている人類にとっては

六千年間のどこかに生まれ、その一生のうちにメシヤからの婚約をお受けし

成婚の準備を整えなければ間に合わないということを意味しているのだ。

 

七日目の大晦日がメシヤとの結婚式なのだ。

それは七千年目の千年間の子羊の婚宴の大宴会と

ヨハネが黙示していることに対応しているのだ。

 

そして婚宴の終わりに最後の審判がある。大晦日は百八つの煩悩を取り除く
除夜の鐘で明け、元旦を迎えるが、婚宴が明ければ新婚生活のスタートなのだ。

これは日本の元旦と対応関係にあり、これがお正月のおめでたさの本質なのだ。
であるからお屠蘇なのだ。いささか物騒な表現になるが、
最後の審判における
屠りと蘇りの盃なのだ。


 千代に八千代になのだ。七千年目の大晦日の後に

八千年目の新婚生活のお正月が来るのだ。
その象徴が門松とお屠蘇なのだ。


 この神道によるお正月の仕掛け、飲み込めるだろうか。

 

しかし注目しなければいけないのは、初日を十二月二十五日に設定するのは

神道には不可能だという事だ。これは昭和の歴史上で起こったことで

神様でなければできない。
古代から先見者たちはキリスト教徒のクリスマスは知っていたであろうから
お見通しであったかもしれないが、昭和の歴史をそこまで操ったとは思えないだろう。 

 

日本人は誰も気が付いていないのかもしれないが、私はこれを

神変自在のお諭しとしか思えないし、これをカバラという賜物により

知らされたと思っている。聖書でイエスは信じる者には助け手を送る

と言われているが、その言葉のとおりに信じたら助け手を送られ

その助け手に教えられてしまったのだから仕方がないのである。
神道の手の内がなぜかスラスラ読めるようになってしまったのだ。

カバラのマスターキーを手渡されるのだ。

 

しかもまだ先がある。それを知った時も唖然とさせられた。

大正天皇が崩御されたのが十二月二十五日で、

この時はその日のうちに改元され昭和元年は十二月二十五日から

三十一日までの七日間で、この記事で紹介している日取りと

ぴったり重なっているのだ。それだけではない。

昭和天皇が崩御されたのは一月七日でこの時は次の日に改元されたので、

昭和最後の年の六十四年は元旦から七日間なのだ。

 

昭和という時代は、年末の七日間と、お正月の七日間に

ピタッと挟まれた時代だったのだ。このことはこの記事で紹介したことや

カバラに関心がなければどうという事ではないだろう。
だがしかし、なのである。カバラにおける七日間というのは神様の安息日を含む、
聖別されなければいけない御日柄なのだ。
それが昭和天皇の即位と崩御で年末と年始に顕されているのだ。

 

昭和生まれの私の人生において平成という時代が持つ

特殊性という事情があり、元号には何かあると思われてならないのだ。

昭和天皇が崩御された年から、令和の改元に至るまでの三十年間は

自分にとって神様を知るための三十年間だったのだ。

特に昭和天皇が崩御された日のことは今でもよく覚えている。
そして令和という元号が発表された日も忘れられない日になった。
ピタッと重なってしまっているから仕方がないのだ。

 

私のことはどうでもいいのだが、昭和という時代はこの日本だけに限らず
世界にとっても、重要な時代であり、その時代に起こったことは全人類にとって

神様の重要なお諭しを秘めているのだ。
人類史上まれにみる激変の時代であり、ヨハネが黙示した
重要な事が起こっていたのだ。

http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1029294.html (広島と長崎)
http://sakasimagoto.blog.jp/archives/1029106.html (八岐大蛇と獣)

 

そのような視点を獲得すると、この世は神変自在に守られながら

存続しているとしか思えなくなるのだ。

 

神の歴史は天照大御神のおひざ元で年ごとにお正月を迎えながら、
粛々と息づいているのだ。


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