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あのね、この世において自分の名前が命の書に書かれているのかいないのかは当人にとっては大問題だと思うのだけれども、神様の目からしたらさしたる問題ではないのよ。

 

ある時、姦淫の現場で捕らえられモーセの律法により石打の刑に定められた女が御子の前に引きずり出されたでしょ。律法により死刑に定められていた女を御子は一言で贖い、もう罪を犯すことの無いようにと諭し行かせたでしょ。律法により死刑と定められていても御子の御言葉はそれを贖いあまりあるのよ。もしご縁が無ければそのまま石打に処され滅びていたはずでしょ。それが御子の御言葉の効能なの。

 

命の書に名前があろうがなかろうが今世において御子の御言葉を乞食により受け、悔い改めなければ元も子もないという事なのよ。お釈迦様が行乞の人だったことにはそのような意味があるのよ。

 

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しかしお釈迦様は御子がまだ天で生きているうちにそれを悟ってしまった超人だったのよ。そのような生き方をお説きになったけれども常人がまねをしても及ぶところのものではないのよ。ただ梵天によりそのように下地が整えられての弥勒菩薩の降臨だったのよ。

 

超人仏陀により、弥勒菩薩が降臨しても世の中はそれと悟らずに法は滅するということまで先見されていたということではなかったのかしら。

 

御子の御言葉を、その肉と血のお布施として受ける行乞の沙門が、法により贖われるの。凡夫であろうがその状態に置かれればいやでもそれと気が付くのよ。そう冥想するのよね。阿吽

 

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