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 イエスの肉を食べ、血を飲むにはどうしたらいいのか。

これはイエス御自身が倒語(さかしまごと)で語っているという事だ。


 イエスの肉とは神が天から降らせるパンだ。

血とは神がイスラエルの井戸から湧出させる命の水だ。

 

どちらもイエスの言葉なのだ。だからイエスを愛した弟子のヨハネは

「神は言葉であった。この言葉によらずに成ったものはひとつもなかった」

と言ったのだ。

 

イエスの言葉は世界中で良く知られている。

しかしただ漫然と読むだけでは食べたことにはならない。

 

水は水のままで、水盃になってしまうのだ。これは日本人にしか

理解できないのではないのか。水杯を神酒に変える神変を

伴わなければならないのだ。それをヨハネはイエスの最初の奇跡として

カナの婚礼の物語で示した。水を葡萄酒に変える神変を伴わなければならないのだ。

 

この物語の中で宴席のぶどう酒が足りなくなった時に、

母マリアは「ぶどう酒が足りなくなりました」と言った。

その時にイエスは最後に、「私の時はまだ来ていません」と言いながら

水をぶどう酒に変えたのだ。この私の時とはイエスの受難の時であり

十字架上で血を流す時のことだ。

 

この時に生ける命の水はイエスとの縁結びの血である御神酒、

ぶどう酒に変わったとヨハネは言いたかったのだ。

 

だから十字架刑を受けようとしていたイエスの最後の晩餐の時に、

弟子たちにイエスの体と血の象徴のパンとぶどう酒を与え祈ったのだ。

 

そして「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ御国には受け入れられない」

と言葉を残した。

 

そのようなイエスの言葉は新約聖書中にあふれている。

それは珠玉の言葉として世界中が知っている。しかしイエスは

狭き門の入り口を見出すものは少ないと言葉を残している。

 

私はそれを見てしまったと思いこのブログを立ち上げたが、

私の目から見てその入り口を見つけ出している人は

人生の経験上見聞きした人たちの中にひとりもいないのだ。

 

それは何故なのか。イエスは「天の御父の御旨を行うものが天国に入る」

と語った。しかしこの父の御旨は何なのか未だに解読されないでいる。

なぜが、それは人がイエスの珠玉の言葉を聞くだけでそのとおりに行わず

聞き流しているからなのだ。それをイエスは、

「主よ、主よと私の名を唱える者が御国に入るのではない」と言ったのだ。

 

教会に行けばイエスの肉を食べさせ、血を飲ませてくれると思ったら

大間違いなのだ。ではどうすればよいのか。

 

私はイエスの言葉をその肉と血として咀嚼し、飲み込み、腹に納め、

腑に落ちてしまった。その結果気が付いたことは、
イエスの言葉は人に解脱を促しているという事だ。

 

イエスの言葉通りに行いこの世で自分が変わろうと思うなら

解脱しなければ無理だ。このブログで何度も指摘しているように、

そのための作法をイエスに先立ち広めたのが、弥勒菩薩であるイエスの

道をまっすぐにするために、創造主である梵天から灌頂を受けた

仏陀釈迦牟尼であったのだ。

 

地球はそのような神仏の降臨する神籬(ひもろぎ)であった

という視点が必要なのだ。

 

イエスの言葉は煩悩社会にへばりつきながらそこでの

生き方を快適にするための処世術ではない。

 

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という

私が杖にしている御言葉がある。誰でも知っているはずだ。

しかしこの御言葉をどう受けるかで人の生き方に違いが出る。

 

この世とうまく付き合いながら遊び暮らし、片手間に神のことを思うのか、

神のものを神に返すことを人生の主目的にし、この世とは

面従背腹でつき合うのか。

 

イエスの言葉は人の食べ方により全く違う食べ物になるという事だ。

それが同じイエスの言葉を知っていても、水杯を交わすのか、

御神酒のぶどう酒をいただくのかの違いとなるのだ。

 

神道はそのようなことは古代から百も承知だ。

 

では具体的には何をすればいいのかと思われるかもしれない。

それを参考になればと思い記しておきます。

 

とにかくイエスの言葉を味わい尽くすこと。
その後は何も考えずにだだ座っているだけで事足りる。

それを生きる主目的にしてしまう事。

 

人間の脳は何かしているときよりも何もしないで

ぼーっとしている時の方が二十倍もよく働いているそうだ。

 

それを出家した後に瞑想において悟った仏陀は、

「ただ座れ」と言葉を残した。

 

煩悩の巷に溺れそこに生きることを主目的にしながら、

その苦しみを緩和するためだけの片手間に、仏陀やイエスの言葉を味わっていても、

信仰が伴わないのだ。信仰が伴わなければ水はぶどう酒に変わらない、
弥勒菩薩の薬は効かない。だからイエスは人を癒そうとするときに
「私のことを信じるか」といつも言ったのだ。

 

かといって現代人は出家などできない。

葬式仏教に従事するための出家など何の役にも立たないだろう。

 

ではどうするか。私はできないことではないと思う。

カエサルのものはカエサルに返しながらも、神のものを神に返すことを
主目的に生きればよいのだ。誰にでもできる簡単なことなのだ。


 家に神棚を祀り、天照大御神の御守り札を、実はイエスのお守り札と見定め、
家の男女が宮司と巫女として生きればよいのだ。
家でいただく食事は日々の直会なのだ。
神様が天から降らせるパンと水とぶどう酒なのだ。
神様に直にお会いした弟子たちがそう伝えたのだ。
パンであるマナを調理する板がまな板で、
蛇口は龍神様でもあるイエスから水を食む井戸なのだ。
であるから日本人は竈に神様をお祀りしているのだ。

 

正常性の偏見を取り除き、心理的盲点に気が付くという

頭の切り替えは誰にでもできるはずなのだ。

 

私は誰も教えてくれなかったのでそれに気が付くまでに

三十年もかかってしまったが。

 

キリストと仏陀の言葉には真理がある。

この世に生を受けながら真理を侮ったものは、後の世に禍根を残すと書かれているのだ。

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