天照大御神の倒語(さかしまごと) 古事記と聖書と心御柱

聖書と古事記を読み、この地球という神奈備の星において何が起こっているのか、目を開かれた筆者が徒然に語るブログ

倒語(さかしまごと)とは神武天皇の頃より始まったと日本書記に記されている。 それは味方にだけわかる言葉を使うということ。 古事記と聖書は倒語で書かれていた。

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今年は皇紀紀元二千六百八十年でしょ。これがなにを意味するかじっくりと考えてみたのよ。皇紀元年はB.C.660なのよ。この時代はね、B.C.720のイスラエルのアッシリア捕囚から、B.C.586と言われているユダのバビロン捕囚のほぼ真ん中の時代で、イスラエルにとっての激動の時代だったのよ。

 

この時代はイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルとイスラエルの預言者の重鎮たち時代だったの。しかも私の見立てではお釈迦様もその時代の人なのよ。

 

南伝仏教で信じられている仏滅紀元B.C.543からさかのぼると仏陀生誕はB.C.623となり、皇紀三十七年の生まれになるの。試しに仏滅紀元B.C.543から567年降ってみるとA.D.24になってしまうのよ。

 

これらの事実をふまえた上でもしやと思いダニエルの七十週の預言をB.C.660に当てはめてみたの。ダニエルの七十週の預言は主がエレミヤに告げられた七十年という年数が元になっているの。

 

ダニエル書 9
  
      2さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言          者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。


   24
お前の民と聖なる都に対して

七十週が定められている。

それが過ぎると逆らいは終わり

罪は封じられ、不義は償われる。

とこしえの正義が到来し

幻と預言は封じられ

最も聖なる者に油が注がれる。

25これを知り、目覚めよ。

エルサレム復興と再建についての

御言葉が出されてから

油注がれた君の到来まで

七週あり、また、六十二週あって

危機のうちに広場と堀は再建される。

26その六十二週のあと油注がれた者は

不当に断たれ

都と聖所は

次に来る指導者の民によって荒らされる。

その終わりには洪水があり

終わりまで戦いが続き

荒廃は避けられない。

27彼は一週の間、多くの者と同盟を固め

半週でいけにえと献げ物を廃止する。

憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。

 


この預言が難解を極めているの。しかしね、八咫鏡に照らしてみましょうかという軽いノリで七週の七十年と、六十二週の六百二十年の六百九十年とあてはめて、最後の一週の十年を足すと七百年になるではないとなるのよ。

 

エレミヤも破格の預言者だったの。だからエレミヤの言う七十年を、文字通りの七十年と、七百年の意味を持つ複合預言として考え、問題のB.C.660に当てはめてみるの。そうすると七十年後はB.C.590となりバビロン捕囚のB.C.586の四年前で前夜なのよ。

 

そして次に七週の七十年と六十二週の六百二十年の六百九十年を当てはめてみるとこれが何とA.D.30なのよ。最後の週の十年を充てて七百年とするとA.D.40なのよ。

 

イスラエルのメシアの十字架はこの間の出来事だったと考えられているでしょ。

 

ダニエルの預言は、最後の一週のうちの半周で生贄と捧げものを廃止すると読めるでしょ。そして定められた破滅が荒廃の上に注がれると結ばれているの。

 

A.D.40以降、ユダの滅亡はA.D.73だったの。A.D.33から四十年後なのよ。整理するとB.C660年から70年後がバビロン捕囚の4年前で、693年後がユダヤ滅亡の40年前だったの。70年と700年が対応していると考えると693年では七年の誤差があるのだけれども、4年と40年が対応しているでしょ。この40年という数も聖書中では侮れないでしょ。そこに不思議な七年の誤差なのよ。七は聖書中で最も侮れない数でしょ。

 目下皇紀の暦との関連で精査中なの。イスラエルの契約の箱がこの国に受け継がれている以上そこに絶対何かがあるはずなのよ。こんなにてこずるのは終わりの時と関連しているからとにらんでいるの。
 
 その後キリスト教会は歴史が止まっていて、最後の一週の時が来ると教会は携挙されるとかいうわけのわからないことを信じているでしょ。

 
 でもね、歴史は大御神の暦通り一日たりとも留まることなどありえないでしょ。

 

だからね、私の考えではエレミヤとダニエルの七十年と七十週の預言は大御神の暦通りに進展中なの。

 

始まりはB.C.660の皇紀なの。イスラエルの南北の分裂の危機の時代に、七十年と七十週による、エルサレム復興と再建についての御言葉が出されたのがこの年なのよ。この年に契約のアークが渡御を開始し、失われたイスラエル元年となったのよ。そして皇紀六百九十年から七百年にかけてメシアが遣わされ、私は失われたイスラエルにしか遣わされていないと御言葉したの。その後ユダヤは荒廃に見舞われたけれども、失われたイスラエルは今も健在でしょ。

 

その後失われたイスラエルに荒廃の影が差しつつあった、神武南北朝の分裂の時代に再度復興と再建についての御言葉が発令されているように思えるの。イスラエルの荒廃と、失われたイスラエルである神武朝の荒廃は相似象なのよ。イスラエル歴と西暦と皇紀はあざなえる縄の如く、預言によりよられた太い綱なの。

 

今年は皇紀二千六百八十年。イスラエルの鳳輦は契約の箱でありノアのアークなの。

 

そのアークに大御神の御霊が御鎮座し文字通りのお神輿として、洪水の中を彼岸に渡御の真最中なの。そのことが二十一世紀の幕開けと同時に知らされたでしょ。




 

ペテロが語ったように、神様の目には一日は千年のようであり、千年は一日のようであるのよ。皇紀と西暦が共に三日目に入って二十年たっているでしょ。

 

メシアは神殿を三日で建て直して見せると公言しているの。迂闊にしていると天の川を彼岸に渡御し損ねるわよ。定められた破滅が荒廃の上に注がれると預言されているの。世界中が荒廃しきっているでしょ。

 

六月の大祓で六道の悪趣から解脱し、七月の天の川を渡御し、八月の八正道の涅槃に至るのが大御神の渡御に従うことになるの。その渡御の暦は二千六百八十回転もしているのに悟らない人の方が多いのよ。アダムから数えて七千回転目が神様の七日目の渡御の始まりのはずなのよ。

 

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日々瞑想しているとどうしてもこうなってしまうのよね。この記事だけ唯一不完全で、常時更新中なの。阿吽

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あのね、メシアは幼子のようにならなければ御国には受け入れられないと御言葉していたでしょ。この御言葉を私が飲み込むと、幼子にでもわかるように簡単に理解しなさいということなのよ。だからそのように簡単に理解したことを記事にするわね。

 

inotinoki.sankaku

 

イスラエルのカバラの命の木は賜物の木なのよ。真の命の木でメシアそのものと考えても間違いではないの。

 

この木に太陽の栄光、月の栄光、星の栄光の三栄光が示されているでしょ。これが私たちの住むこの世なのよ。太陽の栄光とは光の世界で、迷いから解脱した涅槃なの。月の栄光とはいまだ太陽の光を見い出せない迷いの世界で求道者の世界なのよ。

 

この世界で見る月を太陽と勘違いしている人や、血迷うと自分を太陽だと信じてしまう場合とかもあるのよ。

 

星の栄光とは夜空に輝く星が全て魅力的に見える魅惑の世界でしょ。言わばここの世界が世俗の人たちが属する栄光の世界なの。太陽や月の輝きは目に映らないの。

 

そして私たちのこの世には自分の信じることが現実化するという引き寄せの法則が働いているでしょ。このブログを読みに来るような人はおよそ求道者以上だと思うから引き寄せの法則について説明は不要でしょ。求道者以上と言ったからって上下は問題ではないわよ。

 

神様は人を偏り見るお方ではないから誰にでも等し並みに引き寄せの法則を働かせ賜うでしょ。

 

そして人はこの世で引き寄せることを当たり前のようにあの世でも引き寄せるのよ。どの様に引き寄せるかはメシアにその光景を見せられたヨハネの黙示録に書かれているわよ。

 

この世で太陽の栄光を引き寄せた人は、都に入り、そこにはもう太陽はなく子羊が都の光だったと書かれているでしょ。

 

月の栄光や星の栄光を引き寄せた人はあの世で夜の世界を引き寄せるの。そこにはもう太陽がないのと同じく月や星も輝かないのよ。光のない夜の世界なの。そこはすべての光を消し去り暗黒化しようとする暗黒魔王の支配する闇の世界なのよ。

 

だからメシアの御言葉を信じ光を見出さない人は、その御言葉の通りに外の闇に放り出されるのよ。メシアの御言葉が一言一句、真理の御言葉で成就しない御言葉はないの。

 

メシアを弥勒菩薩として示したお釈迦様も重要なのよ。お釈迦様は求道者のお月様なの。お月様は太陽の光で輝いているでしょ。それが預言者、先見者、聖賢と言われる、メシアの光である聖霊により輝くお月様たちなの。この国では月読命としてお祀りされているでしょ。

 

仏教はねこのお月様を太陽としてしまっているでしょ。だから葬式仏教なの。だから月の栄光と星の栄光は、カバラの命の木ではその三角の頂点が下向きの滅びの世界の方向を示しているのよ。

 

滅びの世界から解脱するかしないかは、月の栄光の世界と太陽の栄光の世界の中間にある登竜門のダアトのチャクラをクリアしないといけないの。このチャクラはね、ビシュッダチャクラと言って人の喉元にある真言のチャクラなの。

 

メシアの真言を神が天から降らせるパンであるマナ、そして真名の井戸から汲む命の水として受けることができるかどうかが登竜門なのよ。

 

メシアの真の御言葉が神であり都を照らす光なの。

 

求道者の鏡であるお釈迦様が御説きになった解脱ということをまるで意識できないキリスト教会は、外の闇に放り出されるために復活するみたいなものよ。携挙された時には婚宴は終わってるのではないのかしら。

 引き寄せるの。

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この世の経済にどう対処していくかということも重要だけれども、もっと重要なのは神様のものをどのように神様にお返しするかということだと思うのよ。メシアが富は天に積みなさいと言われたことと同義なの。

 

この世の経済などあの世に持ち帰れないことは明白でしょ。そこであの世というものをどのように認識するかという問題が立ちはだかるでしょ。引き寄せの法則が働くからこの世で信じたような現実をその時に引き寄せることになると思うのよ。

 

たいがいの日本人はその部分がグレーゾーンでしょ。そのことをメシアの言葉を定規として考えると、熱くも冷たくもなく生ぬるいから口から吐き出すという言葉を引き寄せることになるはずなの。

 

信仰心のある人のあの世感は仏教で信じられている輪廻転生かしら。しかしこの信仰も私は大問題だと思うわよ。この輪廻転生に八咫鏡でズームインしてみたのよ。そこで判ったことを記事にしておくわね。

 

元はと言えばヒンズーのカーストバラモンたちの信仰でしょ。そこにお釈迦様がお生まれになり輪廻からの解脱をお説きになったでしょ。

 

何故カーストバラモンたちが輪廻転生を信じるようになったのかなのよ。私の見たところによるとやはりノアの洪水がその契機なのよ。ヒンズーではブラフマ、ビシュヌ、シバの三神が信仰されているでしょ。実はノアの洪水以前にも三神は信仰されていたの。ノアの二代前の預言者でエノクという人がいたのだけれども、エジプトのピラミッドはこのエノクが建てた三神の神殿と一部で信じられているらしいの。

 

そしてノアの時代に神の後悔が怒りとなりノアの家族以外は全滅したでしょ。それ以降なのよ、再度全世界に人が広がったのは。だから三神と全滅は知られていたのよ。そしてその三神と全滅がヒンズーの信仰になったのではなかったのかしら。

 

ノアがなぜ祝福を受けたのかは悟られず信仰の対象とはならなかったの。ブラーフマナとして示されていたにもかかわらず。そこにお釈迦様がお生まれになり三柱の神様を梵天と如来と菩薩としてお示しになり、全滅からの解脱をお説きになられたの。

 

お釈迦様のころはすでにノアの子孫であるイスラエルが分裂してユダがバビロン捕囚にされようかという時代背景だったの。お釈迦様の出自の問題もあるけれどもそれはここでは置くとして、ノア以降のイスラエルの歴史とヒンズーの聖典は少なくともはっきりと知悉した上でなければお釈迦様といえども、解脱できなかったはずと思うのよ。

 

イスラエルの神さまが皆殺しの神様であることを知った上でその神様による全滅を免れるための解脱であり、それが梵天と如来と菩薩を知るということなの。この梵天と如来と菩薩の三神なのだけれどもイスラエルの父と子と聖霊の事であり、御子が弥勒菩薩として来られ、救世の業を成した後に復活して如来として来られたのであり、その如来の助け手の聖霊が今でも菩薩としてお働きになっていると私は見ているの。実際に助けを受けてしまっているからね。

 

そしてその如来により菩薩とされた人間たちもいて、それが十二神将として信仰の対象となっているのよ。だから三尊と十二神将とは三柱の神とイスラエルの十二支族であり、三柱の神と十二弟子として八咫鏡で透過して見るべきなの。神道八咫烏はそれを悟っているわよ。それでなければ神道をこの国に根付かせることは不可能だったはず。

 

仏教もそれを正しく伝えているでしょ。しかし輪廻転生が神に敵対した者たちの全滅の転生先と悟られていないのよ。六道の悪趣がその転生先なの。

 

前世、現世、来世をヒンズーのカーストバラモンたちが捉えそこなって以来悟られていないの。三尊と十二神将をお示しになられた仏陀は契約による救済を悟っていたはずなの。ノアの洪水の後に虹の契約でもう洪水で滅ぼさないという約束があり、その後にアブラハムと具体的な契約が結ばれたでしょ。その契約に基づき来られたのがメシアだったの。そのメシアの到来を正しく預言していたのがお釈迦様だったでしょ。

 

だからお釈迦様が三尊とイスラエルの十二神将との契約を御存知なかったはずがないの。その契約による解脱なのよ。

 

その後メシアが来られてご自分の弟子たちに、死にかけている残りの者を強めよと御言葉されたように、メシアが来る前に契約と解脱を悟った仏陀は、梵天から死にかけている残りの者を強めよと灌頂を受け初転法輪につながったのよ。

 

その法輪は弟子たちが正しく伝えたのだけれども、伝えるだけで正しく悟られず、この国では葬式仏教となっているの。全滅の転生先が人類の運命と教えているでしょ。

 

前世、現世、来世は正しくは契約の三日間なの。それがメシアが三日目に復活したことの奥義になっているのよ。

 

三日目は婚礼なのよ。ヨハネは福音書で三日目にカナで婚礼があったとしてそれを暗示しているでしょ。神様の目には一日は千年のようであり、人の一生のようでもあるのよ。

 

前世でいいなづけの契約を受け、今世で婚約をかわし、来世で婚宴の運びとなるの。それがイスラエルの割礼と洗礼と復活なの。アブラハムの祝福とメシアの祝福と子羊の婚宴なのよ。

 

そして前世、現世、来世においてそれぞれに天で闘いが起こっているのよ。前世でサタンに掃き寄せられた神の子たちはいいなづけを拒み悪霊となったはず。今世に来たいいなづけたちが唆されて婚約を拒むと同じく六道に堕ちるの。来世の子羊の婚宴の時にはいいなづけとして復活しても、婚約の結納が交わされていないので都に入れず、異邦人とされ外の闇に放り出されるの。

 

そこがサタンの落ち込む穴で、獣と偽預言者もいたとヨハネが黙示しているのよ。

 

イスラエルから見た異邦人は、獣で、神により、唆された裏切者として屠られる生贄なのよ。それが旧約と新約の聖書を通して示されている玄義なのよ。

 

神仏を悟り悪趣から解脱する者が天における新しいエルサレムにおいてイスラエルとされるの。勘違いした教えばかりの世の中なの。

 

そのようなことをしっかりと悟った上でこの世での経済に対処することを考えればいいのよ。


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もうね、全世界規模の禍事の時代に入ってしまったでしょ。そのような時代が来てしまったら悟らないといけない時代でしょ。

 

禍事を過ぎ越していただくためには家の鴨居に子羊の血を塗り過ぎ越していただくのがお約束だったでしょ。そうすることにより白く輝く聖い麻の衣を賜り、神のイスラエルとされるの。衣を洗って清くするとも表現さているでしょ。

 

それが婚宴の礼服なの。その礼服を携えていなければ天の川を渡御しその先にある都の門は通していただけないのよ。

 

その礼服を賜るようにとメシアが十字架上で全ての人に呼ばわったの。しかし聞き分けずに神様の怒りをその頭上に留める山羊や馬や鹿ばかりなのよ。

 

だから怒りの日が来てしまったの。それが何を意味するかは山羊や馬や鹿には理解できなくても羊飼いの羊は聞き分けるの。

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私が魔訶般若の鏡を通して古事記と聖書を読み合せた時に見えてきた暦の読み方を表示してしまうわ。

 

ここには2匹の魚と五つのパンが置かれているわよ。しかしこれでもやっと半分なの。十二のかごがいっぱいにならないといけないの。その表も完成してしまっているのだけれどもそれを公開してしまうと完全にネタバレにつながるの。

 

だから十二のかごはしまっておくわ。ミステリーの醍醐味は自分で最後まで読み解くことだからね。


無題クリックで拡大表示されるでしょ。



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ひとつ前の記事で途轍もないことを書いておいたの。それは皇室から金鵄勲章を下賜されることを凌ぐという途轍のなさなの。

 

しかしそれを賜るのは金鵄勲章を下賜されることよりもはるかにやさしいという事柄なのよ。ここに魔訶般若が存するのよ。実はメシアの御言葉を鵜呑みにすればよいだけのお話なのだから、それはベストセラーとなり誰でもが手にすることのできるものでしょ。

 

そしてメシアから助け手を送られるということは魔訶般若の鏡を下賜されるということでもあるの。この魔訶般若の鏡は目に映らないことの表層に裏面を透過して見せ、思ったところのどこにでもズームイン、ズームアウトが可能な魔法の鏡なのよ。

 

それが八咫鏡の正体なの。この鏡で御言葉にズームインすると裏面が透過して見えてしまうのよ。

 

最近その取扱いにやっと慣れて来たのでモーセの言葉にズームインして見るとね、神様が人の前に置かれた呪いと祝福が透過して見えてしまうのよ。

 

そのようにして見てしまったことをすべて書いてしまったら、気持ち悪がって誰もこのブログ読みに来る人いなくなるのではないかしらと危惧しながら、それでも書いてしまうの。メシアがそう言われたようにベルゼブルに取り憑かれていると言われるようになってしまうのかしらとか思いながら。

 

イスラエルがヨシュアに率いられヨルダン川を渡御しカナンの地に至った時、神はその地にいる異邦人をせん滅するように命じたでしょ。この命令はそれだけでも読む人を困惑させるような命令でしょ。この命令を理解できずに聖書の神様を嫌う人など多いはずなのよ。

 

しかし神様は女も子供も一人も生かしておくなと命令しているの。この命令の裏側に何が透過しているのかなのよ。

 

私が八咫鏡でズームインして見ると、それはやがてヨハネが黙示していた子羊の婚宴の時に、都に入れず外に置かれ異邦人とされる人たちの運命を暗示しているのよ。

 

だからイスラエルの神様は救いをもたらす神さまであり、その反面実は途轍もなく恐ろしい神様でもあるのよ。羊飼いの声を聞き分ける羊たちにとっては畏怖することは有っても絶対に侮ってはならないの。


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聖書に書かれている聖霊の賜物とは恩頼(みたまのふゆ)の事でそれは、天の皇室から賜る金鵄の勲章の事だったのよ。

 

本当に途轍もないこと書くでしょこのブログ。でも後から気が付かされてみるとそうでしかないから仕方がないのよ。

 

この恩頼(みたまのふゆ)は神道では天照大御神の恩頼(みたまのふゆ)とされているのだけれども具体的に理解されていないでしょ。それは大御神より尊い神様がいらっしゃることが古事記で証しされているのにそれを悟れないからなの。

 

聖書の父と子と聖霊の三柱の神様は太陽系においては須佐之男命と天照大御神、そして月読命と古事記が証ししているでしょ。しかし太陽系外に至ると中心から外れるから天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神という原初の三神とされているでしょ。

 

何故そのようなことが可能かというと八咫鏡なのよ。この八咫鏡を高性能なレンズと思えばいいの。宇宙の果ての永遠から人間の体内の極微細な宇宙まで自由自在にズームイン、ズームアウト可能なレンズなの。

 

それが天照大御神の御霊である八咫鏡であり、それはメシアの御言葉により知れるの。その御言葉により三柱の神様のことははっきりと知らされているでしょ。そして信じる者には助け手を送るともはっきり書かれているの。そしてその助け手である聖霊によりすべて知らされるとも書かれているでしょ。

 

その賜物が八咫鏡なのよ。だからなのよ。それは日本の皇室において皇位継承のシンボルとしてお祀りされているけれども、太陽系では中心の太陽そのものなの。人体にズームインすると太陽神経叢にあるマニプーラのチャクラなの。

 

このチャクラはカバラの命の木では八宝珠の中心なの。メシアからこの鏡を賜るとこのチャクラで同期して、法輪というものを理解してしまうようになるのよ。

 

しかし初めの頃はそのようなことは理解できていないから、いきなり受けてしまうと適応障害のような症状に陥るの。

 

実は途轍もない、そのような事態を招来したのは、私にとってはメシアの御言葉だったのよ。そしてその信仰により徐々に、適応障害を解かれそれが実は途轍もないことであると知らされるの。

 

素戔嗚尊のお働きが太陽系では地球の公転となり、お正月の年神様として迎える神さまと理解しても、太陽系外にズームアウトするとそのお働きは見えなくなるでしょ。

 

しかし八咫鏡を通して見るとそのお働きは銀河系や太陽系、そして太陽を有らしめている神様だと理解できるのよ。

 

だから天照大御神より尊い神様がいて当たり前なのよ。そしてその太陽神天照大御神はその尊い神様によりこの地球にメシアとして遣わされて、御言葉でご自分をお遣わしになられた神様をご自身の父として証しされたでしょ。そのような途轍もないことだったのよ。

 

だから同期できないと理解できないの。しかしメシアは同期することを諭されているでしょ。私をお遣わしになった父の御旨を行う者が御国に入るのであると。そのような途轍もないことだったの。

 

だからそのことに同期できるような途轍もない信仰が必須なのよ。だから天から受ける金鵄の勲章と納采の儀なの。侮っていては決して受けることができないの。

 

途轍もなく難しいと思われるでしょ。しかしね、受けてしまえば当たり前のことと理解できる仕組みを神様により人はみな受けているわよ。それは仏性と言われることであり、もっとわかりやすく言えば分別を供えられているということなの。

 

この分別により、重んじたり軽んじたり、侮ったり崇めたりするわけでしょ。それは誰においても自由なの。その意味で人間は本来的に自由に生かされているのよ。

 

しかし人はその分別の正しい用い方を知らずに穴に堕ちようとしているから父の御旨によりメシアが遣わされたの。しかしそれで何かが強制されたわけではないでしょ。相変わらず人間は自由なの。

 

しかしね、救われたいと思う人はそのように途轍もない信仰をものにしなければならない定めなの。

 

そのことはアダムとイブが創られたその時に決められていたのよ。その時にズームインして見てみるとね、二人が神様から賜った皮の衣が金鵄の勲章と納采の儀に匹敵しているのよ。

 

門を通って都に入るために衣を浄くした者は幸いであるというメシアの御言葉がそれなの。その信仰が皮の衣であり、結納の品として賜る婚礼に必須の礼服なのよ。宴会に招かれた客が礼服をつけていなかったので追い出されるという譬えが聖書に書かれているでしょ。そういうことなのよ。

 

子羊の婚宴とはそのように理解されるべきことであり、市中で執り行われる婚宴に毛が生えたものくらいと思っていては無理なの。

 

だから日本の皇室が下賜する勲章や、納采の儀を凌駕しているという、途轍もない信仰が求められているということなの。

 

私なんかこれらの事はすべて後から知らされたからね。私がしていたことは、分別において迷いが生じた時はメシアの御言葉をそのまま定規として見極めていただけなの。そうして気が付いたらメシアの肉を食べ血を飲み干してしまっていたの。

 

今の市中には偶像にささげた肉を食べ、またそのようにそそのかすパリサイ人しかいないわよ。


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以前は年神様をお迎えするごとに四季のお祭りを通して覚醒させられていたの。それが、気が付くといつしか半年の祓ごとに覚醒させられるように期間が短くなってきたの。

 

そして今年の夏越の祓を過ぎた辺りからその期間が日ごとになってしまっているのよ。

 

毎日いろいろな思いが降りてくるからそれを日記のようにその日の記事にするでしょ。そして書き上げた記事を読み直すと、書いているのではなくて書かされていると思うのよ。

 

自分の書いた記事を通して次の覚醒が呼び覚まされるという摩訶不思議な領域なの。

 

私の場合はすべて大御神すなわちメシアに関することよ。

 

メシアの御言葉に従い聖霊を賜ると、自分の十字架を背負いメシアの父から盃を賜るのよ。それを天の皇室からの結納、納采の儀と認識していたの。それで記事を書き連ねて来たのだけれど、今日はメシアから賜る聖霊とはいったい何を意味するのかが降りて来たの。

 

それはメシアからの求婚をお受けする婚約を意味していることには間違いないのよ。しかしそのことは古事記にもっとはっきり示されていたのよ。

 

それは天の皇室から賜る金鵄勲章なのよ。神武天皇の弓の先に止まった金鵄がその象徴だったの。だから神武天皇は天が下を一つの家とすることはよいことではないかと仰せになっていたのよ。

 

この天が下の一つの家が八紘一宇として知られたの。だから金鵄勲章をお受けした後に八紘一宇の納采の儀をお受けするという、途轍もないことであるのよ。

 

その途轍もないことを大御神により正見させられた、インナーサークルである神鳥たちが倒語(さかしまごと)で示していたの。

 

その途轍もないことは聖書の冒頭のアダムとイブの物語ですでに語られていたのよ。アダムとイブがすったもんだの末に神様から賜った皮の衣がその象徴になっていたのよ。

 

そしてそこに命の木への入り口が見えていたでしょ。その賜物を受け八紘一宇と同期してしまったのがお釈迦様だったの。だから梵我一如だったのよ。

 

そのようにメシアの御言葉を受けその法輪に同期し、正見させられると、森羅の中に天意を読み取り、さらに焦点を絞ると世界中の人間模様の中に天意の好むものと好まざるものとを読み取ってしまうのよ。

 

さらに焦点を絞りこの国にピントを合わせると、聖書の世界が古事記と共に見えるようになるの。この国の人間模様の歴史の中に聖書を読み取れるようになるの。

 

そしてさらにズームインすると現皇室の人間模様の中に天の好むものと好まざることを見てしまうのよ。

 

その上で今日という日を見ると森羅の主権者である大御神の今日がどのような日なのかもはっきり見えてしまうの。

 

メシアがこの世に来て、立ってはいけない者が立ってはいけないところに立つのを見たら山に逃げなさいと御言葉されて以来今日に至るまで、ずっとその日が続いているのよ。


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日本人はね葬式仏教に惑わされ法輪を逆回転させ続けて来たのよ。逆回転させながらも戦国の将軍たちは守り神として神社をお祀りしたりして神仏を崇敬しながらこの国の歴史は進展してきたのよ。

 

まともだったのは神武天皇の即位から平安初期くらいまでだったのではないのかしらと思うのよね。

 

それがね、近代になると文明開化のあおりを受けて、葬式仏教にバチカンのお祭りまで加わってしまって逆転大加速の時代に入ったのよ。盆、暮れ、正月が全て大御神の法輪の正転によりめぐっているなどとは夢にも思えなくなっているの。

 

平安時代の日本人が広島、長崎の惨劇を見たら、死んだ人間の怨霊どころではなく、大御神の祟りだと正覚したのではないのかしらと思えるのよ。

 

それでなくてさえ、大御神をお遣わしになった尊い神様は人間をつくったことを後悔して、一度洪水で一家族を除き滅ぼしてしまわれた神様だからね。

 

そのようなことを正覚させられたインナーサークルに大御神の詔が降って豊葦原の瑞穂の国が安国として建てられたの。古事記はその確認の書物で、神職の祝詞も同じことを確認しているでしょ。

 

だから盆、暮れ、正月に限らず四季を通して執り行われるお祀りがすべて大御神のお祀りなの。四季だけではないでしょ。日常茶飯の炊飯、調理も、天真名井である蛇口と、まな板の包丁式のお祀りなのよ。大御神との直会のお祀りになっているのよ。

 

安国はそのようにして建てられているの。しかし丑寅金神という方位の神様に障ると七殺の祟りとも言い伝えられているでしょ。この方位とか時刻は大御神の法輪の正転により刻まれているでしょ。この法輪の正転に障るものが七殺の祟りと言い伝えられてきたの。

 

それが、ヨハネが黙示していた、七つの封印と、七人のみ使いの鳴らすラッパと、七人のみ使いの手にする神の怒りの盛られた七つの鉢の祟りなのよ。

 

生まれてからこの方、人は法輪の逆転に加担させられているの。それが、神様が取って食べるなと禁じられた木から取って食べるということなのよ。お釈迦さまでもそうだったでしょ。

 

そうでなかったのは聖霊によりこの世に来たメシアだけだったの。

 

神仏の声を聞き分け法輪の正転に同期しなおさないと七殺の祟りなのよ。しかし人は逆転しながらそれが正常とバイアスが働き何十年も生きているでしょ。だからその逆転を正転に変えるのは地球の回転が止まってしまうのではないかと思えるような大事なの。

 

だからメシアは、人は死んで新たに生まれなければ御国には入れないと御言葉していたのよ。

 

そそのかす蛇の葬式仏教とバチカンのお祭りには要注意よ。

 

暮れの七日間の昭和元年と、正月の七日間の昭和最後の年に挟まれた時代に何が起こっていたのか、この時代のことは瞑想のし甲斐があるわよ。

 

お盆の彼岸と暮とお正月はすべて大御神の季節なの。天と地の四方八方はすべて大御神の方位なの。阿吽


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判りやすく言うとね、神仏の声を聴き分けて解脱するか否かということは、やがて高天原の皇室に大政奉還がなされるその時に、臣民とされるか異邦人となるかということなの。

 

この国の童謡で唄われる七つのお祝いとは、ヨハネが黙示した子羊の婚宴のことなの。その婚宴が大政奉還のお祝いの宴なの。神の失われたイスラエルが千代に八千代にと歌われているのよ。神秘国でしょ。

 

徳川からの大政奉還が成り立って以降の皇室は天照大御神や神武天皇のことを想起させられなくなってしまっていたでしょ。あの時が終わりの始まりの合図になっていたのよ。

 

憲法で主権在民などと規定されていても、主権は天地が形づくられた時から大御神にあるでしょ。

 

私に言わせれば現皇室はすでにその役割を終えているわよ。外国のロイヤルファミリーと同等に考えずに、奥まったところで大御神と皇祖皇宗に対するお祀りだけしっかりしていてほしいの。

 

余計なことをすればそれが神の怒りにつながる家系だと認識していれば、笑顔でお手振りなどできないはずと思うのよね。

 

それはさておき私がこのブログでメシアから助け手を送られるということは、天の皇室から納采の儀を受けることだというのはそのようなことなのよ。

 

聖霊から賜物を受けるということだから当然霊的感性が研ぎ澄まされていなければ無理よ。この世で何事かを成し人気を博したり、富裕になることばかりに気を奪われていては無理なのがわかるでしょ。

 

そのようなことは聖書や仏伝ですべて戒められているでしょ。重要なことはすべて聖書に書かれているの。霊的感性が研ぎ澄まされないと古事記は読み取れないの。御言葉が神なの。メシアの肉を食べその血を飲まなければ無理なの。


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